理屈がおかしいと指摘するために本を読みたい


自分では、理屈が得意なほうだと思っていたのだけど、最近はさっぱりだ。

それは、多分、より複雑なことを考えるようになったからじゃないかと思う。

単純な理屈を扱っているときには、わかっていたのだと思うけれど、今は、一見筋が通っているけれども実は間違っている部分があって、それを指摘することが難しいなと思う場面が多い。

私は、今までフェミニズムに興味があって、自分もフェミニストでありたいなと思っていた。

けれど今はフェミニストって言いたくなくなった。無責任なことだとも思うけれど、同じフェミニストだっていう人たちと同じジャンルなのかと聞かれたら、意見が違うことも多いし、フェミニストならこういう意見を持つべきでそれに従って行動するべきだと言われても困るなと思うことが増えたからだ。

本を読もう

私は、自分でも嫌になるけれど、ラディカルフェミニズムの正確な主張を知らないし、ソーシャリストフェミニズムのこともよく知らないし、マルクスフェミニズムのことも、リベラルフェミニズムのこともよく知らない。それぞれの細かい差異を自分で調べたことがなかった。

Twitterでこういうことを言っている人がいるからそうなんだろう……、みたいなあやふやな感じ。言っている人も良く知らないで言っていたんだと思う。

日本語のフェミニズムの本は、リベラルフェミニズムが主流だから、他のフェミニズムのことを知る機会は少ない。上野千鶴子先生もマルフェミってことになっているけれど、十分すぎるほどリベラルだし。

ラディカルフェミニズムが、出産は差別の再生産をする、温存をするから、するべきじゃないって主張だってTwitterで書いてあるのを見た。それが本当かどうかも分からない。本を読んでないから。噂程度のことを信じるのはもうやめたい。

以前、本を読む時間がない人がフェミニズムを考えられないのはおかしい、本を読まなくても考えていいはずだという記事を書いたけれど、今はちょっと意見が違う。本はやっぱり読むべきだ。疲れ切っていて、時間も健康もなくて、もう無理だってなっているからこそ、本を読むべきなんだと思う。誰かの意見に流されるのではなくて、こつこつ自分の考えを積み上げるためには、SNSは向いていない。愚痴を言う分にはいいと思う。でも、自分の考えを作るためには、SNSきっかけであっても、本を読まないと、知らないうちに自分がどこに運ばれていくのかわからない。都合よく使い捨てられてしまうことにも気づけない。

思想や理屈は一見正しそうに見えても間違っていることがある

例えば、出産が差別の再生産になると言われても、私は出産をしただろうと思う。

私は自分が生きやすくなるために他の人の考えを使いたいだけなので、自分がしたくないことを強いる思想は使わない。

筋が通っていたり、理屈上正しそうに見える人たちが、堂々と意見を言っていたら、それに流されてしまうことはよくある。みんながこういっているから、だから、違和感を持っていても、それを言わなくなってしまうことはよくある。連帯が同調圧力に変体してしまうこともよくある。それって、生きやすくなっているとは言えない。抑圧の種類が変わっているように思う。連帯できないとしても、女性が女性同士で、お互いの意見が違うからと言って、嗤うことも間違っていると思う。

うまく指摘できないとしても、理屈に嘘が混じっていて、その毒が、理屈全体を汚染していることはよくある。

抑圧。抑圧って言葉一つとっても、私は自分が正確にその言葉をとらえているかわからない。辞書的な言葉の意味はもちろん知っているけれど。

最近、連帯という言葉が苦手になった。親愛も敬愛も持てるけれど、全部同じ意見を持つってことが不可能だから、連帯することって無理なんじゃないかなと思ってきた。

そう簡単に連帯はできない。差異があっても、連帯はできるのかもしれないけれど、その差異が、どうしても飲み込めない違いだってこともよくある。

「装飾」のことと「出産」のこと

それが例えば、私にとっては、「装飾」のことと「出産」のことだ。

装飾をやめたいから、やめるっていうのはよくわかる。でも、やめるべきだ、やめないと差別構造への加担になるって意見は受け入れにくい。

差別しているのは社会や男性であって、女性ではないと思うからだ。

それに、女性に強いられた装飾を抜いた服装って、どうしてもメンズライクになりやすいと思うけれど、脱コルとは関係なく、もともとメンズライクな服装が好きだった人とフェミニンな服装が好きだった人と、差別の加担度が違うってことにならないかな?どうかな?何も考えていなくても、もともとゆるく脱コルっぽい格好だった人は差別への加担者だという指摘は免れて、フェミニンとみなされる装飾的な服装の人は、女性なら装飾だという方程式を強める風潮に加担するっていうのはおかしいんじゃないかな。

