電子書籍【毒親の子が親になった】無料キャンペーン


昨日から【毒親の子が親になった】という本を販売開始しました。
12月3日午後五時から4日午後五時まで、二十四時間の無料配布キャンペーンを行います。
ぜひ、ダウンロードをして、読んでください。
レビューや感想など頂けましたら、とてもうれしいです。また、アマゾンにレビューを投稿していただけると、ほかの人が読むかどうかの判断材料になるので、助かります。

虐待された人間が親になって、まだ三か月ですが、どのように考えているかを中心に書きました。
【内容紹介】
毒親に虐待された子供が、親になるときに、感じたことは、「こんな弱くてかわいい子供に、ひどいことをできるのはおかしい」ということでした。
出産する前よりも、強い気持ちで、親には絶対に会わないことを決意した理由は、虐待の連鎖を防ぎたいからです。
自分のことだけを考えるなら、いつか、自分の気持ちをわかってくれるかもしれないという淡い期待を断ち切れなかったけれど、自分に守るものができて、その期待を捨てようと思いました。

目次
毒親の子が親になった
虐待をしてしまうかもしれないわたしへ
親の喜び
 妊娠初期
 妊娠中期
 妊娠後期
 妊婦に対する男性からの嫌がらせや暴力
 周りの反応
 母親学級による出産にまつわる知識
 出産直前
 成長に対するさみしさ
 親の喜び
 男親のできること
 親には感謝しなくていい
あとがき
奥付


特権性や周縁性について語るとき、わたしは引き裂かれる

この記事は下記の読書会に向けて、準備として、書かれたものだ。

feminism mattersスカイプ読書会のお知らせ
この読書会に参加した。結果として、わたしとしては、ストレスで耳が遠くなってしまって目覚めた。
もちろん、ほかの参加者の方には有意義な会だったと思う。
ただ、わたしにとっては、しんどかった。

特権性や周縁性について語る、ということは、アンビバレンツな性質を持っている。
それは、このような問題を語りうる、という時点で、特権性があるということに他ならない。
情報にアクセスできるという意味で。
また、その反面、このような問題について考えなくてはいけない立場、というのは、それ自体が周縁だということを示してもいる。

読書会のテーマには、「特権性と周縁性」がキーワードになると思って準備していた。
わたしの特権性は、
「大学で学問をしているがゆえに、アクセスできる情報や、処理、そして、発言力がある」ということ。
「ある程度経済的に恵まれていること」
「子供のころからフェミニズムに触れていたこと、自分なりに戦ってきたこと」
「オープンにしていられるということ」「シスジェンダーであり、ヘテロセクシャルであること」
「日本人であること」
があると思っている。
反対に、周縁性では、
「障碍者であること」「障害や、被害を受けた経験から、人の多いところに出られないがゆえに、デモに参加することが難しいこと。そのためいわゆる数に数えられないこと」「東京中心主義ではないこと。これは、あらゆる運動が抱えている問題でもある」
「もちろん、女性であるということ」「性暴力や被害を受けていること」
が、あげられる。

わたしは今、一日長くて五時間程度しか起きていられないから、活動内容は非常に限られる。
何かしようとしても、体が動かない。
それは、個人的な問題であり、社会的な問題でもある。
このような人間でも、参加できる何か、というものが、あるかどうか。

インターセクション、というのは、様々なアイデンティティがある中で、どうするのか、ということを話すべきだと考えていた。
そのため、自己紹介でもそうしたし、最近の運動体が抱える問題について、どうしても、特権性の高い人たちが主導するがゆえに、少数派の中の少数派の意見がかき消えてしまうということを話したかった。
数になれ、というのが、シールズに代表されるデモの主張だったし、そして、わたしはそれに相容れない。
もちろん、シールズが掲げたことは、目標として、大切なことだと思っている。しかし、大義のために小異を捨てろ、というのはどうしても首肯できないのだ。
わたしは、わたしだからである。そして、大義のために小異を捨てろということの積み重ねが差別につながるからである。
少数派はずっと順番待ちをしている。
そして、大義は、特権側がずっと持ち続け、大義を選び続ける。
結果、少数派にチャンスは回ってこない。永遠に。
小異を捨てた結果、特権側には、少数派が小異を捨てたことさえ、目には見えなくなるからだ。
小異が無価値になる。

