人付き合い

わたしは人とうまくやれないなと気付いたのはかなり幼い時だった。なにかなじめなかった。

そのまま大人になって、自衛として礼儀正しくしようと心がけた。感情をおもてなしするのは難しくても、礼儀正しさというのは、理屈で積んでいけるものだからだ。

礼儀正しくない人は、価値観が合わないから付き合わなくてもいいとルールも定めた。

だいたい、人と人とうまくいかないのは、距離が近すぎることが問題だ。

人はさみしくなるものだから、距離が遠いと感じたら、近づく努力をする。そうして、双方が納得すればより親しくなるし、そうでなければ疎遠になる。

自分が疎遠になることを決めたらその理由は知っているので納得しやすい。でも、相手が疎遠になることを選んだ時、心がちりちりと痛む。

痛みをなんとかしようとして、より大きな問題を引き起こしてきた。たいていは、その人に向かって理由を問いただそうとしたり、無理やり連絡を取ったりすると事態が悪化する。

だから、疎遠になったことに気付いたら、自分で気を紛らわせることをしたほうがいいい。

疎遠になった相手と話せることは何もないのだとわかるようになってから少し経つのだけど、まだ慣れないでもいる。


フェミニズムが魔法のスティックじゃなくても

新宿ベルクに関して、「フェミは魔法のスティックじゃない」というツイートをみました。

わたしのスタンスを書きます。

「デマ」と言われているのは「新宿ベルク店長は女性差別をした」とということを指していっているようです。

わたしは、それについてはデマではないという立場をとっています。

根拠を提示します。

デマとは、͡コトバンクによると

政治的な目的で、意図的に流す扇動的かつ虚偽の情報。
事実に反するうわさ。流言飛語。「人を中傷するデマを飛ばす」

ということですので、虚偽じゃないということを示します。

なぜなら、「アホフェミ」「すっぴんの女性店員もいて」「BGMも女性アーティストで」「だから、フェミニズムの本をたくさん読んだ僕はフェミニスト」「新宿ベルクはフェミニズムカフェ」というような内容の発言をツイッターやフェイスブックでしていること、それが女性蔑視であり、女性差別だからです。

すっぴんの女性店員も働いていることがなぜ親フェミニズムにならないかというと、それは、女性が本来自己決定してしかるべき容姿についての判断を店長がしているからです。女性がすっぴんをして、それを許容しているのは店長だ、ということです。本来は許可もいらない、女性が好きな容姿でいることに対して、ことさらにいうこと、それ自体がセクシズムルッキズムに基づいています。

「本来女性は化粧をして働くべき」という前提がなければ「すっぴんの女性店員もいる」ことが、発言する価値のあることだと発想しないでしょう。

「化粧をするべき」という規範と「すっぴんの女性もいる」という現実の間には「それを許可している男性」の存在が暗示されています。「すっぴんの男性もいる」と女性が言うことの奇妙さを考えてみてください。これが奇妙だと感じたとしたら、そこには何かがあるのです。なにかって、女性差別ですが。

 

「BGMが女性アーティスト」かどうか、というのは、「消費者として、女性のアーティストを好む」ということですよね。それは、フェミニズムとは、関係ないです。(女性蔑視が強すぎると女性のアーティストの才能や技能を認めることができないということはあるでしょうが)

それでいったら、これはたとえ話だと理解してほしいのですが、「ポルノに出ている人物の姿は女性の姿が好ましい」というのと、原理的には変わりません。客体としての女性が好き、ということなんですから。

「アホフェミ」という言葉を使いながら「フェミニズムカフェ」という言葉を使うのは、フェミニズムという言葉を収奪した行為です。

それを説明するために、少し長い話をします。前提を共有するために必要なことです。

公教育はなぜあるんでしょう?私立に子供を入れる人や、子供を持たない人にとっては無駄な出費と感じるかもしれません。

しかし、デモクラシーには、公教育が必要不可欠です。

100人の村で、99人がおろかで、1人が賢かったとします。

その一人がリーダーになって引っ張っていけばいい、と思います?

しかし、このたとえでは、その賢い人がリーダーに選ばれることはありません。

それは、残りの99人がその人を理解することも賢さの価値を妥当な評価することもできないからです。

「こいつはおかしい」と言って隔離されたり迫害されたり、最悪の場合殺されることもあるかもしれません。

わたしは「勉強のできるバカ」と言われたことがあります。その人は勉強ができるということは、理解できたんですね。それは、公教育の賜物です。しかし、いろいろと考えることができるから、人と違い、それはバカと言えることではない、ということは彼は理解できませんでした。

新宿ベルク店長のフェイスブックをみたところ、全部をみたわけじゃありませんが、ツイッターアカウントをさらすのが趣味みたいだと思いました。たくさんのスクリーンショットが張られており、その多くは女性アカウントのように見えました。わたしもブログに批判対象のツイートを貼ります。だから、その点では彼を非難できる立場かというと微妙ですけどね。彼の場合、引用や、批判とは考えられないやり方をしています。そこがわたしとは違うと思っています。

ある種の人は、攻撃する相手を選ぶようです。「弱い」と認定した人を選んで攻撃します。

弱いとみなされる属性の一つに「女性」というものがあります。

女性たちは、「怖い」と言いました。「怖い」という人々は攻撃されていました。謝罪する人に暴言を吐いて、「この人は謝罪しているのだから、きついことを言ってもいい。この人はそれが平気だから」ということを言っている人もいました。

