結婚できる、できない、って言い方

結婚できる、できない、って言い方が嫌いだ。
結婚するために、とか、結婚したいあなたに、というのはまだわかるのだけど、結婚できない人がこれだけいる、とか、結婚できないのーとかいう言い方が嫌だ。

どうして嫌なのかというと、結婚しなくてもいいだろうと思っているからだ。みんなが結婚したいと思っていると常識のように考えるのは間違っていると思う。

この前トップエントリで、大卒の女性が増えたから結婚できていない、妥協するべき、と書いてあった。
自分の人生を生きるための勉強を明らめ、一生を共にする伴侶を妥協するなんて、あらゆる意味で失礼だ。

一番良いのは、自分で生きる力を持っていて、それでもなお、人と一緒に暮らしたいと思うときに、力を合わせたい相手と出会うことだ。

出会うのは難しいけれど、ネットで自分の意思を発信していたらそれに共感してくれる人が現れるかもしれない。たぶん、現れる。

一人で生きることはすがすがしいことだ。その反面、緊張と共に生きることでもある。

正直に言って、いろいろな媒体で、「夫がこんなにもできない」という、例えば、洗濯機に洋服を入れないだとか、料理をしないだとか、インフルエンザでも家事をさせるとか、そういうひどい話を聞くにつけて、どうして、わざわざそんな男と結婚しないといけないのか、恋愛じゃダメなのか、と思う。男を教育する。そういう表現もある。どうして、大の大人を教育しないといけないのか。恨まれてまで。

生活能力がある人は、サイコパスの可能性が低いと感じている。
稼ぐだけの男は、サイコパスの場合があるから怖い。
年収や目に見えることだけで、伴侶を決めることには危険がいっぱいだ。
一緒にいるとき、感情を乱されないか、自由を曲げられないか、それを観察しないといけない。
観察していると、伴侶にしたいと思える人がそれほど多いとは思えないと気づく。

わたしには凸凹があるから、相手にも完璧は求めないけれど、意識として、家庭を運営するという心持がある人じゃないと嫌だ。わたしのことをわかって、生かしてくれない人は嫌だ。

恋愛は甘く、恋に落ちた時には相手の悪いところは見えていても、良い風に解釈してしまう。でも、生活は別だ。一緒にいて、いらいらする相手とはいたくない。

本当はみんなそう思っているんじゃないのか?寂しさはネット経由の友人で埋められる。あらかじめ家族がいる場合もあると思う。寂しさは動くための、人を探すための原動力になる。そのさみしさでもって、人と出会うことができる。寂しさは大事だ。

結婚できる、できない、結婚まだな人、いい年なんだから、と言われたことがある。
不愉快だったので、人間関係を切った。わたしは人にどうこう言われたくない。わたしの中に押し入ってほしくない。

わたしと結婚できると思った人は、急に手を抜いたり、悪い甘え方をして来たり、高をくくってきたりする。なだめたら、大丈夫だと思っている。全然大丈夫じゃないから、わかれる。

結婚なんて、ただの紙だ。別れるときにすごく苦労するから、多少の理不尽を我慢することと引き換えにする契約だ。

わたしは契約なんてしたくない。人間関係は自由にしていたい。国に管理されるのもまっぴらだ。

結婚できる人はまとも、という風潮があったり、「もてる」という言い方があったりするけれど、それもどうかと思う。結婚していて、かつ、ろくでもない人もいるし、結婚していなくてもろくでもない人はいる。結婚ともてることは関係がないし。もてることがいいこととも限らないし。

常識を疑って、それが自分にとって、幸せかどうか精査することなしに、時流に乗っかっていくことが、正しいのか。
わたしはそのことに懐疑的なので、結婚できる、できない、って言い方が嫌いだ。

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