それは、いわゆる女性的な女性を罰するのと違うのかな。

そして、脱コルという思想とのかかわりなく、もともと脱コル的な服装をしている人たちが「もともと脱コル気味な服装だ」と発言することを「一緒にしないでほしい」と揶揄する人も見たけれど、思想ありきで服装を規定するのって、自分の在り方を正解不正解でみるようになるから、危険だと思う。

自分のことを監視して、これは正解だ、これは不正解だと判断するようになると、精神が不安定になる。

また、正解不正解を外部に求めるようになると、操作されやすくもなる。脱コルのマンガを読むと、それは顕著で、ショックを与えて反省させ、これが正しいのだと理屈を提示していくやり方は、洗脳に使われる手法だと思う。

価値観を変えるためには、それは必要なことなのかもしれないけれど、そうしたことに慣れてしまうと、違和感に気づきにくくなる。

自己決定もエンパワメントも胡散臭い

かといって、どんな自己表現でも、エンパワメントになるからと肯定するのもよくないと思う。私は、90年代、00年代、それがどんな風に働いているのか見た。

自己表現する女性たちを、どんな風に男性たちが消費して、それを踏み台にして知識人としての地位を構築して、そして、その女性たちが消えていったのか。傷ついていた人もいるだろう。メディアは盛んにエンパワメント、自己決定、自由な女たちと言ってそれらを盛り上げていたけれど、その結果に責任を取った人は見ていない。

ある雰囲気の中で、価値観を形成すると、自己決定をしたとき、そのことで傷ついてしまうことがある。もし、他の時代ならば、同じ選択をしなかっただろうということがよくある。

踊らされてしまうことは誰にでもある。踊らされてしまうことが愚かだとは思わない。誰でもが時代の子で、時代に影響されるからだ。

反出生主義の人について

反出生主義の人たちは、出生する人のことを嗤っていた。彼らの理屈では、出産する人たちは、出産することを権利と言っているのが愚かだということになっている。私は「出産は義務なのに」と言われて、意味が分からなかった。

それで出産は押し付けられたことで、それは、義務として働いているから、拒否すべきだ、ということを彼女は言いたかったのかもしれない、と考えてみた。

でも、それでもやっぱり、失礼だと思った。

理屈上子供を持つことは、ばかばかしいことで、利益はないんだろう。

筋は通っているように見える。不存在による not bad はbad より more better だって理屈は。

でも、存在には、bad とgoodがあるはずで、そのgoodを定義しないで、bad とnot badだけを比較してるのは間違っていると思う。

子どもへのいとおしさ、子どもの幸福を理屈ではうまく説明できないけれど、それでも子供を持つことは善いことだと感じる。

理屈と感情

理屈ではうまく言えないことを、馬鹿にされているのだとも思う。

だけど、人間は理屈と感じることの両方でできている。そして、感じることが出発点でそのあと理屈を構築することだって珍しくない。それなのに、精神は、男性の物、肉体的なものは女性的なもので、そして肉体や感情のほうが劣っているとみなすことも間違っていると思う。

そして、私が理屈を不得意だと感じている理由も、女性として育てられて、理屈を遠ざけられていたことと無関係ではないと思う。自分では理屈を好きだったし、なるべくそうしたものに触れていたいと思っていたけれど、男性の自己肯定には勝てない。自分たちの理屈について、男性は自信たっぷりだ。私はそういう風に育っていない。

ただ、私は、理屈が至上だとも思わない。理屈は道具であって、道具である限りは誤謬があったり瑕疵があったりする。理屈が正しいからと突き進んでいっても、前提条件の把握が間違っていたために、失敗したという例もたくさんある。

本を読もうと思う。矛盾しているようだけれど、知識がないと、間違った理屈に飲み込まれてしまい、直感を説明できず悔しい思いをするからだ。

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