人にはそれぞれの経験があり、考えがあり、蓄積されたものによって、出力される考えが異なる。それを一致させることは難しい。
それを共感で埋めようとする人もいるが、わたしはそれに反対だ。
なぜなら、共感される人だけを救い、そうじゃない人は放っておく、という結果になりがちだからだ。
どうしようもない人を、どうしようもないまま、守る、という態度が、反差別において必須である。
それが権利というものの性質だからだ。

また、わたしのように、一般的に共感と言われる機能が、脳にない人間もいる。わたし自身は、わたしなりの共感があると思っている。でも、たぶん、わたしから見る、ほかの人の共感と言われるものの多くは「差異をうやむやにして、平和裏に物事を推移させるための、対話をなくすためのもの」であって、それは、特権性の高い人の声をより大きく保つ機能があると思っている。
わたしには、それはない。
ない、というか、理解はできるし、実行もできるが、それをどうしても、気持ち悪く思う。

今回の読書会の目的は、特権性について、自覚することも、おそらく大切なことだったと思うが、共感しながら話す、という態度が目立ったために、結果的に、特権性を温存してしまう、ということになったと思う。
そもそも、こうした、差別問題にかかわるときに、共感することで相手を認める、という態度が取れる時点で、それはかなり特権的なのだ。認めることができる立場、という点で。
また、共感を求められる性別役割分担に乗らざるを得ない、という点でも、やはり問題だった。相反するようだが、女性だから、共感性を高く求められる、というのも、フェミニズムが戦うべき課題の一つである。
共感することで、場を流すことは、特権でもあり、被差別の結果でもあるのだ。

心地よい空間を作ることと、フェミニズムは、相容れない。
しかし、人が集団になったとき、人は、心地よい場所を求める。
わたしにとって、心地よい場所とは、「いつでも反論でき、議論でき、場の空気を読まなくて済むところ」である。
もちろん、そうでもない場合もあって、「自分の話を受け入れてもらい、自分の話を聞いてもらい、肯定し合う場所」ということもある。
後者は、いくらか、問題をはらんでいる。
それは、同調圧力として機能しがちである。また、内部の批判を機能させにくい。
同調圧力の結果を、無意識に甘受できる人というのは、その集団の中で、特権的である。
その、同調圧力によって、いうことを選ぶ人、というのは、すでに周縁に追いやられている。

特権と周縁について話し合う場でも、このような矛盾が起きてしまう。
それについて話し合う場であっても、特権と周縁が生じてしまうのだ。

また、周縁側が、批判した場合、特権側は、謝ることと訂正することしかできることがない。
しかし、謝ったところで、取り返しのつかないダメージは残る。
そこに、発言し、行動する難しさがある。
確かに完ぺきなフェミニズムというものも、運動というものも、ない。
だからといって、完ぺきじゃなくてもいいんだ、批判されたときに直して、発展していけばいいんだ、という結論は、単なるエクスキューズに終わってしまう。
指摘する側、踏まれている側には、すでに大きなダメージがあるのだ。
それを礎にすることを前提にし、発展するフェミニズムというのは、わたしは、首肯できない。
わたしは、人に、ダメージを与えたこともある。ダメージを与えられたこともある。

それは、人の健康や命を害するタイプのものだ。だからこそ、慎重にならないといけない。戦うことと、戦いによって相手にダメージを与えることと、また、自分が無意識にした差別によって、人にダメージを与えることと、それぞれは区別されるべきだ。

声なき声を聴くとき、そこには共感はいらない。声を聴く、というときに、すでに立場が固定されている。
それ自体が、特権と周縁を固定しているものだ。
だから、わたしたちは、ただ、そこに存在することだけができる。それだけが、固定化を阻むものだと、わたしは、今のところ考えている。

