わたしは傷つけているし、傷つけられている 発達障害のわたしと健常者のあなたの関係

「ごめんなさい、自閉症スペクトラムの人とは疲れる」というツイートを見かけたのだけど、そりゃ疲れるよな、と思った。

わたしだって、健常者と話すと疲れるもん。非言語コミュニケーションとやらとか、無意味なあいづちとか、ちょっとした笑顔の変化とか声のトーンとかそういうの、わかんないし読み取れないもん。

文章だって文字通りに読むから、文脈をとりきれていないからいちいち聞くから、そういうのうざったいと思う人だっていると思う。

でも逆に、健常者の人は、無意味に距離を詰めてこようとするし、無神経に、人のプライベート聞いてこようとするし、わたしには興味のないことを一方的にまくしたてたりするよね。
だからまあ、お互い様って感じているんだけど、わたしにとって一対多だけど、健常者にとっては、普通はこうなのに、あの人だけ違ってる、って思うから、腹もたつし、お互い様とはなかなか思えないのかもしれない。

本当は、同じ現象の裏表だよね。お互いにお互いを苦手だと思ってる。性質が違うから、お互い傷つけ合ってしまう。だから、苦手に思う。
だけど、ごめんなさいが入ると、同じ現象の、裏表ってことじゃ済まなくなってしまう。

わたしは、奇跡のように言語能力がすごくすごく高いから、もう、ほんと、美しいほど高いから、なんとかなってる(と思ってるし、まあまあ補っている)けど、そうじゃなかったら、無理だもん。そして、疲れるもの。

疲れるから、一日、十四時間くらいぐったり、眠ってしまうし、むやみに光や音の刺激に弱いから。

でも、健常者だって、わたしから見るとおかしいよね。どうして、こんなに言語能力と読解力がつたないのかって、思うことだって、ある。でも、それは、人間だから、弱い能力があるんだと思ってるよ。

わたしから見ると、この人、こんなに言語能力弱くて大丈夫?って思うよ。
それじゃ、自分の感情を言葉で整理できないから、ストレス貯まるよね、苦しいよね、と思う。
心配になるよ。

それは、大きなお世話なのだけれど、わたしは、自分のところを普通だと思っているから、でも、世の中に対して照らし合わせたら異質なところもあるとわかってもいるから、そういう感想になる。

今の基準だと言語能力がわたしより低いことは、障害の対象じゃないけど、もしも、わたしみたいな人間がマジョリティだったらと想像したら、わたし程度の言語能力がないひとは障害者手帳が配られて「この人は思ったことが正確に言えないので、汲み取ってあげなくてはいけません」と言われている可能性だって十分ある。

健常者は、ノンバーバルコミュニケーションにたよっているから、言語能力がそんなには重要じゃないし、育たないんだと思うけど、だから、わたしの意識では「汲み取って上げよう」という気持ちが強い。

昔は、縮こまって、「健常者さまにあわせなくてはいけない」と思っていたけど、今や、「ああ、わたしが大人になって差し上げなくては」と思ってる。

そしたら、わたしのことを「そのままでおもしろーい。説明がうまいし、ユーモアがある」と言ってくれる人が増えたよ。

「二十x歳って言われると五歳足したら、年齢ぴったりじゃんって思う!」とかね。「ああ、そう返せば良いんだ」とか言ってもらえる。

でもね、わたしは、自分で「勉強もできる」「言語能力高い」「タイピングが早い」というけど、それをたいしたことだと思ってないのも事実なんだ。
自分に当たり前にできることって、わざわざすごいって思わないからね。
後から手に入れた能力だったら別なんだろうけど。
だから、評価されても、肩をすくめて笑顔になって、ありがとうで終わりさ。
ただ、そう、でも、自分にはそういう能力があることは気をつけておこうと思う。
他人を傷つけないように。こんなこともできないのか、なんて、思わないように。

わたし以外の人はわたしにはできないことができるんだから。

わたしの言葉は矢のように鋭くて素朴で、相手のところをまっすぐに貫きにいく。

だから、人をぎょっとさせたり、人を傷つけたりする。痛いところもつく。

でも、逆に、健常者の人はあまりにも鈍いから、わたしのことを傷つける。
それって、同じ原因に起因した、同じ現象の裏表だよね。だから、わたしが小さくなる必要もないし、健常者の人が、遠慮して、「ごめんなさい」と言ってから、「自閉症スペクトラムの人は苦手だ」と言わなくて良い。ただ単に、「苦手だ」って思っていれば良い。
わたしも、あなたのことが苦手だと思ってるから、全然、大丈夫。

お互い合わないってことあるよね、それは全然不幸なことじゃない。それよりも、幸せなことなんだよ、と思う。
わたしたちは、お互い、相性の良い人と付き合う幸せがあって、選べて、そういう世の中で生きている。

わたしは、もっと学んでいけるし、そうしたら、相性の良い健常者の人たちの輪が広がると思うし、わたしにだって、苦手な自閉症スペクトラムの人はいるし、自閉症スペクトラムだからといって、同じ障害の人を全部受け入れているわけじゃないよ。同じだよ、全然。

わたしには不器用な面があるよ、あなたと同じように。
ただ、その特性が違うだけなんだ。

わたしは、なるべく自分の特性を理解して、例えば、矢のような言葉を、綺麗な包装紙に包んで、優しく手渡しするすべを学んでいくことができる、と思ってるよ。そうしたら、もっと、わたしの言葉が受け取ってもらえるかもしれないからね。
そして、世界が豊かになったら素晴らしいし、もっと、美しい景色を見ていけるかもしれない。
わたしは、広い世界を見たいんだ。そういう夢があるんだ。

でも、健常者のあなたは、どうかな?あなたは、自分の特性を理解して、わたしのことを傷つけないように、なにかしているかな?

そういう意味では、健常者の人は、あまりにも自分が正しいと思いすぎていて、そういう工夫をするチャンスが失われているよね。もったいないよね、そういうの、気の毒かもしれない。

本当は、健常者にももっと可能性が開かれているはずなんだ。そうしたら、健常者が苦手な、バーバルコミュニケーションが向上して、健常者の人生もより開かれたものになるはずなんだ。

異文化である、わたしと、健常者の人が衝突したときに、それは、お互いの人生をよりよいするものにする、チャンスであるってことを、忘れないでいたいよ。

だから、ごめんなさいは、いらないよ。
「ごめんなさい、自閉症スペクトラムの人とは疲れる」じゃなくて、
自閉症スペクトラムの人は疲れる」でいいよ。
ごめんなさいって、上から下に、拒絶しているニュアンスがあるでしょ。
でもね、そんなことしなくていいし、思わなくていいんだ。
あなたは上の立場じゃない。
あなただって、障害者予備軍なのだから。年を取って、体が衰えたら何かの障害を得るから、わたしたちはそれほど隔てられた存在じゃないよ。
わたしが、「健常者は疲れる」と言ったら、ああそうか、って感じになるでしょ。
ごめんなさいがつくと、単に性質同士の合わなさからくる疲れが、そうじゃなくなってしまう。差別が混じってしまう。そこには権力があって、選んでいるあなたが浮かんできてしまう。
それは、少し自意識過剰で、自意識過剰自体は恥ずかしいことではないけれど、他人を巻き込んでいるから、こうやって、文句を言われてしまう。

あなたはそれほど権力を持っていることに無自覚だけど、わたしは受け止めてあげてもいいよと思っているよ。

平気ですよ。
わたしも「健常者の人とは疲れる」と思っているから。

でも、関わりたいと思ってる。わたしは。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

わたしは傷つけているし、傷つけられている 発達障害のわたしと健常者のあなたの関係」への2件のフィードバック

  1. 自分の感情を言葉で整理しないままで垂れ流して、周囲の不理解を訴える人は苦手です。感情を言語化して、自分(相手)が言った言葉を重視する関係のほうがありがたい。健常者、自閉症スペクトラムという区別よりも、言語化してくれるかどうかのほうが私にとっては重要。c71さんがおっしゃるように、健常者も言語能力を高くしていく訓練は必要だと思っています。もはや健常者の中でも「前提を共有できていると思い込むべきではない」時代ですから。

  2. id:jmato911 さん
    コメントありがとうございます。
    苦手なんですね。
    わたしは自分の感情を全部言葉で整理したり説明できているわけじゃなくて、矛盾だらけで混沌としています。
    言葉重視、だけでも、それはそれで変だと思うし、近くにいて伝わるぬくもりも否定できないと思います。
    それでも、定型でも自閉スペクトラム症でも、変わらず、自分の気持ちを言葉にして、主張するという練習は、必ず役に立つし、自分にも他人にも優しいなと思います。

c71 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください