愛と結婚と発達

今日も一日が無事に終わりました。
嬉しい、本当に嬉しい。

体調はいまいち良くなくて、一日中寝ていました。
ヨガは行きましたし、ヘルパーさんと一緒に片付けをしたり、料理を作ったりしました。
今日はキャベツロールでした。十分くらいでささ、と作ってしまわれたので、すごいな、と思ってみていました。ゆでてから巻くのです。

やせたいなあと心底思います。華奢なワンピースが似合わないからです。恥ずかしいなあ。

ブログの訪問人数が落ち着きました。一時期、九百人を超えてきていたので、数字に興奮してしまいました。今日も二百五十人くらいいらっしゃってるから、多いのですけれど、少し落ち着きました。

結婚をどうしようかと迷っています。
相手がいるわけではないのですが、結婚するのかしないのか、迷っています。
とりあえず、後悔しないように、人と会うだけ会おうと思っています。

わたしは社会的発達が遅いようなので、普通に暮らしていると、自分が結婚したいと将来思う年齢と、子どもが産める年齢がずれてしまうんだと思います。

周りの人のように、どうしても結婚しなくてはいけない、という風に焦る感じではないです。

一人でも楽しいけど、わたしがわたしであることを受け止めてくれる人がいたら、もっと楽しくなるだろうな、と思って、人と会うのは悪くはないんじゃないかな、とも思います。

社会的発達と体の発達のずれは、難しいものがあります。わたしがその気になったときに、間に合わなくなってしまうことが今まで多かったからです。気がつくのが遅いです。世間で「こうするのが当たり前」ということがよくわからないからです。成長してからやっと、「あれはこういう意味だったんだ」とわかることが多いです。

前もって、こうなるとわかっていたらそうしたのかな、でも、心の準備が間に合わないことを先回りしてやれと言われることの方がもっと困るのかなと、思ったりします。

わたしは、愛されたいわけじゃないと思います。

愛してほしいと思っていることは思っているのですが、わたしにとって、それは危険だと思います。
愛してほしいと思うと、奴隷になってしまうからです。
その人のすべてを肯定して受け入れたくなってしまうからです。そうすれば、愛してもらえると思ってしまうからです。
愛はよくわかりません。愛は難しいです。

愛されるよりも、確かに大事にされたい、尊重されたい、という気持ちです。
大事にしたい相手から、大事にされたらすごくいいな、と思います。

わたしは贅沢に誰かを愛して大事にして、その人の子どもをどうしても産みたい、と思えたら、結婚してもいいかもしれないと思います。

c71の著書

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