学問としてのフェミニズムが難しいのは、学問が男社会の産物であること、そして、その立場が、上記の立場を固定化すること、そのために、少数派の力をそぐことが問題だ。

だから、少数派の声を取り上げたり、分析するときには、非常な慎重さが必要になる。
pixivのBLが立命館の論文で取り上げられたときに、問題になるのは、少数派の表現というものの性質が、分析する立場と分析される立場とに、固定化されることだ。

わたしたちは、本当の意味では、言動に責任が取れない。
人のダメージを代わることもできない。
そのうえで、行動すること、発言することを、選択する。


家制度に固執する「誰も懲りない」


中村珍さんの本です。
この本は、お父さんがとにかく大好き!殴られても大好き。
で、お母さんは浮気して出て行ったから悪。
と言っている。

で、なんで悪なのかというと最初よくわからなかったのだけど、よく読むと「藪家」を捨てて「名前」を変えたからってわかる。
殴られたこととレイプされたことはとても悲惨な虐待なんですけど、失うべきものがたくさんあってうらやましい……という感じ。
健康な体や傷のない経歴、不足のない経済、とかね、もともとないから普通の人は。たいてい。
そんで、お母さんの頭をお母さんの彼氏の前で踏むんですけど、その数か月後にのこのこ会いに行って、その場に彼氏が同席していたからって「誰も懲りない」ってコマが出るんだけど、自分の彼女が自分の娘に頭踏まれてたら、次回から合わせないか絶対目の届くところでってなる。

そんで、自分の選択でもずっと不幸っていってる。
でも自分で父親と暮らせねえって出て行ったことも、高校辞めたのも自分の責任じゃん。
そりゃあとから、この選択肢じゃなければよかったと思うことはあれど、高校に行くチャンスがあって、でもやめられて、自活できて、その後バイトして、血縁から借金を負わされることもなく、専門学校行けたんだからいいじゃん……。自分の金だろうけど。

この作品はノンフィクションなのかフィクションなのかわからないから、安心して読めない。
どっちでもいいということなのかな?
わたしはわたしの「ものさし」で測らせてもらうけど、家制度の上の家族に固執しすぎ。
離婚したら夫婦じゃねえし。
死んでも同情されないし。
愛がなくても家族にはなれるし。
愛があっても暴力があるときはあるし。

女にすげえ冷たい。
男が悪さしてても全然悪く言わないのに、おばあさんやお母さんに暴力ふるいすぎ。
その理由もぼけたとか、男作ったとか、普通の悪いことじゃないのに、お母さんが離婚しても彼氏と続いているからって暴言吐きすぎ。
というか、お母さんが離婚するのも、彼氏作るのも人生的に自由だから。

離婚したらお母さんは藪家の妻じゃない。結婚いいやだったらだれでも出て行っていいし。人間だから藪家に虐げられたまま死ななくていいのに、お母さんに離婚するよりかは結婚したまま死ねって言ってるよねこの人。死ぬべきだったみたいなさ。
離婚したからって娘に頭踏まれるのっておかしいよ。

一番お母さんに怒っているところはお母さんの名前が変わって、彼氏を紹介されたときなんだよね。
なんか自他の区別ついていない。家制度上の中では自他は混然一体になるけど。家制度には人格ないからね。
一家の大黒柱のためにほかの家族が耐え忍ぶのが素晴らしいってやつだから家制度は。
そこからはずれて自分の幸せ探しに行ったお母さんのこと憎いんだろうけど、そのあと一緒に暮らしているし。

女すげえ嫌いなんだなと思う。子供を産んだのは「お母さん」だから「お母さんが選んだから自分がいる」みたいなことを書いているんだけど、お父さんはどこに行ったんだよ、と思う。

なんつーか、続けて読むと「家制度に忠実」という意味で「お母さん二人いてもいいですか?」と同じなんだなと思った。

「お母さん二人いてもいいですか?」でも思ったんだけど別にヘテロカップルでも外で子供作れるから。
わたし一人目は六帖さんの子だけど二人目はどうするかわからない。
そんなの、家族によって形は自由だし。
ヘテロはみんな同じだと思ってるのも思い込みだろうと思う。

