女も男も怖かった

自分は、今は女でもいつか男になるのではないかと思っていた。

それは、心配でもなく希望でもなかった。ただ、そうなるんだろうな、と思っていた。

何年か経って自分が男に変化しなかったことに驚いた。

わたしは小学一年生だった。

中学生になって、同級生たちが色づいたのに驚いた。華やかになった。
女の集団と男の集団に別れた。
未分化だった世界から、はっきり別れた世界に変化した。それは華やかでありつつも、多様性のない世界だった。

わたしはどちらにもなじめずに、本の世界に逃げ込んだ。本の世界は自由だった。学問の世界には性別がなかった。

教師たちは数学は男のものだと、三年生になれば、女の成績は下がり、男の成績が上がるのだと言っていたが、わたしには何の関係もなかった。数学も成績もわたしのもので、勉強の世界ではどこまでも自由で、現実にはあるハンデも、頭の中の世界においては、なんのハードルにもならなかった。わたしは羽ばたいた。新しい知識を踏み台にして高く飛んでいきたかった。

女たちは前髪の美しさを競い、さらさらと音を立てていた。男たちは汗臭く、男くささを分泌させて、闘争の世界にいた。わたしは攻撃性と、垢抜けなさと、情けなさと、図太さを持って、空気を読まずにそこにいた。空気を読んでいたら、生きていけなかっただろう。わたしは女にも男にもなりきれなかった。いじめられていたけれど、うまく理解できなかった。理解できないなりにつらかった。それが加害だということが理解できなかった。靴を捨てられたり持ち物を隠されたりくすくす笑われていたけれど、ぼんやりと過ごしていた。守ってくれる人はいなかったから、そのことがつらいと自覚したらどこにも居場所がなかった。ただ、お風呂の中だけで泣いていた。

わたしが自分は女だと、理解したのは二十歳すぎてから。
それまでも男と付き合ったことはあったけれど、何かぼんやりとしていた。
周りが自分を女だというから、そういう風に受け取った。
でも、社会的な女の役割は受け取れなかった。体が女なのは見ればわかることだけれど、社会的な女には適性がないような気がいつもしていて、居心地が悪かった。

女らしさを競う集団にも女らしさを求めて嗤ってくる集団にもなじめず、いつも恐れていた。
わたしが人間じゃないことがばれてしまうことが恐ろしかった。

そうして、わたしは、自分が女じゃなくても良いと言ってくれる人に搾取されることになった。

そこから逃げ出すのには命がけだった。
女でも男でもない生き物になることは社会が許さないのだと思ったが、わたしには社会が認識できないのだった。

社会は男か女か、はっきりした何かで構成されていて、特に男がルールを定めているようだった。
だから、わたしはフェミニズムというものに関係する本を読んで、わたしは人が求める定義の女でなくてもいいのだと思った。

自分で決めていいのだとわかった。

今はこっそり自分で決めている。変だと言われるがそれで良いと思う。わたしにとっては周りがおかしい。

c71の著書

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