感情と理屈のはざまで

少子化問題に関することは、国がやればいい。
市民は、自分が生みたかったら生み、生みたくなかったら生まなくなればいい。
ただ、国は、誰もが生みやすい、育てやすい環境を作る義務がある。

だから、子供を持つ人、持たない人を、市民同士で責めるのは、意味がない。

自分の子供だろうとそうでなかろうと、育てられる世界がいいと夢想する。

高齢者を安楽死するほうがいいとか、お金がないから福祉を削るとか、言う人もいるけれど、それは、理屈に流されていてバランスが悪い。
そもそも何が大事なのか。
国じゃなくて、市民一人一人だろう。

フランスやドイツの例を見ると、福祉を充実しても、それほど財政の悪化に相関性がない国はたくさんあるし、子供が生まれたからと言って、経済発展に相関するわけでもないらしい。
だから、単に、子供が生まれたらうれしい、その気持ちだけで生むといい。

結婚したいのにできない人の気持ちはわからない。したい、という気持ちがわからない。
若い人たちが、結婚したがっているというのもピンとこない。生徒さんたちは結婚願望がなさそうだ。彼氏やパートナーはほしがっているけれど。

国税調査の速報だと、結婚は横ばいで、そこまで早婚傾向になっていないらしい。

仮に70%の若い人たちが結婚したがっていたとしても、局地的なものであって、全体では違うのだろうか。

結婚したら勝ち組というけれど、何に勝つのだろうか。世間体からの目?

世間体に褒められても、現実の生活の面倒は見てくれない。

国が理屈で政策を立てて、市民が感情的に監視するのがちょうどいいバランスなのだろう。自分の利己的な都合に合わせて、国を変えていきたい。

国がいつでも正しいかというと、それは間違いで、いつも間違いをする。だからといって、なくなったらいいとは思わない。間違いながら、運営していくのがいいと思う。

間違えたとき、それは間違えだと市民が声をあげられる、風通しの良い環境が必要だ。

子供は親と別人格だ。生むのはエゴだ。でも、エゴが悪いかというとそうでもない。
せめて、エゴで生んだのだから、その人を、つまり子供を幸せにしたいと願うだけだ。

好きな男の子供の顔を見たいという欲一つだけで、子供をほしいと思う。理屈では子供がいないほうが、金銭的にも時間的にも豊かな生活を送れると思うが、好奇心が理屈に合わず、顔を出す。

わたしは、子供を生んでも生まなくても、授かりものだから、どちらにしても、自分が幸せだということを保ちたい。

今日は躁転したために、過食をしそうになったけれど、袋菓子の途中でやめられた。すごく進歩した。幸せに近づいていると思う。
自分をコントロールできないことや、コントロールにエネルギーを使うことはつらい。できるだけマイルドになりたい。
感情に引っ張られすぎて、自分の意思が尊重されない状態だ。

感情と直感はたいてい正しい。でも、感情だけでやっていくと、ほかの人と摩擦が増える。だから感情を伝えるときには言葉を工夫する必要がある。そんなときに、理屈を使う。

高齢者を安楽死させたら、合理的かもしれない。でも、その合理性は、誰のものなんだろうと思う。誰にとっての合理性なのか。
それを教えてくれるのは、感情だ。
感情が拒否するものは、どこかいびつで正しくないものだ。

結婚をわたしがしたくないのは、もともと日本には戸籍がなくて本格的に運用されたのが、戦争のとき、徴兵制を整備するためだったからだ。
人口を把握するには税金の取り立てだけで済むのに、戸籍にわざわざ、いちいち、誰と誰が家族で、誰の子なのか書く制度は、歪んでいると思う。
韓国と日本しかない制度だから、戸籍に入る=家に入るのは、わたしは嫌だ。

戸籍に入りたい、名前を失いたい、家に入りたい人の邪魔はしない。理解はできないけれど。向こうも私を理解できないだろうけれど。

感情と、理屈のはざまで、仲良くできたら、距離を置いて、お互いの邪魔をしないで済んだら、それが素晴らしいことだと思う。

c71の著書

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