家族の理想の形が強固にある。
みとられないで死ぬのは悲しいとか、離婚は許さない、とかね。
でも、そんなのないから。


妊婦から見た「お母さん二人いてもいいかな?」について

いろいろもやもやが続くので、また書く。

一番釈然としないのは矛盾だ。
子供たちのアウティングを避けるために、カミングアウトしないという話なのに、そのくだりも含めて本を出している。
婚姻制度を否定しているのに、疑似婚姻届を出す。
家族扱いされないっていってる。
結婚したい人に結婚の自由を、と言っている。
じゃあ、婚姻制度がどうというわけじゃなくて、婚姻制度を実現していたいんじゃない?
でも、そうじゃないといっている。
矛盾。

矛盾点をいくつか挙げていくけど、矛盾しているから以下の部分はうまく読めないと思う。
破たんしているから何度読んでも意味が分からない。
制度上の話に絞るけど。

婚外子差別のことにも触れているけど、制度上の話なら家制度に触れないとおかしい。
でも触れていない。同性婚は大賛成、婚外子差別のお祭り差別には乗りません、というのも矛盾だ。
中村さんの頭の中には結婚するかしないか、という話しかない。
権利を認めるのが大切?という言い方をしているけど、この言い方はおかしい。権利は認めるものじゃないんだよね。権利はあるものだから、権利が侵害されているかしていないかというのも。
どっちなんでしょうか。
婚外子差別があるから仮に同性婚制度があったとしても、結婚していない、と言っている。
わたしも何を書いているかわからないけど、本が矛盾しているから、仕方がない。
(同性婚ができたら、すでに生まれている子はもちろん婚外子にならない。また、婚外子に自分の子がなろうとなるまいと、差別はいけない。そして、自分の妻のことを「妻」っていっているんだから、やっぱ結婚したいんだろうな)
矛盾している本の矛盾点を書いていても、うまく書けないから、このへん自分でもうまく書けないけど。

わたしのために子供を産んでくれてありがとう、これで先に安心して死ねるというシーンがあるんだけど、これもおかしい。サツキさんは、子供のために生んだんだよね。

だってこれさ、六帖さんが「子供を産んでくれてありがとう。これで僕は安心して死ねる人生を用意してもらった」といってたら、おかしいよ。

わたしは、自分の子供を生むけど、籍を入れるつもりはない。
「もともと権利がある人だから選べるんだよね」と言われたらその通りだけど、家制度に反対だから。簡単な話だ。
家制度に反対なのか、制度に乗っかりたいのか、その違いは大きいのに、ポジションをいくつもとってる。矛盾している。
こちらは、意味が分からないからスルーしてしまう。そして、読みたい部分だけを読んで、安心したいと思ってしまう。そういう商売だなと思った。
なんか主張するとき絶対に言いきらないで、逃げ道が用意されているんだよね。だから言葉数が多くなって読みにくくなるんだ。

また男性について種馬扱いを崩さない。男にも人格はあるんだよ。

この本を読む超人しか子育てできないのかと思わされる。
別にわたしにも夜通し起きている体力なんてないし。

産後に弱っている人にああいう言い方したら自尊心削れる。わざといっているのかな、と思う。
サツキさんに無職のおばさんっていっているし。

亡くなった人を婚姻届けの証人にしているのも、亡くなった女性の人格を認めていないから怖いと思う。
もちろん法的に根拠のあるものを求めていないというのはわかるんだけど「この人ならきっと認めてくれる」というのは故人の人格を踏みにじっている。理想化されてもね。


もやもやする本

妊娠七週目で、つらりがひどくて、めまいがする。
マーライオンみたいに吐いた。胃痙攣が起きるほど吐いた。胃が痛くて眠れないし、どういう態勢になってもしんどい。
食中毒かと思ったけどつわりだって。

ところで、この本を批判するために読み返した。
この本はめちゃくちゃ批判しにくい。

フィクションなのかノンフィクションなのかわからないつくりなので、登場人物の言動に突っ込んだら、生きている人間を否定したみたいな気持ちになるのだ。
でも、いつも通り書く。
「お母さん二人いてもいいかな?」 中村キヨ さん