「怖い」という人を攻撃する人は、どういう思考なのか考えました。

「怖いなんてはずがない。だから、これは嘘だ。嘘をついてあおっているのだ。デマだ。デマを言って、味方を探しているのだ。許せないから攻撃しよう」と思っているのと同時に「謝罪をした。怖いと言った。つまり、これが弱点だな。弱点をさらすということは、攻撃するべきだな」と思っているんじゃないかと思いました。これは推測です。

 

フェミニズムは、確かに魔法のスティックではないのかもしれません。

だったら、それぞれが自分の信じるやり方で、自分のしたいことをしましょう。

それは、女性が奪われてきたことです。女性が自分の信じる意見を言うこと、たったそれだけで、叩かれ脅されてきた姿を知っていますよね。知らない人は観察眼が足りないと思います。打ちのめされ、痛い思いをし、つらいと思い、黙る人や、つらいと感じる心を封印して、戦う人もいますよね。

どちらも、女性が抑圧されているがゆえに起きることです。女性は、人のケアを優先し、自分のケアをおろそかにするように常に圧力をかけられてきました。

常ににこにこしてふんわりと優しく振る舞うことを強制的に期待されてきたから、信念を貫いて発言することも、怖がって黙ることも、どちらも非難されてきました。

痛いものを痛いと認めることからしか、自分をケアすることはできません。戦うことも、痛いことは痛い、不当なことは不当だ、ということを認識しなければできません。体力や気力がなければ戦うこともできないのに、それさえ、してはならないと規範を押し付けられてきたのが「女」という性です。

 

 

誰かと連帯することは難しいことです。

1人で行動することも難しいことです。この二つを女性は、してはならないと引き裂かれてきました。つまり、女性たちは、自分のためには、何もするな、と言われて育ちました。

女性は、信念を貫くこと、間違うこと、連帯することを「女らしくない」と封じられてきました。女らしくないという言葉の消費期限が切れると「人間としてどうかと思う」という言葉を女性だけに向けられることによって、封じられました。

 

闘うことがフェミニズムの本質です。これは運動だからです。

闘えば、それを気に入らない人も出ます。自分の持つフェミニズムと違う考えの人もいます。

叩かれるのも批判されることも侮辱されることも全部痛いし、攻撃としか感じられない状況の時に、それらを区別することは困難を極めます。

 

だから、それを認めたいと思います。女性は、難しいことを強いられています。

ネットでは、批判とも侮辱ともつかないツイートが、女性アカウントに集まります。女性はそれで恐怖や驚きに疲弊します。そのうえで、上記の難しい作業をしなくてはいけないとしたら、それって不可能ですよね。ほとんどの人ができません。男性は、女性よりも、侮辱するようなツイートが集まりにくいのです。

叩かれるのも批判されるのもつらくて痛い、だからこそ、誰のために戦うのか、それを明確にすることが大切です。自分のために闘い、人の代弁を避け、人の代弁をするときにはその結果を受け入れること。

ケアをすることも信念をつらぬことも、闘いです。

後悔しないためには、1人の活動を大切にすることです。

人間関係のしがらみにがんじがらめになり、「あの人は友人だから」「知り合いだから」「人気があるから」といって、フェアネスよりも人付き合いを優先したとき、悲劇が起きます。

足並みをそろえることを忌避しましょう。自分の判断で動きましょう。

足並みをそろえようとするのは、全体主義の始まりです。それは圧力に変質します。

天皇の名のもとに、第二次世界大戦で、多くの無辜の人々が犠牲になりました。

連帯していたはずなのに、総括といって、反省を迫った挙句、なじった相手を左翼は殺しました。左翼の女は凄惨な殺され方をしました。

結果的に連帯できたら幸せなことですよね。でも、最初からそれを目指していたら、苦しくなるでしょう。

みんなが賢くならなければなりません。

今、大人の人たちで、生きる過程で、フェミニズムや女性の権利を学べて来た人は少数派です。

誰からも理解されません。それどころか、「違い」のせいで、攻撃の対象になります。アホだのバカだのののしられます。

愚かなのがどちらか、最後になるまで分かりません。だから、一人一人が自分の判断で行動することが大切です。

 

日本の社会では、構造的に女性差別が前提となっています。民法一つとっても、女性に不利益のある条文はたくさんあります。刑法もそうです。家事育児介護は女性の役割とされています。日本女性の睡眠時間は、世界で一番少ないのです。日本男性のほうが女性よりも睡眠時間が長いのです。

家事育児介護を女性が担っていると、日本政府(今年の内閣は一人を除いて男性です)や男性は、楽ができます。それらをなかったことにして、「女性は非生産的だから」といって、罵り、自分が素晴らしいもののように感じるまでがセットです。

女性差別撤廃条約を批准していても、実際に改善しようとしていない、と国連から勧告が出ましたね。条約は、批准していればいいというものじゃないのに。

日本のジェンダーギャップは2017年で114位です。日本の医療水準は非常に高く、そのため、順位が底上げされているのにかかわらず、この低さです。

つまり、女性が生活するにあたって、すべての場面で差別的な扱いを受けていると考えるべきです。

女性は、不断の人間関係、買い物、食事、労働、政治、すべての場面で差別されています。

政治の場面から排除されているので、女性は、自分たちの境遇を変えることがまだできていません。

人生を少しでもよくするために、女性はずっと闘ってきました。

その恩恵を、新宿ベルク店長をはじめとしたすべての人が得ています。

女性は子供の権利のためにも、子供の公教育の水準をあげるためにも、声をあげてきましたよね。わたしは、今日も教育の無料化の署名集めに協力してきました。それは保育園で行われており、署名を集めていた人も、署名していた人も、見た限り女性ばかりでした。そうした恩恵を、もちろん男性も受けます。

