セックスと人権


人権ってのは主張していないとなくなるものです。

人権は、生まれながらに持っているものです。

それは約束事として、お互い信頼し合うことで生まれます。国に対して主張できることです。
だから、人権はある、と信じている状態がなくては、人権ってのは存在しないわけです。

約束事だから、ないといえばない。ファンタジーです。お金の価値をみんなが信じているから一万円札に価値があるように、人権があるとみんなが信じているから、人権はあるんです。

信じることで、価値が生じるのです。
貨幣と同じ仕組みです。
価値があるとみんなが信じて、その約束事を守るから、現実として存在できることです。
だから、その共同幻想を壊す人には厳しく対処しなくてはなりません。

お互いに信じているから、存在する権利。
侵害したら侵害される、ってのがルールです。

人権と言うようなことを言う人のことを夢見がちだとか理想主義だとか言うひともいますが、人権がある、信じている、というのはもっとも現実的な態度なのです。

人対人のときにも、「人権を侵害された」というときには、相手の人権を侵害することが可能になります。それは、私刑によってされてはいけないということになっています。法律に基づいて、国がその人の人権を侵害することになります。それが刑法です。国は、自分勝手にその人の人権を侵害していいわけじゃなくて、国民の総意により作られた法律の中で、人権を侵害しかえすわけです。みんなが納得しているという建前で法律ができている(国会で法律が作られる)からです。

セックスワーカーのことは詳しくありません。

でも、売っているものをお金を払わず、盗られたらそれは泥棒です。
売ってないものを盗られてもやっぱり泥棒です。
脅されて売り物じゃないサービスを盗られたら、それは恐喝です。
暴力を伴っていたら強姦です。

セックスの開始の時点で、お互いの合意があったとしても、その最中で「合意じゃない出来事」があった場合、それはレイプになります。
これは、刑法上では認められていないことですが、そういうことになっています。

セックスの最中、体格差がある場合、それは権力になります。いやだ、といっても、体格の力が有無を言わさない力を持たせます。

写真撮影について「性サービスではそういうオプションもある」と言っていた人がいるのですが、それは、話が違います。

オプションでそれがついている店で働いていたとしても、それにお金を払っていなかったら、それは泥棒です。

サービスとは商品です。

労働も商品です。お金で売り買いすることができるものです。
だけど、そこには人権を売り買いしている、ということはあってはならないのです。
それは、みんな、お互いとの約束だからです。
この世の中が今、動いている根本の約束事だから、それがなくなってしまったら、すべてが瓦解してしまいます。

(消しゴム買ったから同じ店で缶ジュース万引きしていいわけじゃないですよね?原理的には同じことです。缶ジュースも、消しゴムも同じ店で買えても、お金を払わなければ、泥棒です)

わたしが自分の賢さを塾で売っているように、性労働を売っている人がいる、ということをわたしは知っています。

わたしはサービス業ですが、無断で写真を撮られたら驚きます。それは売り物じゃないからです。
自分の賢さに付随して、相手のムードを読んで励ましたり、話を聞いたりすることもサービスに入りますし、時間外でも対応はしますが、基本的には時間内でわたしのサービスは売られています。それ以上のことはしません。

わたしの場合は、相手が子どもです。だから、わたしが脅かされることはないです。

だけど、セックスワーカーの人たちはそうはいかないでしょう。

わたしはパニック障害を持っているので、パニックのつらさはわかるつもりです。性暴力サバイバーでもあるので、タイの女性が陥った恐怖もある程度想像できるかもしれません。

被害者にならないと、つらさがわからない人がいる、という事実を知ったのはつらいことです。
わたしは世の中を少し信じているので。

人権と言ったからと言って、タイの現状が変わるのかとも言われました。意味がないと。でも、意味がないなら、わたしが人権と言って、発言する意味がないのだったら、わたしが言うのも自由なんじゃないでしょうか。無意味なら、誰も傷つける心配がないので。

わたしが人権に対して、言葉を連ねるとき、そこには意味なんかないのかもしれません。
セックスワーカーの現状を変えることができるとも思っていません。

でも、わたしにとって、意味はあるのです。
誰かに届くことはあるのです。
わたし自身にもわたしの言葉は届き、自分自身の戸惑いを整理する効果があるのです。
だから、わたしの文章を読んで、混乱が治まる人がいる可能性だってないわけじゃないのです。

そして、人権とは不断の努力によって、勝ち取るものです。
だから、人権がある、わたしは人権を信じている、と言うことには、意味があるのです。

椎名さんのメールを読んだ人がいます。それで、考えを変えた人も大勢いるでしょう。彼女を傷つける言葉を吐いた人もいます。

それは世の中を、世界を変えたことにならないでしょうか。
誰かの気持ちを変える、というのはよくも悪くも、世の中を変えることと等しいのです。

セックスは、人権が守られた状態でしなくてはなりません。
これは絶対のことです。

セックス(性別のことじゃなく、行為として行うことが誰にでも与えられた権利だと思っている人もいます)が人権の一部だと勘違いしている人は、論外として、セックスをしている、当事者同士というのは、そこにお金が介在したとしても、人権をお互い守る、という意識の上でなされないといけないでしょう。

そうしないと、世界の理が壊れ、お互いの生存が脅かされる事態となる、とわたしは思っています。

イリーガルな世界では、法律が守られないでしょう。そこで、人権侵害が起きたら、イリーガルに処理される(法律に守ってもらえない=国民の総意である法律によって裁かれない)ことにもなりかねません。お互いの約束事、というのは、自分の身を守るものとして、必要なことです。

約束を破ったら、相手も約束を守ってくれる保障がなくなるのです。

セックスワーカーはすでに、世の中に存在しています。

だから、その人たちが、「人権を放棄している」「実質的に捨てている」などと言われてしまう現状は憂虜すべきものです。

人権を捨てる?放棄する?そうじゃないでしょう。放棄させ捨てさせる「主体」がそこでは語られていません。セックスワーカーたちに、人権を放棄させ、捨てさせているのは誰ですか?サービスを買っている人たちでしょう。だから、結果的に、捨てているように見えるんでしょう。

もし、誰かが、人権を放棄しているように見えたら、ひとは、その弱みに付け込んで、搾取するんでしょうか。自分で放棄しているんだから侵害しても悪くないんだと居直るんでしょうか。

そうじゃないでしょう。
そんなことをするのは、良くないことです。ならぬことはならぬのです。
人権は、フィクションです。だからこそ、守らなければならないのです。

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