自分でもともと持っていたのだけど、LGBT的な観点から勧められたので、再読した。
でも、これ、危ない本だよなと思った点が二点。

レイプ被害者に、「おばちゃん(キヨさん)」は「体が勝手に起こした反応だ」というのをかなりページを割いて説明しているんだけど、わたしだったら、お医者さん以外にキヨさんみたいな言い方で、ああいう風に言われるのはいやだ。黙れって思う。
レイプ被害者としてのわたしが読むとすごく嫌な気分になった。
なんか、子供に説明しているみたいなんだよ。被害に遭ったからってバカになったわけじゃないんだから普通に話せばいいのにと思った。
あと知ってるし。サツキさんが知らなかったのかもしれないけど、読者に読ませるって、サツキさんだけに話すのとは違って、むき出しのままじゃならん気がする。
わたしの好みだけども。

レイプによって生まれた子供だということをトナくんという長男に話すシーンがあるんだけど「僕はいいけど、ママがかわいそう」というシーンがあって、つ、つらい、と思った。
中学生に何を背負わせているんだって。
家庭の問題だから口を出しにくい部分だけど、こうして本にされているから、まあいつも通りいうのだけど、これって、一生背負うには重すぎる話題だと思う。

公表するかどうか、本人が選べる年になるまで、隠し通す、とサツキさんはLGBTについては、言うのに、レイプの被害の結果生まれた子だ、ということは隠さないのか、そして、漫画に描くのかという風にわたしのなかで物議をかもした。

子育てエッセイってすごく難しくて、子供は、それについて、どうもいえないじゃないですか。でも、プライバシーや自分の反応について書かれて、そのうえ、その稼がれたお金で自分がもの食べたりするじゃないですか。
それらがわかったときの負担てつらいと思うんですよね。
もちろん、わたしはトナくんじゃないから、自分の体験の類推でしかないんだけど。

レイプ被害者が読むとしんどいってわかるように、レイプって話をどこかに帯とかにつけておいてくれないかな、と思った。
わたしはもちろん人のことをさばく立場にないし、誰かが最良だと思った選択肢を否定する立場にもいないけれど、漫画として読むなら、登場人物であるトナ君がこういう目に合わないでほしいと思ったし、トナ君のプライバシーも知らないでいたかった。


ゲシュタルトセラピーと「キレる私をやめたい」について

ゲシュタルトセラピーは自分の気づいていない内面と対話するためにはいいと思う。
でも、今現在、自分を否定されていて、その反応が正常に出ている人には向かない。
たとえば犯罪や暴力を感じているとき。そのときは、楽にならずに、逃げたほうがいい。

岡田法悦さんのゲシュタルトセラピーは、常に「否定」から入って、自分の境界をゆるくさせられる感じがした。
ワークをやると、あとから答え合わせをさせられ、「それは違いますね」「過去ですね」みたいなことを指摘されるので、委縮してしまう。
安全でも安心でもない場所なのだ。

キレる私をやめたい、を読むと、普通に「いやだ」「逃げたい」「むかつく」と思うようなことを「タカちゃん」に言われている。
全然いい夫じゃない。
子育て中の女性に、子育てを任せているのに「散らかっているな」というのは、「女だから散らかすな」と言っているのであって、決して言われた側の女性が「女性役割を勝手に受け取ってむかついた」話じゃない。
田房永子さんは「自分が散らかっているという現実の指摘に、自分のヴァーチャル眼鏡をかけて反応した」という話にしているけど、全然いい話じゃない。

最終話でも「いい話」にしているけどタカちゃんの言っているセリフがひどかった。
キレなくなって聞いたことについても「キレているときは獣みたいだった」というコメントはひどすぎる。
幼児を見ていたら、穏やかではいられない。
自分が何かしているときに、幼児にまとわりつかれたらそれはむかつくだろうに「普通のお母さんだったらにこっとする」という田房さんの意見は、息苦しい。
そう思わないとやっていられない、ということが、伝わってきて、つらい。

