健常者の「おれは迷惑かけてないという謎の自信」はどこからくるんだろ

わたしは、自分が障害者だと知らなかった頃から、なんとなく、迷惑かけてるかも…と思ってきました。
それと同時に、いや、わたし悪くないでしょ、理屈的に、とも思っていました。
わたしは理屈が好きな子どもでした。

理屈や言葉で示されたことをそのまま受け取りました。

だから、大人の女になったとき、「愛している」「守ってあげる」と言われて、自我もお金も全部受け渡しました。その人は、わたしをサポートすると言いました。
その人、に当てはまるのは、母親だったり恋人だったりしました。
そのときによって代わりました。
それは、わたしのためになりませんでした。

生きたいように生きられないので、ストレスが体に出ました。
わたしは逃げ出して今は元気です。

発達障害者を愛玩して、自立させないこともできてしまうから、「愛」を発達障害の良い例にされると困ります。

発達障害者と定型の人の違いって、わたしにはよくわからない点もあって、発達障害者が「迷惑をかけている…」と小さくなっている横で、迷惑をかけているのに気がついていない定型の人も良く見かけます。その謎の自信はどこからくるんだろうと思いますが、そこの自己肯定感が、わたしにはなくて、定型の人にはあるということなんだろうと思います。

自己肯定感が、健常者の「おれは迷惑かけていないという謎の自信」に結びつくような気がしますね…。

自己肯定感がないと、搾取されます。お金も愛も性も。

ただ、愛をサポートの基本においてしまうと、人権の簒奪が起きかけないです。
愛はとても危険な代物です。

定型の人も、発達障害の人も、他人にかける迷惑がわからないなら、その違いは何だろうと思います。

わたしは、もしかしたら、変なのかもしれません。
でも、わたしから見ると、定型の人が変に見えます。

発達障害者を、歩くときにつぶすアリのように例えたり、誰かを踏む覚悟を持って本を出すときの言い方で、「空気を吸っても迷惑をかけることもあるのだから、恐れず、社会が豊かになる方向でやろう」と言えてしまうのは変だなと思います。

いつまでも、わたしはしつこいなと思います。

こんなわたしは、自分でも好きではありません。

c71の著書

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