そこで、最初に戻って「アホフェミ」「アホなフェミもいるから区別するためにそういった」という言葉の欺瞞と、「フェミニズムカフェ」と名乗る姿を見て嘲笑し、愚弄されていると感じる理由とします。


智恵子抄の智恵子にならない

読まれないブログに何の価値があろうか。

今までは書きたいことがあって、恐れず書いていた。

今は恐れることがたくさんある。面倒なことは嫌だ、メンタルの安定が大切だから、心が荒立つことは避けているうちに、だんだん、あれを書くのはやめておこう、これもやめておこう、失敗したらいやだ、誰かを傷つけるのは嫌だ、黙っているのが一番いい、そういう気持ちになった。

ネットをやっていて、どんどん人間関係ができて、そこの中で気を使っているうちに、埋もれて行ってしまう考えや気持ちがあった。生き埋めにして見殺しにした。

以前は、アクセスが集まって、面白いように読まれていて、書くのも楽しくて、反響があればうれしかった。全然有名なんかじゃなかったけど。それでよかった。誰かに読まれることがうれしかった。とても。

自分の中のブログの位置づけがどんどんぶれてしまって最初は身近なことを日記みたいに書いていたのだけど、自分で、「正しく公正でありたい」と思うようになって、人に影響を与えたいという欲も出てしまった。それはわたしには合わなかった。合わないのに、していた。意義があると信じていた。

 

朝起きてご飯を作って洗濯機を回して子供の世話をしているうちに気が付いたら一日が終わっている。

司法書士の勉強をしようと思っていたのに一日しかやっていない。

そういうのも、自分のことを嫌いだなと思う。やると言っていたのにやらない。

今日は、家の片づけと模様替えと衣替えをして、水回りの掃除をして、棚を一つ開けて、伴侶に渡してデスク周りを片付けやすくした。

今、洗濯を取り込んで布団をしいて子供を寝かしつけて、必要なものをネットで注文して、いらないものを捨てて、頭が痛かったら薬飲んで、皿を洗って、ごみをまとめたりしていると、頭がどんどん生活のことでいっぱいになって、広い視点で物事を見ることが難しい。

 

時間がないわけじゃないんだけど、疲れてしまって、勉強をする気力がわかなかったり、文章を書けなかったりする。

智恵子抄のことを思い出すのだけど、彼女は才能があってやりたいことがあったのに、家庭のことをしているうちに、自分の人生を、自分を生きることができなくなって狂ったとみなされ、そして、それを伴侶に詩集にされ、その詩集で伴侶の名はあがり、智恵子はかわいそうな人になった。わたしは智恵子抄を読んだ時に無性に腹が立って、腹が立って、そして高村光太郎の胸の悪くなるような自己憐憫と愛情が恐ろしかった。

 

わたしは智恵子抄の智恵子みたいではない。でも、オノヨーコにもなれないし、与謝野晶子にもなれない。かっこいい人間になれない。なりたいのに。素晴らしくもない。凡庸で、欠けている。劣っている。頭が悪く、できないことが多い。わたしは自分をそう思う。

 

有名になると、叩かれる。自己承認欲求の塊と言われるのがわたしは嫌いだった。自己承認欲求って何だろうと思った。そうしているうちに、意見の違う人がどんどん押し寄せてくるから叩かれるわけじゃなくてもとても疲れる。自己承認欲求を満たすのは悪いことじゃないのに、悪いことのように嘲笑されると、恥ずかしくなって、自分の大切なものなのに、ひっこめてしまった。大切なものじゃないみたいに。そして、大切なものを隠して、ないものみたいに振る舞おうとした。

だから、ブログとも距離を置こうと思っていた。ネットとも。

でも、やっぱり、「生きる」ってことには、「生活」も大事なんだけどなりたい自分でいる、ってことも含まれる。

言いたいことがある、そういう女はすごく嫌われる。

にこにこして柔らかくてふわふわしていて、いい匂いがしていて、大きな声を出さないで高い声でいて、物音を立てないで振る舞って、目立たない色合いの上質な服を着て、生活のことをてきぱきして、意見を言わないけれど、人を支えるような女は叩かれない。叩かれるととても痛くてつらいので、わたしは叩かれたくないと思った。

でも、柔らかくていい匂いがして人の意見を常に肯定してにこにこしていると、ひどい目に遭わされることには変わりがない。そういう女はよく盗まれる。

そういう女を支配することで支配欲や自己承認欲求を満たそうとする人間はたくさんいて、慰められるために、女の時間と感情と労力を盗みに来る。黙って盗んで、とがめられると怒鳴り散らす。盗んでいるつもりじゃないのに非難されたと言って。

それが嫌だから叩かれる女でいた。でも、叩かれると痛いからわたしは黙ることを学んだ。それがこの二年間の話。

 

わたしみたいなのが親でかわいそうだ、と言っている人はきっといるんじゃないか、そう思うと、子供のことを書くのも怖かった。

わたしには怖いものがたくさんある。わたしは、誰かに代弁されたくない。詩集の題材にもなりたくない。わたしは、自分の言葉で語りたい。それが、実際大したことじゃないのはわかっている。取るに足りないことだとわかっている。わたしの考えられる範囲なんて知れている。知識も知力も足りていない。