「タカちゃん」のセリフややっていることを抜き出してみると、ただただ、永子さんを否定しているだけだ。
全然協力的じゃない。
「養ってもらっているんだからちゃんとしないと」みたいなセリフも出てきているけど家庭を二人で運営していて、家事育児の負担が片方によっているとき家にいるフリーランスの稼ぎが少ないから、という理由で自分を恥ずかしいと思う理由は一つもない。
人にやとわれている人と、自分でゼロから稼ぐ人とは、お金の価値が違う。大変さも違う種類だ。

岡田さんのゲシュタルトセラピーは、人を否定して、自己の境界線や今まで培ってきた価値観を壊して、そこに侵入してくるものだったと感じた。
言葉はすでに抽象的なもので、過去に起きたものを伝える機能があるのに、それを無視して、「現在のことを伝える言葉」だけは「正解」になるみたいなのはおかしい。

わたしも、話している最中にさえぎられて「それは違うと思う」と言われたことが何度かあった。
殺したいけど殺せない、という相手がいるという話をしたとき「殺せない……?うーん」みたいに言われたのだ。
でも、心の中ではなんぼでも殺せても、現実的に殺せない。そして、今も現在嫌がらせを受けていて、犯罪の脅威があるのに、犯罪者と同じ思考になって、「相手の言葉をしゃべってください」と言われても、わたしに何の考えもないから「わかりません」という風にしかならない。

危害を受けたときに、感じたことを、発散させて、紛らわせるセラピーは恐ろしい。
逃げられなくなる。
キレるのが当たり前のことがある場合。

「永子ちゃん」は、「お母さんといるとき逃げられなかった」というのと同じことを「タカちゃん」に対してしている。
「キレるようなことを言われる→逃げることじゃない以外のことで対応する→キレないようになる」というためにセラピーを使ったら、現在じゃなくて、過去に原因を求めることになる。
でも、今困っているのだ。

お医者さんに聞いても「病気じゃない」と言われて帰される場面があった。
「病気ですか」と聞かれたら医者は「病気じゃない」という風にしか答えられない。
「こういうことで困っている」ことがあったら、その原因から逃げるしかないと、わたしは思う。
病気のせいにしたり、セラピーを受けたりすることで「困っていること」を解消するのではなくて、今感じていることを大事にしたら「この人といるとキレるから離れよう」になるんじゃないかと思う。


岡田法悦さんと田房永子さんのゲシュタルトセラピーに行った感想

こちらは、ネガティブな感想になります。

**********

わたしは、田房さんのファンです。
そして、百武さんのゲシュタルトセラピーに行ったことがあります。
だから、このイベントを楽しみにして行きました。

ネガティブな感想を言いたかったから参加したわけじゃないです。

でも、正直に言って、このイベントは失敗だったと思います。

*************

イベントに参加してから、キレる私をやめたいを読み直しました。
そして「タカちゃん」のセリフを六帖さんに言ってもらいました。

すると、ものすごく腹が立ちました。

「この部屋散らかってる」
「うるせー」

って言われたらむかつきます。近所のAちゃんも遊びに来ていたのですが、「もし六帖さんが本当にそれ言ったら、c71ちゃんもう家出してうちにきていい!っていうね」「そうだね。もう捨てるね」「僕も嫌だ……」という結果になりました。

田房さんは理不尽に切れていたわけじゃなくて、本当にむかつくことを言われていたから切れていたんでは……。

つまり、夫婦の関係にくちをつっこむのはよくないことですが本を読みこんだ結果、不当なことをされているのは田房さんではないかと思いました。
また、警察を呼んだ下りのところでは、暴力を振るわれているのは田房さんだと思います。腕をつかまれるのは暴力です。
勝手に、模様替えをしたり、片付けをしないで、「どこどこにカラーボックスがあるのはおかしい」と言って来たり、片付けをした田房さんをほめないのはおかしいです。
六帖さんなら、出しっぱなしにしているカラーボックスがあったら片付けてくれるし、稼いだ額をわたしが言ったら「それ恥ずかしい」とは言わずに「すごいねー」と言ってくれます。
それが当たり前です。

