自信がない人こそ、語ってほしい。誰よりも、それに一番詳しいのだから。

私は、大学を出て、そこで考え方を学んだ。

疑問を持つことと、出典を出すこと、根拠を示すこと。

疑問を持つ人は誰よりも賢い、という考えを持てたのは、教育のおかげだ。

私は、それが自分の一部になっているから、特に素晴らしいことと思えない。自分自身が素晴らしいかわからないのと同じように。

でも、私は文章には自信が持てて、すらすら書くことができる。それは私が恵まれていたことの結果だ。

お金がなくて、大学に行けなかった人はたくさんいる。身の回りにもいっぱいいる。

そして、語ることができる人は、特権的な立場にいて、語るべき人を選別している。

自分こそが語ることができる、と思っていたり、メディアに載せる人を選んだりする。

でも、選ばれなかった人こそが、もっとも語る資格を持っている。

差別については、差別され抑圧されている人こそ、一番詳しいのに、言葉を奪われている。自信を奪われ、語っても馬鹿にされて、間違っていると言われる。

それを取り上げる人もいない。いたとしても、それは恣意的な編集を経る。

また、取り上げる人は、その場を作った権力者だから、正直なことを話せるとは限らない。

顔色を窺って、その人が望む言葉を探ってしまうだろう。

それはよくあることなのだ。力を奪われている人は、力のある人の意を汲む訓練を生まれたときから受けているから。

これは、差別に関する話題をとりあげる記事だ。差別をされている人は言葉を奪われている。自信を奪われているから、発信するという発想を持てない。自分なんかと思ってしまう。

抑圧されるというのはどういうことか、だれよりも、よくわかっている人が。

女性が自信を持てないのは、社会の構造的な差別によって、生まれたときから自信をはがされてきたからだ。

上からモノを言われると、それが正しいのではないかと考えに考えてからじゃないとおかしいといえない。瞬間的に結論を出す自信がないからだ。

差別について一番よく知っているのは、差別を受けている人たちだ。それを上から分析して、飯を食っている人たちではない。

俯瞰してみることでわかることはあるけれど、それが語るべき人たちから言葉を奪う理由にはならない。

語るべき人たちが言葉を得て、それを発信する場所というのは限られている。

手軽なtwitterでは、蓄積されずにすぐに流れ去ってしまい、追いかけることは困難だ。

固定されていて、だれもが見ることができて、まとまって、順番に考える場所と時間が必要だ。

でも、貧しいと時間がない。時間がないと体力がない。体力がないとゆっくり考えることができない。

その循環を断ち切れるものは何かを考えている。

本を読むことが一つの解だと思っていたけれど、疲れていれば本を読めない。そもそも、知識がなければ、本にアクセスできない。どの本を読めばいいのか、私だって途方に暮れる。外れた本を読んでしまったら、失った労力が大きいと思えば、ためらう。

自信がないから選べない。何を選んだらいいのかわからない。肩書がないから語っても馬鹿にされてしまう。

勇気を出せなんて言えない。

商業フェミニズムや、アカデミックなフェミニズムは、語るべき人の語る言葉を奪っている。消し去っている。我が物顔で、自分こそ誰よりも詳しいのだ、語る資格があるのだ、と、語れない人々を「こんなことも知らないのか」と嘲り笑っている。そして、語れない人たちの歴史を消し去ってしまう。貧しい人たちから見た歴史はなかったことになる。歴史とは、権力者が語るものだから。

現実が押し寄せてきて、それの何が普通のことで、何がおかしいことなのか、区別するすべを知らないからだ。おかしいことがあっても、それが当たり前だと馴らされているから、あえて語ろうとは思わない。そうした人に寄り添って、語るべき言葉を引き出す役目をアカデミックなフェミニズムは担うべきなのに、彼女たちにアクセスしない。少なくとも、女性たちはそれにアクセスできていない。

大学の先生が言うことを信じてついていったのに、はしごを外されて、お前たちの歯フェミニズムじゃない、差別をしているのだ、弱者でもない、とののしられているのが現在の話で、語るために寄り添うどころか、罵倒されている。

本当に語るべき人は、何を語ればいいのかわからない。そして、商業フェミニズムについていく。影響を受けて、信じるけれど、裏切られる。

女性たちは、縮こまるしかないんだろうか。道筋を示す人がいない。

語るべくして語り始めた彼女がいたとしたら、私はそれを応援したい。

インターネットで流通しているフェミニズムは、ふらふらと好き勝手なことを言って、良い風に私たちをだました。

私はそれを絶望とともに理解した。有名な人たちは、誰も言っていることの責任をとらないんだと。権威のある人の言うことは正しくないのだと。自分たちの言葉で何が起きても、自分のせいだと認めないから。大学で職業を得ていたり、ライターだったりする人たちは、自分には、権威も権力もないと責任逃れをする。自分の言葉を人に聞かせる装置、つまり権力やメディア、論文発表の場を持っているのに。

絶望から始まる言葉を、私はようやく書く気持ちになってきたのだけど、私はまだ恵まれていて、恵まれた私は語るべき資格を持っているんだろうか、とも思う。

でも、私は語り始めなくてはならない。絶望から始まって希望で終わる言葉を。

c71の著書

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