でも、その取るに足りなさ、軽さが恐ろしいのに、わたしは書きたい。取るに足りなくて、軽い、笑われるような、つまらないことなのに、大事なことを。


mtfへのわたしの混乱及びバグ

以前、「トランス女性のことは女性と認識している」と書いたけれど、自分でよく考えてみて、「認識してないな」と思ったので、その理由を書く。

(そういう風に認識しているならトランス女性という言い方をしないで女性だけで済ませるはずだという指摘を受けた)

わたしは、mtfのことを考えるとバグる。

その理由は、

  • mtfは、おそらく男性として扱われて育ったので、女性として味わった差別的な経験を共有できるのか疑念がある
  • パス度が高ければ、そもそもmtfだとこちらが気づかないのだが、その過程で男尊女卑的な考え方を強化していないか疑念がある
  • パス度が高い低いを社会が求めているのはいいことじゃない。わたしは、女らしくあれと言われていることが嫌だという価値観を持っているから。しかし、パス度が低い人を、無警戒で女性として受け入れる自信がない。それは矛盾している。

という三つである。

今回は上記の上から二つを論点として書きたい。

本来なら、「女性にも女性差別をされた経験がないという人いる」「男尊女卑的な考え方を身に着けた女性も掃いて捨てるほどいる」で、終わりだ。

けれど、ひっかかっているのは、以前に、「女だから理解できないだろう、適性がないと受けられなかった授業があった」と女性が発言したのに対して、mtfの方が言った「高専だったけど、英語を勉強させてもらえなかった」という反応に傷ついたままでいるからだ。

どちらも、勉強をする権利を奪われたことに変わりがないのだけど、前者は女性差別のよくある例なのに、その前提を踏まえられていないのが悲しかった。

それで、わたしは、それとこれとは違うということを説明したが、理解されなかったので、「男性として育てられたから、教育については、男性特権を享受してきたため、見えないことがあるのではないか」と批判した。

こういったとき「彼女」が無理解だった、と終わらせるべきだったのか、「mtfだから無理解だったのだ」と範囲を広げてよかったのか、いまだに迷っている。

 

わたしは「mtfです」と言われたとき、わたしの頭の中では、この人は「m」だった、「m」として扱われてきた、という歴史性が存在するのだ、という発想が生まれる。その人が、その歴史をどう考えているか、その歴史があっても、女性の子供時代に遭う差別に対してのリアリティを共有できるか、とても気になる。

そのうえで、その人が、男性的な価値観で、加害的な言動を取ったときに、わたしはバグる。

批判していいのか?マイノリティに対する、マジョリティからの攻撃なんじゃないか?

そもそも、わたしは、女性の権利を向上するために戦いたい。

そこで、本来はこうすればいいんだろう。

女性の権利向上に反するものは、たとえそれが女性であっても、mtfであっても批判する。わたしは、前述の発言者を「彼女」と呼んだ。だから、守るべき権利を持つ彼女の女性としての権利を守りたい。一方で、女性差別に無理解であったり、女性差別的であったら、批判する。

 

ただ、わたしは、現実問題として、実際には、女性差別的な価値観を身につけた女性に対して、ほとんど批判しない。彼女たちこそ被害者だと思うからだ。平等な社会だったら、差別に対して、生存のための適応をしなくていい。

また、わたしは前述の発言をした彼女が不意に出した、男性的な価値観が恐ろしかった。女性だと思おうとしていたとき、「やっぱり男性なのかもしれない」と思うと警戒してしまう。わたしに関していえば、それはトランスフォビアと呼ばれてもそれは仕方がないと思う。けれど、同じようにおびえる女性に対して、「それはトランスフォビアだ」と言いたくない。わたしは、その恐れを理解できるし、それはもっともだと思うからだ。そうなったら、絶対に、わたしは、「シス女性」の味方をする。そういう風に決めている。

結果、わたしはバグる。(どちらも女性なのに、シス女性を優先する。つまり、わたしは、シス女性を優先すべき「女性」と考えているのだ)

 

以前、「あなたは、mtfのおすみつきをもらおうとしてきょろきょろしている。苦しんでいる女性はあなたを見ている。あなたは、女性のために戦ってほしい」と指摘された。

それも事実で、指摘を受け入れるのは、無性に苦しかった。それからずっと悩んでいる(長いやり取りをしてもらって指摘に感謝している)。悩んでいるのは「正しくありたい」という欲のためだ。

悩んだ結果、わたしは、「女性」を優先することに決めた。わたしはシス女性で、自分の権利や、同じ状況の人のため、権利を向上させたい。

結果として、ほかの人々が生きやすくなれば一番いいが、それは結果として伴えばいいくらいのことで、わたし自身戦うのは、女性のため。

一番いいのは、誰かが、「男性的な価値観」をとりだして、人をおびえさせたら、そのこと自体を批判することだ。その誰かの属性を考慮せず。

でも、実際には、わたしは、発言者の属性を非常に考慮する。それが女性か男性かとても気にする。社会構造の産んだ被害者なのか、加害者なのか、それに適応して防御しようとしているのか、ただ、加害しようとしているのか、それによって、批判内容が大きく異なるからだ。

だから、やっぱり、わたしは、「mtfです」と名乗られた上で、男性的な、加害的な価値観や考え方を表出させられたら、その属性を考慮しうえで批判するだろう。ただ、それも、マイノリティに対する過剰な要請である可能性も捨てきれない。

 

こうやって、整理をして、方針を立てようとしても、現実の流れで、ネット上でも現実でも、具体的な個別のケースで適切に対応する自信がまだない。

 