子育てを手伝っているとか、家事を手伝っているとか、夫にそういう描写が全くないのが気になります。そして、追い詰められる気持ちになったのでは。

ゲシュタルトセラピーでは、気持ちが楽になるかもしれないけど、本質的な解決にならないと思います。

*****************

岡田さんのセラピーですが、ワークの途中で「?カルトっぽいな」と思う場面がいくつかありました。

「目に見えるものを書いてください」
というので、書くのですが
「これは、見えたものじゃないですね。考えですね」と言って「色」について、否定するのです。
「色は黒っぽいかもしれない、でも完全な黒じゃない」という風に、判断が入るものは間違っているというのです。
だから「優しそうな顔」というのも、判断が入っているから見えているものじゃない、というのです。

でも、そうしたら、名詞というのは抽象概念だから駄目じゃないかと思ったのですが、名詞はよいらしい…。
えらく主観的じゃないかなと思いました。

今、見えることにフォーカスしてくださいと言って書いているのに、色や形や素材については「確かめられないから想像」「考え」と言われたり、「動詞で表せるものは、本当にそうなのかわからない」と言われたりします。

そして、どんどんダメ出しをしていくスタイルです。

だから、セラピーなのに気が重くなりました。人は、正解しないと苦しくなります。
名詞がいいのがなぜなのか謎です。名詞も確かめられないでしょう?眼鏡に見えても眼鏡じゃないかもしれない。
膝に見えても膝の範囲はわからない。足が見えても、脚なのか、足なのか、範囲選択できない。

色が禁止されましたが、色のほうが客観的です。
それは、光の差分が取れ、測定できる要素だからです。

「お昼ご飯食べたいものを考えて理由をつけて話してください」
……。

「理由をつけたら、それは考えなんですね。今にフォーカスしていない。だから、過去なんです。過去について検索して、考えていることになるんです」

そうなのかなあ……。
でも、それを言ったら、五感すべては、遅延を伴って肉体につながって、それから音速の速さで脳内を駆け巡るものだから、五感で感じたものすべては、過去のものになるんじゃないかな。そして、考えは過去、感じていることは現在というけど、厳密な意味で言うと、感じていることも過去のことになるのでは……。

「インチキじゃないですよ」
と岡田さんが言ったので、だいぶ雲行きが怪しいな、と思いました。

「インチキ」だといわれる方がわたしは安心します。「インチキじゃない」と言ってくる人はたいていインチキだと思います。

ヒプノセラピーも受けたり、レイキヒーリングも受けたりしますが「楽しい範囲」でと思っています。
温泉と同じですね。
医者は信頼しています。温泉やマッサージで本当に病気が治るとは思っていませんが、気持ちがいいので行きます。
上記二つも、面白い、楽しい、なんだかリラックスするというところにお金を払います。

ベシー占いというのをわたしはやっていますが「当たります」「信頼できます」とは一言も書いていなくて「インチキでも受けてみたいなー」くらいで受けてほしいと思っています。「ベシー」の自己紹介は「宇宙の妖精」なので、そこを乗り越えられる人にだけ、お客さんとして来てほしいわけです。だから、なんだったら「インチキ」ですよ、くらいは言ってもいい気持ちでいます。というか、言いたい。信じなくていい。
わたしも信じていない。怪しい。
信じてないけど面白いと思う人だけでいいです。

その後、実際のグループワークに移ったのですが、「ファシリテーター」としてこの人どうかな、と思いました。
ファシリテーターというのは、ゲシュタルトセラピーで、相手の感情や動作を引き出す人なんですけど、なんだかいう文句が通り一遍で、「あ、これ田房さんも漫画で言われたセリフと同じだ」と思いました。
そして、やりすぎでした。
わたしは、感情を爆発させすぎて手にけがをしました。セラピーでけがをするのって本末転倒だし間違っている。
もっと殴って、と言われたから(わたしが誰かばれてしまいますね)もっと殴ったんですが、トランス状態というか、催眠状態に入っていて、言葉通りに動きたいんですよねどうしても。あれは泊めるべきだったと思う。最初から、「こういうことで殺したい人がいる」というのでテーマのあるワークをしたわけだし。感情を出しすぎないようにコントロールするのは、岡田さんの役なのに。それができていないのは、おかしいと思います。

