抑圧者は抑圧者であることを喜ぶのか

結論を先に言うと、抑圧者は、抑圧していることに気づいていないので、抑圧者である立場に感謝しない。

「俺は抑圧している側だ!ラッキーだ!」と思っている抑圧者がいたら、ずいぶんと自覚的な人だと思う。

メリットがわからないくらい、浸透してこその差別だ。

踏んでいる側に足の裏にあるものの感触がわかるはずもないし、踏んでいることに気づいたからといって、相手に痛覚がある、ことも理解できない。相手が怒ったら、突然怒られたと思うだろう。常識をわきまえない無作法な相手に。

男性が抑圧されているというのは、本当の話である。

女性差別がある。それは、性別による規範をわけるものである。だから、男性であっても、規範から逸脱する人間は、「男性以外」とまなざされるので、「被差別者」に変わる。差別されるものになりたくない、というプレッシャーが、男性にとっての抑圧だ。

男性は、男性であることのメリットがわからない。
たとえば、男性と女性の収入格差は、男性が年収平均約500万円のところ、女性は、250万円だが、男性はそれを通して「お、おれは男性で良かった!」と思わないだろう。
それどころか、「いいな、女は、結局、家庭に入ることを考えればいいんだから…。一生働く俺とは違うし、家庭を守る、っていう重荷がきつい」くらいに思うんじゃないかと思う。想像だけど。

たとえば、自閉症スペクトラムの人が、奇異な行動をとったとき、定型はどう思うかというと、
『迷惑で協調性のないやつのせいでひどい目に遭っている俺は被害者だ』と思うんでなかろうか。

自閉症スペクトラムの人の生きづらさは、定型の人が大多数であることに起因している。(自閉症スペクトラムの人が大多数の世の中になれば、システム自体が変わる)

だから、この構造は、差別に近いのではなかろうかと思うのだけど。

定型の人は『ああ、よかった、俺は定型発達で!』とは思わないだろう。当たり前のことに感謝するやつなんていない。まあ、言っても、彼らはたいへんそうだなあ、かわいそうだな、くらいじゃないだろうか。
まず、自閉症スペクトラムの人を見ても、自閉症スペクトラムだと診断できないし、目で見てもそれはわからないことだし、定型発達のメリットを享受している自覚がないからである。

構造が同じということを言いたいので、定型の人は悲しくならないように。

誰でも、マイノリティになりうるということなのである。そして、誰でもマジョリティになるし、そのとき、その自覚はないのだ。

だから、抑圧者は、抑圧者であることを喜んだりはしない。抑圧者は、自分が「世間の道理を理解しない、常識を知らないやつら」に、迷惑を受けている被害者なのだ…と思う。
加害者でいることはつらいのだ。世界のルールの番人でいなくてはならないのだから。

彼らは、抑圧者としての立場を手放したりはしない。
差別側であることを認識しなくてすむのが、そもそも、差別側の大きなメリットなのだ。

だから、差別者だ、と意識させられること自体が、大きな危機になる。

発達障害の人は、定型の人に合わせていくような道を選ぶし、定型の人は、定型の人に合わせるように成長しろと、サポートする。

今までの男性側の認識は、男性も差別と抑圧の被害者だということだったのに、一方的に加害者だと言われることで、自意識が揺らいでしまう。自問自答する必要がなかった自意識なので、ちょっとした風にも弱い自意識なんだろう。

女性が怒り始めたとき、男性がうろたえ、逆襲を受けたと怯えるのは、自分たちが、変えられると恐れているからなのだ。

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