これを公開するのもさんざん悩んだけれど、自分にとって、大切なことなので、公開する。


子供を持つか、持たざるべきか

子供を産んでから後悔したことは一度もない。

毎日この幸せな瞬間を覚えておくことができないなんて切ない、と思う。

しかしながら、友達には子供を産むこと自体は勧めない。

理由は命の危険があるからだ。

妊娠初期では化学的流産をする場合がある。中期後期も切迫流産をしたり、安定期になっても気は抜けない。胎盤剥離は、速やかに対処しなければ、失血死してしまう。

つわりは、わたしは妊娠初期から、産むまであった。なんなら今も吐きやすい。

牡蠣にあたって、インフルエンザにかかったみたいな具合の悪さが八か月続いた挙句、産んだら産んだで回復していないのに、二十四時間緊張しながら、一時間ごとに子供の世話をしないといけない。

わたしは、期間の長さから言って、陣痛よりつわりのほうがつらかったと思うが、陣痛が痛くなかったわけでもない。

妊娠直前、出産直後に歯を診てもらったのにかかわらず、一年後、三本も虫歯が見つかった。歯がボロボロになるのは本当だ。

産む前よりも産んだほうが大変というが、産んだ後は、子供と親がセパレートされているので、人に預けることができる。産んだあとは、休める。

男は産むことができない。わたしは今でも伴侶が産んでいないことを疑問に思うくらいだ。「君、産んでないよね」というと「産んでないねごめんね」と言われる。妊婦あるあるを共有できないのはさみしい。

女性は、死の危険を潜り抜けてようやく子供を手にするけど、男性は寝ている間にいつの間にか子供ができて「心の準備ができていない」「母親にはかなわない」といって敵前逃亡をする。

そんな奴は焼き払え、と言いたいが、誰も屑と結婚したいと思って屑と結婚したわけじゃないのだ。素敵だと思っていた相手が、実は「心の準備ができていないから妊娠中しっかり心の準備をしていて、生まれたときから母になるべく仕組みが備わっている母親が子育てをするのがいい」とほざくあほだと誰が思うだろう?

思わないだろう。

みんな、自分の連れ合いはそうじゃない、屑じゃないと信じていてなおかつ産後屑だったとわかるので、人生はつらい。見抜くも何も、未婚女性は、結婚の経験がないから、予兆があってもそれが予兆だと思わない。

なんだかおかしいかも?と思い始めたときには結婚話が進んでおり、それが「なんかおかしいかも?」くらいで後戻りできない暗い話が進行しており、なおかつ「これを逃したらもう結婚できないかもしれない」と思っていたら、絶対に結婚をやめることはできない。やめたほうがいいと思うけど。現実は難しいのだ。

わたしたちは、実家を双方一切頼っていない。その代わり社会の資源を頼っている。社会はわたしの子育ての困難さを軽減するために存在しているのだ。

社会はなぜ存在しているかというと、お互い助け合うことによって生存率を上げるというために存在しているのだから、社会の不備は人類の不備である。

人類を増やす目的で死にかけたのだから社会的資源を当てにしても当然の権利である。ただ、当然の権利だと思っていない人は多い。

当然と思っていない人は罵詈雑言を解き放つし、もしくは解き放たれることを恐れて自分で何とかしようとする。

男性の連れ合いが屑でも「でもあいつ、いいやつだから」と言って、愚痴を封印してくる自称友達は事欠かない。

そういう状況で産むのは難しい。

せめてもと思って、ネットで書いて共有しようとするとどこからともなくミソジニストが現れる。

女が安全に子供を産み育てるためには安全な医療と、安全を保障する社会が必要なのだ。

一人の女が産むことを決意するだけでは足りない。

本来は、自己決定権に基づき、女が一人で産むことを決意したら産める育てるという社会がベストだが今はそうなっていない。女が一人で産むことを決意するという意味は、結局腹の中で子供を育てて、それを外に出すという行為は、一人きりでするしかない、という意味だ。

産むときは一人だ。だから、わたしは「子供のいる生活は最高だが、勧めはしない」という。


わたしはおっさんが嫌い

わたしはおっさんが嫌いだ。九割くらいのおっさんは、悪いおっさんだと思っている。

女の人は、三割くらい、嫌な人がいると思っている。

おっさんの隣の席が空いていても、女の人の隣が開いていたらそこに座る。

おっさんが道の向こうから歩いてきたら、体を固くして、何かされないか気を配る。女に人にはそういう警戒をしない。

わたしに暴力を振るってきた人のほとんどが、男性だった。

女の人の嫌がらせはだいたい言葉だけだが、おっさんは実力行使をする。家に来る、暴力を振るう、権力を使って、仕事や学業に関して不利益になるように仕向ける。

九割のおっさんは臭く、粗暴で、声がでかく、道をよけず、ぶつかってきて、舌打ちして、道に唾を吐く。ごみを捨てる。身だしなみの水準が低く、見ててきれいじゃない。椅子に座ればひじ掛けを独占し、足を広げて座る。

下駄を履かされていて、あらゆる局面で実力を伴わなくても、優遇されているが、その優遇に気付かない。だから、職場や大学に女性が少なくても、「女性は実力がないから」と平気で信じている。自分が優遇されているという現実を認識する力すら、持っていない無能なだけなのに、その無能さゆえに、女たたきをする。

