旧型コンピュータ≠わたし、には心があります

旧型コンピュータには心がないのか。
わたしは、人の表情を読み取ることは苦手だけれども(顔を見るのが苦手、顔を見て表情を認識するのが苦手、表情を記号として理解するのが苦手)、心はある。

悲しくなったり、嬉しくなったりする。二次障害もある。心があるからだ。手帳もある。コンピュータじゃなくて人間だからだ。

わたし、は、人間として扱われない?

コンピュータだから?

と、言葉を文字通りにとらえてしまう特徴を思う存分発揮して悲しくなったけれども、そうじゃないことを説明しよう。

わたしには心があります。

ただ、その発達が遅れていたり、脳の処理機能が異なるだけです。
どんな風に異なるのか、はいろいろ言われているけれど、人によって違うから何とも言えない。

自閉症スペクトラムは心がない、感情がないと思われがちだし、入院しているときには、看護士見習いのお嬢さんに子ども相手に話しかけられるように、話された。

だけど、感情がなければ悲しまないし、怒らないし、喜ばない。

人に感情があることを理解しないのか、というのも、そういうわけじゃない。

相手に感情があることは理解しているとも。
そうじゃなければ、わたしをいじめたり、誤解したり、ひどいことを言ってきたりはしないだろう。
逆に、親切にサポートしてくれたり、わたしのことを考えてくれたり、泣いてくれたりもしないだろう。

人がどう思うか気にしてない、と思われているけど、わたしの場合は、「精度」「優先度」が低いんだと思う。
定型の人は、自動的に、相手を気遣った台詞や、空気を読んだ態度を取れるらしいのだけど、わたしはそれに対応した言葉がなかなか思いつかない。見合ったパターンを覚えて、その通りにしているだけ。相手がどう思うのか、予測できないので、どう思われてもしかたがない、とあきらめている。
そういう意味ではプライオリティが低いけれど、逆に言うと、定型の人たちが自分を殺してまで、人に合わせることの意味が理解できない。そうすると、楽しいのか?いいことがあるのか?と思う。

生徒を見ていると、相手に合わせることで、埋没し、能力をひた隠すことに邁進するうちに、本当に能力が伸びなくなる場合があるようだ。それは才能をつぶしている。
わたしにとって、才能や能力を伸ばすことはとても価値があることだと思うから、それよりも、人に合わせることが素晴らしい、と思える人のことが理解できない。

わたしは確かに社会的発達が遅い。
お金の勘定ができないし、使いすぎてしまうし、まったく大人らしくない。
鬱状態躁状態の管理もできていないし、躁状態のときにお金を使いすぎてお金を借りたりもしている。
異性関係も危なっかしい。

だけど、人の悪感情は感じるし、善意は持っている。子どもは可愛いと思うし、動物も好きだ。

あしなが募金を見ると、「この子たちを街頭に立たせること自体が間違っていて、制度として、教育を受けられるようにするべきなのに」と思いながら募金する。
恥ずかしい、という感情も持っている。

心の理論、というのがなんなのか、わたしにはわからないけれど、わたしはエイリアンでもないし、ミュータントでもないし、1人の女性だ。
わたしをコンピュータとして扱うならば、二進法と機械語で話しかけてほしい。そうしたら、うまく動けない理由が、入力者であるあなたに責任の所在が移るから。

理屈が好きなことや理屈を理解することが得意なことと、コンピュータは関係がないと思う。コンピュータは計算機だ。わたしは別に計算は得意ではない。(ユーモア)

こんなことを言われるのは、わたしは嫌だ。
わたしは自分に責任を持って、自分らしく生きていたい。
だから、わたしはコンピュータと呼ばれることを拒否する。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください