生きづらい人全員になにかしたい

こちらの記事を見て、わたしにもできるんだ!と思いました。

わたしにはなにもないけれど、なんだって、できるんだ、と勇気をもらいました。

わたしは、今からだって何でもできる、人生は一回だから、尻込みしている暇はない。
お金がないとかもったいないからとか、縮こまってる暇はない。
だから、できることをどんどんやっていって、いろいろな人と会って、世界を広げていって、変えていきたい。

わたしが変えたいのは、自閉スペクトラム症に関することを、自分なりに、綴っていって、定型の人と、わたしの話は地続きだから、お互いわかり合えると、問題が解決するってことを伝えたいこと。

自閉スペクトラム症のわたしは、かわいそうだから、定型の人に理解してほしいわけじゃない。
わたしは、定型の人を救いたいと思ってるくらいだ。

わたしはずっと定型だと思って暮らしていた。だから、定型の人の苦しみがわかる。わたしの生徒さんは、定型だけど、周りを気にしすぎて、成績が伸び悩んで、将来に関わっていることもよく見る。
定型には定型の苦しみがあるのだ。
周りに合わせないといけないと思うと、それが割り切れない。わたしから見ると、ああまで周りと浮かないことを至上命題にしているのは、理解できないし不毛だしで、ビョーキだ。バランスを欠いている。

わたしは、生得的に、周りに合わせることの有用性が理解できないから、もともと合わせない。それによって、不利益もあるのだろうけど、それ以上に自由に生きている実感がある。

その実感って、何よりも生きる上で必要なものだと思う。
いくら、生きるために、有利になるからと言っても、それに縛られて、苦しむのはかわいそうだと思う。

わたしは、かわいそうだと言ってもらうのが好きだ。それは優しい気持ちだと思うから。

定型の人たちは、自分で作り上げた社会に縛られすぎて、苦しんでいるように見える。
定型の人のために設計された世界だから、本来は生きやすいのだろうけど、それでも、疲れているように見える。

わたしは、最初から制度の外にいるから、そのせいで、迫害されたり、生きづらかったりするけれど、今は、もう、そういうのはあまり感じない。
それよりも、定型の人がもつ苦しみが気にかかるし、わたしと共有できるものがあると思う。

もちろん、自閉スペクトラム症の人と情報交換していくのは、当たり前なのだけど。

わたしは、自分が普通だと思っていたとき、「正社員」になるのが当たり前だと思っていた。
だけど、転職をして、非正規になって、ダブルワークをしたら、はるかに快適に働けるようになった上に、二年目になった今では、正社員の頃よりも、生活環境も収入も良くなった。余暇の時間も増えた。

朝、六時から九時まで働いて、夜、四時半から九時半まで働く。だから、三時間から四時間働いて、限界だ、と思ってから、休憩をして、もう一回、働くことができている。これは、無理がなくて、続けやすいし、なんとなく、一日が自由な感じになる。一週間のうちで、全部まるまる一日休み、という日が今のところ、なかなか作れていないけれど、一日連続で八時間働くよりはずっと疲労が少ない。

こうあらねばならない、とか、嫌だけど変えられないはず、とか、そういうものを手放していけば、幸せになる人は増える。

幸せになる人が増えれば、治安も良くなる。

わたしは、発達障害を受け入れる過程で、きっと、こうあらねばならない、を少しずつ手放せているのだと思う。今も完璧じゃないけれど、少しずつ手放している。

もともと、なぜ、どうしてを考える人だったから、制度に対する疑問が強くて、飲み込めないでいた。だから、生きづらかったのだけど、今は、飲み込まない、という選択をしたので、遥かに楽になった。多分、今、こうあらねばならない、という生を生きている人に比べて、ずっと楽に。

だから、わたしの役割は、この世の中に、きっとあって、それがブログを書くことだったり、文章を書くことだったり、文学フリマに出ることだったり、世の中に与える影響は小さいけれど、それはゼロではないし、わたしのドアは、世界に向けて開かれているどこでもドアだ。

c71の著書

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