女性は、子供のころから、能力を伸ばすための手助けを得られにくい。それどころか、能力があれば、謗られる。「目立つのが悪い」と言われる。

高校受験の段階で、女子の多い高校に入れば、数学や理科の科目が少なく、そちらの道に進むことを事実上阻まれる。理系が偉いからこういうことを言うんじゃない。

選択の機会が、男性には、水のように当たり前にあるのに、男性と同じ選択の機会を得ようとしたら、何倍も努力しなくてはならないということが間違っている。

そして、そのような、男性には機会があり、女性には機会がない、という仕組みを作っているのはおっさんだ。

だから、わたしはおっさんが嫌いだ。

おっさんが作る世界は、強い男にばかり有利だ。

子供や、女性にとって不利だ。

病気一つとっても、男性のかかりやすい病気はすぐに治療法が確立されるが、女性や子供のかかる病気は、研究が進みにくい。男性がかかりやすい、がんや、心臓病、肥満に対しては治療法が十年前と比べて進んでいるのに、乳がん、子宮がん、更年期、生理痛、病気ではないが出産に関して、苦痛を伴う検査もなくなっておらず、病気の苦痛も軽んじられている。女性の病気の多くは「不定愁訴」で片づけられてしまう。

それは、医者の世界が、男の世界だからだ。看護師の多くが、女性なのには目をつぶって、「女性の医者は離職するから」といって、平気だ。

人類の半分が女性なのだから、それを前提にした社会設計をすればいいだけなのに、女性は、女性だから、といって、チャンスを奪い、足を引っ張り続けるのがおっさんだ。学ぶこともしない。

だから、おっさんを嫌うのは当たり前だ。それなのに、嫌うだけで「男性差別だ」と吹き上がるおっさんたちをたくさんSNSで見る。どれだけ甘えているのかよくわかる。

公正な世の中のためには、仕組みを作り、決定する場に、女性や、障害者、病人が必要だ。健康なおっさんはたちが悪い。


「やりたいこと」を明確にするための「嫌い」

やりたいことがない、って人は、好き嫌いもぼんやりしている。

周りにおぜん立てされて、いい風にしてもらえることに慣れていて、足りないものを感じることがない。

その時の思い付きで、「これをやってみたい」と思うけれど、そのやってみたいことの道のりを考えて、逆算して、じゃあ、今はこれをしておかないとそれができるようにはならない、たどり着かない、と考える発想がない。発想がないから、「今しないとできるようにならないよ」と言っても、「なんとかなりませんかね、がんばったら」という。でも、頑張るって何だろう?

「頑張るって何を?」と聞いても、「わかんないですけど」みたいにいう。

頑張る頑張ると口では言うけど別に具体的に何か行動を起こすわけじゃない。誰かが何とかしてくれるのを待っている。

 

「こうなるのは絶対ヤダ」と思っている人はそれを避けるために行動をするだろう。考えて、避ける。そうしているうちに、これはいやだけど、あれはいいかもしれない、と思うようになる。いやなものを避けていくと、力が付く。

もちろん、食わず嫌いで、イメージであれは嫌いと思っていたら世界は狭いままだ。たとえば、学校のカリキュラムは、本人が「その時点で」興味がないものに強制的に触れさせるという意味で優れている。嫌いなものを理解しようとすることも大切だ。そうすることで世界も広がる場合もある。

でも、それも、「嫌いだ」「嫌だ」ということがはっきりしているからできることであって、嫌いだとか嫌だとか、いわゆる世間で「負の感情」とされているものにふたをしていたら、何もわからないまま終わる。

誰かに何とかしてほしいなと思いながら年を取ってしまう。

嫌だ、というのは、「自由」への扉だ。提示されたものを否定するのは楽しいことだ。提示されたことを拒否する、拒否しない、その選択権があるということが自由というものである。

周りにお膳されるというのは、周りの都合に流されるということだ。

それに慣れると、周りの「あなたのためにしていること」という言葉をそのまま受け取って、でも、心の中の違和感に気が付けなくなる。

自分の人生を生きるためには、嫌だ、嫌いだ、拒否する、ということが大切になる。

それが前向きであり自由である。いい人、「都合のいい人」「言いなりになる人」は、結局、自分を生きることができない。

拒否することを恐れないでほしい。


本当に欲しいものに限って買えない

ほしくないものはバンバン買うことができるのに、本当に欲しいものは買うことができない。
自分が本当に欲しいものが何か、自分でもわかっていない。

伴侶によると、お金を使い切らないといけないと思って、「がんばって」使っているように見える。
買わなくてはいけないものを検索して探しているみたいに見える。
伴侶は、わたしがほしいと言っていて、迷って、結局は買わなかったものが本当に欲しいものなんじゃないかと言った。

わたしは、エステに行く計画を立てていた。デパートでクリームを買うのを楽しみにしていた。tamanohadaのシャンプーを買いたかった。でも、どれも、買わなかった。
一か月か二か月、ずっと計画していたのに、お金が入ったら、それらを手に入れる前に、ほかのものに使ってしまった。
指摘されて、はっとして、それから奈落に落ちていくような気がした。真っ暗な中に閉じ込められたみたいな。
その真っ暗な世界はわたしが作ったものなのだ。
つまり、わたしは暗愚だってこと。

真っ暗な世界で、手探りで何がほしいか欲望を探す。これが手に入れば、きっと幸せになれる、これを今買わなかったら二度と手に入らない。そう思って、いつも焦る。焦って、頭が真っ白になって、何も考えられない。ただ、わかるのは「今買わなきゃいけない」ってこと。本当はそんなことないのに。

