虐待されたと公には語ってはいけない、のか

このツイートは、必ずしも、「虐待されたことを公に語ってはいけない」とは言っていないのだけれど、「虐待されたことを語るならば、連鎖を止めろ」ということを語っている。

それは可能だろうか?

考えたみたい。

考えた結果、まあ話すことにしたんだけど。

虐待された人は、虐待されている状態がデフォで、世の中に放たれるから、やっぱり、自分を虐待するような人と一緒になってしまって、虐待され続ける。

それは、自己肯定感が少なくて、愛に飢えているからだましやすくてちょろいから。
そして、自分が暴力にさらされても、それが当たり前だと思って、暴力を受けることを疑問に思わない。

そして、自分が虐待されていたから、暴力に対するハードルが低いという意味で、自分も虐待する側にまわってしまう。

自分が虐待されるし虐待するし、もうわけわかんない、ということになる。

実際、虐待する母親はそれが楽しくてしているわけではなくて、したくないけれど、止められなくてしてしまうという人もいるようだ。

父親のことは知らない。

確かに、自分が虐待されていた、ということを話すのは後ろめたい。

だって、「おかあさんが、育ててくれたおかあさんが、非のある人間だということを公にする行為」だから。

でも、虐待されていたことに、気がつくのは、虐待を止める第一歩である。


これは、逆で、虐待の連鎖を止めてから「初めて語ることができる」というのでは遅いのだ。
虐待されていた、ということを話すことで、初めて、虐待の連鎖を断ち切れるのだ。

子どもに手がかからなくなってから?それでは遅い。

子どもを持たない予定かもしれない/女性とは限らない/生めないかもしれない/途中で死ぬかもしれない/育てることができないかもしれない。

虐待されていたことを話すのに資格はいらない。

似ているのは、当たり前のことだ。

気づいていないわけがない。
虐待されていた人が、気がついて、最初に本を読んでたどり着く事実が「大人になってからも、自分は虐待されやすく、虐待しやすい人間だ」「ACは親と違う人生を歩もうとしても、全く同じか、全く逆の人生を歩みやすく、その影響からは逃れにくい」という事実だ。

「そんなことも理解しないのか」という言い方を聞くと、「うっ」となる。自分が責められているわけでもないのに、苦しくなる。

でも、よく考えたら、別に否定するようなことじゃない。

わたしたちは、母親に似ている。虐待され、虐待するかもしれないという点で。
虐待の状態を、普通だと思い込まされている点で。
その習慣で。
生活上の小さなしぐさが。

だからこそ、「わたしは虐待されていた、おかあさんはこうだった」と人に話す必要がある。

主治医に「わたしはおかあさんに似ているかもしれない」と話したら、
「まあ、同じ人類だから、無理に探せば似てるところもひとつくらいは見つかるんじゃない?お米を食べるとか」と言っていた。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

虐待されたと公には語ってはいけない、のか」への2件のフィードバック

  1. こんばんは。
    わたしはこの記事とても好きです。
    なぜなら理解しやすいから。
    わたしも一人の被虐待児としてそして母親として虐待の連鎖を恐れている者だからです。
    生まれてからずっと恐れています。
    それがこの記事で少し気持ちら楽になりました。
    わたしももっと虐待されていた自分を語り親を語りたいと思えました。
    ありがとうと言いたい記事です。

  2. こんばんは!
    理解しやすいと言ってくださってありがとうございます。
    そして、気持ちを楽にできてよかったです。
    恐れていると萎縮してしまって、いいことがありません。
    虐待は減ると思っています。気がついたら、その分、少しは減少しているはずです。それを信じています。
    記事を書いて、ずいぶん気が晴れました。ああ、書いてしまった、という気持ちと、ああ、書いたぞ!という気持ちの両方です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください