卑屈をやめる

友人が、天才の定義を教えてくれた。

「天才とは、並外れた闘志がある人のことを言う。闘志とは、欲から成り立っていて、インテリジェンス、創造性への欲があるということ」というようなことを言っていて、なるほどな、と思った。

同じ人間でも、卑屈なときは、いろいろなことが考えられない。目に入っても、うまく処理できない。わからないものだと思ってしまう。そして、適切な努力を適切に組み立てられない。

目標があってこうすればこうなると思っていると、そうなる。

そう信じていないと、その出来事は起こらない。悪いことは起きる。良い出来事、というのは、動いている中で起きる。

わたしは、実は弱くなくて、現実的で、シビアだ。

自分に害をなす人だと判断したら、さっさと縁を切る。
それは、わたしに卑屈であれと強いる人だったり、愛がなかったりする人だ。

そう言う人と関わると、ストレスになるし、良い思念が来ないから、離れてしまう。

わたしは弱くない。

(買い物欲と食欲には弱い)

精神病グループに入っているけど、精神病の人は、強いと思う。

世間一般の感想と違って、精神病の人には、病気に向き合う強さがある。

ずけずけ人の領域に入ってこない慎ましさ、賢さがある。人付き合いが苦手だと思っている人が多いけれど、わたしには、慎重で、好ましく思える。

健常者と呼ばれている人たちの中には、自分の弱さに向き合う強さがなくて、自分が完璧な存在だと思い込みたくて、弱そうな人たちを攻撃して、自分はそれよりもましだ、と思い込みたがる部分がある。
それは、とても卑屈な態度だ。自分には現実を見る力がないと告白しているようなものだ。
病気になることができないのだ。その力がない。
病気になるということは、死の一歩手前であがけるということだ。
粘り強いということだ。

現実には、発達障害の特性が強くても、あまり困っていない人もいるし、発達障害の特性が強くて困っていても、現実的な手だてを考えられる人もいる。

脳の物質の分泌があまりうまくいかなくて、考え方が、病気に支配されてしまっている中で、もがいて、暗闇から光へ手探りで歩いている人もいる。

それは、強さ以外の何者でもない。現実と、うまく折り合いを付けるために、自分自身と戦う必要を理解して、観察を怠らず、周りを見ながら生きている人が多い。

わたしは空気が読めないから、観察をした。観察は現実的なことで、定型だろうと、発達障害だろうと関係なくできることだから。
この顔をしたらこういう意味を持っていると、文章を読むように、さまざまなパターンを理解して、画像で記憶して、適切な対応を取ることは可能だった。

最初はぎこちなかった。だから、そのことがトラウマになって、わたしは今治療中だけれど、今は、そこに余分のリソースを割き続けているから、疲れやすいという欠点はあるものの、ほとんど、困難はなく過ごせている。

たまに、このシチュエーションではどの台詞が適切かわからないものの。

そういうときには、自分の感性を優先するようにしている。だめだったら、相性が悪いのだ。

病気の人は休んでいると勘違いされるけれど、自分の体と戦っている。休んでいない。

健康な人は、そのときの生活を頑張っている人も、もちろんたくさんいて、ほとんどだと思うけれど、病気の人を下に見て、バカにして、怠けているだとか、言っている人もいる。そういう人は、自分自身の問題から逃げているように思う。本来、人は、自分のことで精一杯で、自分の得意なことで勝ちにいくことが気持ちがいいから、能力を磨きたいと思っているはずだ。
そうしたほうが、快適に生き延びられる可能性が強く、人間は動物だから、自然にそうなる。
その感情にふたをしていると、なんで生きているのかわからなくなってしまう。

それをしないで他人を低く見ることに自分の時間を使ってしまう、今の自分を肯定することに必死になって、精一杯になって、余力がない状態、そうでいないと自分が保てない、ということが起きてしまうのは、自分をあきらめているからだ。

それは、自分の能力に自信がなくて、自分の問題に向き合う能力がないと、最初からあきらめている態度だ。卑屈なのだ。

卑屈だと、攻撃的になる。その攻撃性を自分に向ける体力がないからだ。
他人を攻撃することで、不安を紛らわせているのだ。
不安に向き合う力がないのだ。

だから、自分より弱いと判定し、攻撃しても良いと思っている人を攻撃する人の弱点は、まさにそのことだ。

わたしは自分より頭が悪い人を攻撃しない。
それは、わたしの頭が良いと、自分で信じているから、頭が悪い人を見ても、不安にならないのだ。
逆に、礼儀作法がなっていない人を見ると不安になる。それは、自分が対人用に培った鎧が不完全だと知っているからだ。
だから、攻撃的な人を見ると、非難したくなる。

そういう仕組みがある。
わたしもそういう仕組みの中にいる。

動物の社会にいる。

だけど、わたしはこの仕組みを理解したから、利用できる。

わたしは、今まで自分がそんなにダメだと思ってないときに、自分がダメだと書いて来たこともあった。
でも、わたしはどちらかというと強い人間で、逆境にあっても、生き延びて来たし、わりと這い上がれたし、それは、何はなくとも、頭が良い、という武器があるからだ。
頭の回転も速いし観察眼もある。

発達障害というハンデはあるけれど、ほんとにハンデだろうか?

それほどたいしたことじゃない。
助力を求めれば簡単にクリアできることだから、解決している。
実は最近それほど悩んでいない自分に気づいた。

だから、頭が良いことを武器にして、生きていこうと思う。
欲があるのは良いことだ。
バカなふりはやめる。
頭の良さを適切に使う。
自分のために都合良く使う。他人のためにも使う。
わたしは恵まれた才能があるから、ちゃんと使わないともったいない。
わたしには闘志がある。
自分と戦い、周りと戦い、知恵を求める勇気がある。
卑屈になるのをやめる。

c71の著書

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