お金を使い切らないといけないこともないのに、使い切らないと「盗られる」と思っている。
でも、盗った人間はもういない。
父親はわたしからいろいろなものを盗った。母親はわたしの人生を盗った。
母親はわたしの若さに嫉妬して、それでいて、自分の分身として認識しており、自分の代わりに栄達を望んだ。わたしはずっと自分をマリオネットみたいに感じていた。

買い物をすると、嘲笑され、怒鳴られ、返してきなさいと言われて、自分がほしいと思ったものはいつも間違っているのだと学んだ。
でも、奴らはもういない。残念ながらまだ生きているみたいだけど(こればっかりは早く死んでくれないと困る)。

わたしが人生に登場しないようにした人間(親や同級生)のせいでなのか?わたしは自分の欲望を正確にとらえられない。
あいつらのせいでなかったら、わたしは大バカ者なので、頭を砕いて死んでしまいたくなる。
帰宅してからずっと自分を破壊してしまいたい。自分の欲望を正しく理解することもできず、ほしいものも買えず、それなのに、散財するなんて、本当に馬鹿だ。
エステに行きたかったな。クリームもほしかったな。練香水もほしかった。でも、もうだめ。
はっきりいって、わたしみたいなできそこないが生きている意味が分からない。わたしなんていなくなったほうが、みんなのためになるだろう。わたしもわたしがいないほうがずっといい。いなくなりたい。消えたい。どうしようもない。出口が見えない。苦しい。

本当はそうじゃないと思うんだけど、そして、伴侶はそんなこと言っていないけど、
「わたしがいないほうが、ずっと彼のためになるんじゃないか」という疑念が頭の中に充満していて、ただ申し訳なくて、申し訳なさを表現するために消えるしかないと思ってしまう。


太った私は、とても醜い……だろうか。

今日一日具合が悪くて、寝床から出られず、そこから赤ちゃんを見守っていた。

精神安定剤を飲んだら、体の緊張が取れたのか、冷や汗が止まり、動けた。

それでも「シミがあって太っていて、こんなに醜いのだから人に会いたくない」という気持ちは消えなかった。手も、きれいじゃない。美人の手じゃない。

消えてしまいたいと思う。

わたしは父に会うたび、挨拶もせずに「また太った?シミがひどくて汚い」と言われた。

わたしは、そんなに気にしていなかったけれど、絶縁した中学生の時の同級生もシミがひどいと言ってきた。

シミを気にする人は合わない、だから、絶縁したんだけど、こだまのように、思い出されて、わたしを苦しめる。

シミがあったからといって、別ん誰に迷惑をかけるわけでもないのだけれど、それをわざわざ言ってくる人がいる。何も考えていないのだろう。それか、わたしを傷つけたいんだろう。肉体的な特徴をわざわざ私に告げたとしても、わたしにどうすることもできない。そんなことは考えればわかるが、考えなければわからない。考えることが面倒な人は考えないので、考えないで、言う。

考えない人のために、わたしの人生は、困難なものになった。

何をするのにも、否定的な言葉がよみがえる。

わたしは父に、老人はんひどいね、デブだね、口臭ひどいね、とは言っていない。もうすぐ禿げそうだし、本当に醜い生き物だね、とは言っていない。

そういう人は、自分が言われることは想定していない。

わたしに対して、シミがひどい、センスが悪い、だからあなたはだめなんだ、と一言目に言う人は、別にきれいな人じゃなかった。

でも、わたしは「髪が薄くて、みっともないね、痩せすぎだから醜いし、あなた、評判すごく悪いよ。けちだし、常識もないしね」とは言ってない。

こういう風にふるまったほうがいいですよ、普通の人に合わせたほうがいいですよ、みんなこういってます、という人もいるけれど、わたしはそういうのを聞くのもしんどい。知りたくない。

わたしは、わたしのやりたいことを邪魔されるのも指図されるのも嫌いだ。自分を大事にするほうがいいとか、だから、言うことを控えるべきだと言われるのも不愉快だ。

そういうのは、はっきり言えることが多いのだけど、美醜に対しては、そのまま受け取り、苦しくなってしまう。

ほかにも、あなたはこうだから駄目だ、というのを素直に聞いて、悩んでしまう。

そういうのもやめにしたい。

別に太っていて醜いおっさんなんて山ほどいうけど彼らはそんなこと気にしていないし、気づいていない。言われることもないんだろう。

それがうらやましいとはちっとも思わないけれど、鈍感だと生きやすいんだなと思う。

鈍感になりたくない。わたしはわたしでいたい。それなのに、太っていて醜い、だけで、消えてしまいたくなる。ふっと死にたくなる。


痛みこそが人の尊厳である

信田さよ子先生の本を読んだ。
「さよなら、お母さん: 墓守娘が決断する時 単行本 – 2011/10/17信田 さよ子 」

地震の後に書かれた本である。
わたし自身は、三十歳になるのをきっかけに、両親と決別した。
わたしは、ずっと母親が嫌だと言語化していた。十年かかってやっと親を捨てる決心がついた。

プロローグに胸を揺さぶられた。
「人の痛みが人の尊厳だ」ということが目に飛び込んできた。
わたしの「痛み」はなんのためにあるのか。
その回答がこれだと思ったのだ。
わたしの痛みはわたしのもの。
それがわたしをわたしだと形作る一部である。

自分の痛みを見ないことにした時、人は差別をするのだと思う。
自分よりも不幸な人がいるから耐えられると思う時、そこには「優越感」がある。ひとよりもましだという考えが、自分を力づける人がいる。自分と誰かを比較して、より不幸な人がいると思ったとき、その人は、誰かを支援するかもしれない。ボランティアをするかもしれない。
「自分の鬱などたいしたことがない」と思って、外に出る人もいるかもしれない。
しかし、それは自分の痛みを見ないことにした結果である。
誰かと自分の痛みとを比較して、それよりも「自分がまし」だという思うことで、自分の痛みを消す。
そうして生まれるパワーには問題がある。誰かを踏みつけにしているからである。

「なぜワイドショーを見るのか」と問われて「自分より不幸な人がいるから」と答えた人がいる。
人の不幸を探して、それを喜ぶ人である。
それからもう一歩すると、「あの人が不幸でも自分とは関係がない。自分よりも不幸な人がいるから自分は幸せである。不幸な人がいてよかった」から、「不幸な人を作ろう」「不幸な人を作るために力を奪おう」になる。そのガス抜きの仕組みが差別である。

セラピーでガス抜きをするのも、今はやっている「自分の機嫌は自分でとる」という流れも、「ポジティブに考えよう」という流れも、「痛みを無視して、現状維持をはかろう」ということだと思っている。
それは、問題を軽視し、なかったことにすることと、紙一重だ。
生きるための知恵だということと、その方法がまずくはないかということとは両立する。
余談だが、よくある、子供に対して
「あなたはそう思うんだね」と受け止めるやり方も、暴力になることをわきまえなくてはならない。
わたしは、母に「嫌だ」と訴えるたびに
「そうなの、あなたはそう思うんだね」と流されてきた。まさに、母に嫌だと訴えているのに、「なかったこと」にされているような、無力感を味わったものだ。

不満があったら伝え、それを解消する。お互いの距離感がおかしかったら調節する。それをわたしは重んじるようになった。
いろいろなことが起きて、変化する中で「現状維持」をしようとすると、歪みが現れると思っているからだ。

わたしの母は「斎藤学」先生の本を持っていた。親子関係の問題について、精神科医の立場から書かれた本だ。わたしはその本を読んで、自分の親がおかしいことに確信を持った。
ところが、母や妹は、その本を読んで、わたしにつきつけ、「ほら、お姉ちゃんはここに書いてある人とそっくりだよ、やっぱりおねえちゃんはおかしい」と言った。
同じ本を読んでも、「自分が暴力を振るっているのか」「それとも振るわれているのかもしれない」と思わず、「自分には関係がないけれど、おかしい人がいるらしい、ああ、自分はおかしくないみたいだ、よかった」と確認するために読む人もいるんだなと今では思うが、当時は、不思議だった。
どうして、「AC」の本を読んでも自分の家族の問題に気付かないでいられるんだろうか?と。

むしろ、彼らは、自分の問題をないことにして、世間というものに同一化するために読んでいたんだと思う。

わたしの母は「良い母親」になろうと思っていたんだと思う。「ベストな母よりベターな母であれ」みたいな本もあったし、トリイ・ヘイデンの本もあった。ドナ・ウィリアムズだってあった。
でも、わたしの母は「わたしにとって」良い母じゃなかった。
母は、今でも、わたしにたいして「悪いこと」をしたと思っていないだろう。
母は、世間に対して「良い母親」であったから。
「誰にとって良いのか」を考えないことを選んだ。
(子育てについて学ぶことと、子供を虐待することは両立できる)

育児には、子供に対してパワーがある。ケアを与える役割を一番に引き受けることで、子供に対して、権力を振るう場面が多くなる。
女性は経済力を巧みに奪われているので、ケアを通して、パワーを獲得する。
(だから、育児には、父親や行政の介入が必要だ)

わたしの母は
「しかたがない」「しょうがない」「そうするしかなかった」と言った。
実際には、いろいろな選択肢があった。でも、その選択肢を最初からなかったことにできるのが、上記の言葉である。
選択肢をなかったことにすれば、「選択した責任」もなかったことにできる。

「しかたがない」「そうするしかなかった」の根拠は、世間にただよう常識である。
大きな挫折を経験したとき、それを、自分から「そうするしかなかった」といえば、責任から逃れられる。
考えなくてよくなる。
それが、世間と同一化するということである。
他人から「そうするしかなかったとおもうよ」ということと、自分から「そうするしかなかった」ということは全く違う。
前者は、責任を実感している人にかけられる言葉で、後者は責任逃れをするための言葉だ。

世間と一度同一化してしまえば、それから逃れることを、彼女ら、彼らは、絶対に避ける。
もしも、「世間」から「個人」に戻れば、あやふやにした「挫折」の時点に戻らなくてはならなくなるからだ。

「離婚したほうがいい」ような状況になった。そのとき「世間では離婚しないほうがいいと言っているから」離婚しなかった。
そして、二十年、三十年くらい来たとする。
そうした人が、今更「個人として」考えると、「あのとき、結婚は失敗した。その後の選択も間違っていた」ということを認めなくてはならない。そうすると、「失敗した二十年、三十年」がその人に現れる。
その人に、それを受け止めるのは無理だ。
それは、その人が二十年前に「自分で選択するのは無理だ」と挫折を目の前にしてあきらめ、ごまかすような人だからだ。

わたしは、世間と同一化した、おばけのような人たちに苦しめられ、犠牲になってきたんだなと思った。
そして、彼らがわたしのような「子供」に謝ることを期待するのはほとんど不可能なんだなと思った。

自分の人生を放棄する人が一人いると、その周りには、差別が生まれ、虐待が生まれ、DVが生まれる。
自分を生きない人が、人を支配して、自分の生を確かめる。