わたしの最初の思い出は赤く腫れた細い太もも

わたしの最初の思い出は、手の指の形に真っ赤に腫れた太ももと、それを撫でさすりながら、わたしを抱え込む母の熱さ重さ圧力、涙の落ちる光の影、詫びる声と、「そんなには痛くないから大丈夫だよ、おかあさん」というものだった。

涙が混ざって背中でぐしょ濡れになっていて、それが暑苦しかった。
わたしは逃げ出したいような、おかあさんを抱きしめてあげたいような気がしたので、おかあさんを抱きしめた。

おかあさんの手のひらよりも細いわたしの太もも。
「こんなに小さいのにぶってしまって、ごめんね。ごめんね、悪いおかあさんだね」
わたしが悪いことをしたのだから、おかあさんは、謝らなくていいのに…、とわたしは思った。

わたしは大きくなって、精神科にかかりたいと言った。
おかあさんは、だめだ、と言った。
「興信所に調べられて、就職も不利になる。あんたはそれでいいの?その責任が自分で取れるの?」
わたしは、どんどん無理になっていった。秘密が多すぎた。
わたしが本当に傷ついたとき、おかあさんに言ったら、おかあさんは聞こえない振りをして、
「寝る」と言って部屋に閉じこもって十二時間出てこなかった。明かりもつけずに。
何度か呼びにいったけれど、おかあさんは口をきかなかった。

わたしはどんどんだめになっていった。
生きていくのが無理になった。
家から出られなくなった。
友だちを家に呼ぶのは、小学生の頃から禁止されていた。靴がないのが不思議に思われるでしょ、家が散らかってるでしょ、恥ずかしいでしょ、親のいない間に人を呼ぶなんて、なにかあったらどうするんだ!と言われて。

わたしは耳鳴りがして、頭痛がして、いつも何か不思議なものが見えるようになっていた。
他の人が聞こえないものを聞いて、他の人が見ないものを見ていた。いつもじっとしていた。
不思議に思われた。からだが動かなくて、何度も病院で検査したけれど、何もなかった。
いや、何でもあった。
血液の数値も、すべてが異常で、アレルギーも、婦人科系の病気も胃腸炎も膀胱炎も腎盂炎帯状疱疹も中耳炎も発症していて、いつも熱が出ていた。おなかが痛くて、倒れて、早退するにも歩けなくて、誰にも助けてもらえなかった。

日記に、「わたしは誰にも助けてもらえない。助けは来ない。神様は来ない」と書いた。

おかあさんは、ある日、「わたしはACだったんだ!」と叫んで、おいおい泣いて、カウンセリングの勉強というものをはじめた。

わたしは、二十歳になって、精神科を受診してもいい、と言われた。
「精神科に行かせてあげるなんて、そんな親、いないからね」と言われた。
「あんたは、あたまが、おかしい」
「あんたは、じんかくしょうがいかもしれない」
「病院に行く人はおかしい人が多いからね」と、言った。
認知行動療法をしなさい」
自律神経失調症だから…自律神経を安定させる練習をしよう」
「なんであんたは力が抜けないの!リラックスしなさい!」

「感謝しろ!」

精神科の先生とお話をした。おかあさんのことを自慢ばかりした。おかあさんはすごくて、立派な人で、わたしはだめな人間だから今すぐ死にたいです。
「家を出なさい」「お金は使いなさい」と言われた。
わたしはそれができないでいた。

おかあさんはカウンセラーになりたくて、とても偉い立派な人なんです、自分の心の弱さが克服できたって、それで、わたしにもカウンセリングの勉強をしなさいって、と、先生に言ったら、
「そういう人がこっちの業界に来ること、多いんですけど、迷惑なんですよね。まず、受診してもらわないと…」
と、先生は眉をしかめた。

おかあさんは、いざとなったら、わたしを守ってくれる、と信じていた。

でも、わたしが倒れて救急車で運ばれたときに最初にしたことは怒声を浴びせてつかみかかって点滴が外れそうになってひやひやしたことだったり、神経がちぎれて、緊急入院したのに連絡してから三日かかって来たり、するおかあさんで、でも、わたしはわたしが死にそうになったら、おかあさんはわたしを守ってくれる、と思っていた。

ともだちが、おとうさんに連絡しなよ、と言ってくれて、それは絶対だめだから、と言い合って、ともだちは、じゃあわたしが連絡するよ、といって、携帯電話を無理矢理取り上げて、わたしはわんわん泣いて、おとうさんは「連絡をくれてありがとう」と言った。

おとうさんは「知らなかった、知らなくてごめん、弁護士に、絶対連絡を取るな、と言われていて」と言ったので、わたしは怒っておとうさんを二十四時間なじった。
おとうさんはそれでも毎日働きに行って、ごめんごめん、と言った。
わたしは大声で暴れた。

「おとうさん、なんで、説明してくれなかったの。わたしずっと待っていたのに」
「おかあさんが、絶対に、説明するな、それがこどものためだと言ったんだよ」

小さい頃、おかあさんに、どうしてお父さんは説明してくれないの、わたしだってわかる年なのに、といったら、「どうしてなんだろうね、ひどいね、不思議だね。あんただってわかる年だし、わかるように説明しないおとうさんはいけないね」と言っていた。

おとうさんの言っていることは静かに静かに染みていって、わたしの心の音は小さくなって、そのあとドキンと大きくなった。

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わたしの最初の思い出は赤く腫れた細い太もも」への2件のフィードバック

  1. 私も(父も母も)ACという診断をカウンセリングで受けたことがあるのですが、このエントリを読んでいたら涙が止まらなかったです。ブログの更新、いつも楽しみにしています。

  2. ありがとうございます。
    重い記事が続いていて申し訳ないです。
    本人は元気なのですが、こういうことを思い出す時期みたいです。わたしも涙が出たけど悲しいとは違う感じでした。
    悲しいより明るい感じでした。

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