わたしは、殺したい相手の椅子に座ったのですが、言いたいことも考えていることも何も浮かびませんでした。
だから「何もわかりません」と言って椅子をまた移ったのですが、それも当然で、自分以外の人になって、話すのは、「自分の願望」「自分の言ってほしいことを話してほしい」というのが、ある時だと思うのです。
わたしの殺したい相手の一人は犯罪者だったので「願望」がないのです。だから、相手に言わせたいことは何もないのです。

自分の言ってほしいことを過去の人に言わせたい分にはいいと思います。
最初に「この人に、本当は、こういうとを言ってほしかった」と思っているなら。
でも、そうじゃないことには向かないセラピーだったと思います。
ほかの団体だとどうかは、わかりません。
でも、トランス状態に(いわば勝手に)したうえで、感情を吐き出させて、クライアントにけがをさせるっておかしいと思います。
催眠療法は、最初に「催眠状態にします」という宣言があってそれを了承して始まるのですが、ゲシュタルトセラピーは催眠状態にするのにあたって何も一言もないのが怖いと思いました。

また、チェックインはありましたが、チェックアウトがありませんでした。
これは怖いなーと思いました。
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岡田さんは終了後、12800円の本を売っていました。
田房さんは先に帰りました。
グループワークも一人当たりの時間が一時間と長すぎました。
田房さんは角川の人に昼休みを削ってサイン会をさせられていました。
嫌でした。

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帰ってから、岡田さんと田房さんの対談を読んだのですが「嫌いな上司がいる」という話に「過去嫌に思った人を投影している」「言われたことを違う風に解釈している」という風に言っているのですね。
でも、嫌いな上司なんてやまほどいて、屑みたいな人間が上司のことって山ほどあるじゃないですか。
そこを、過去の出来事のせいにしてしまうと、現在の問題を具体的に解決できないと思うのですね。
(過去のせいにしていないという風に言われるかもしれないけど)

ゲシュタルトセラピーの結果、いらいらやキレるのが収まると、本当は「退職」した方がよかったのに、現状維持をしてしまう可能性があります。本当は転職するのが一番良いかもしれないのに、ゲシュタルトセラピーでガス抜きができてしまうと、現状の追認に働いてしまう危険性があります。
でも、人間は生きているから、今起きていることに普通は反応する。
岡田さんのゲシュタルトセラピーは「今」の動作に注目して「過去」あった抑え込んでいる心にアプローチするものだと思うのですが、それだと、「今、危険にあっているから怒っていること」を「過去の出来事のせい」だから、自分の心にアプローチする、という行動をとらせてしまい、現実の改善をしないで済まさせるようになってしまいます。
セラピーの意図していることが逆転しています。
意図していることは生きやすくすることなのに。

わたしは夫にキレるなら、夫を交換したらいいと思うし、ママ友が気に入らないなら、関わらなければいいと思います。
それでなにがわるいのでしょう。
キレる原因を作ったほうが悪い。そう思います。キレていい。キレていいです。

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ゲシュタルトセラピーと「キレる私をやめたい」について


徒然草はつまらない、更級日記委は面白い

徒然草はおっさんが、なんだかいろいろだらだらほざいているだけなのでつまらない。

更級日記は、菅原道真の子孫が書いた日記だ。

更級、というのは、姨捨の言い換えで、作者が年を取ってから書いた日記の意味だ。

彼女は、紫式部やカゲロウ日記の作者の親せきで、妻女である。

初めて働きに出たのが、30歳前後で、親が寂しがって泣いている。

とてもかわいい話がいっぱい書いてある。

物語が読みたくて、十一歳の時に等身大の薬師如来を彫って、物語を読ませてくださいと祈ったり、物語が読めたときには、帝軒先になるよりも幸せだと和歌を詠んだりしている。

中学生や、大人の女性に読んでほしい。

結婚も遅く、33歳で結婚して、子供を産んだのもそのころだ。
晩婚、高年齢出産もよいところだ。このころ、ようやく少し現実的になったらしい。

ふらふら生きながらたくさんの人に愛された人だ。
愛されるのには理由がある。
心がとてもかわいい。

この本がとてもおすすめだ。
この本を一冊きちんと読めば、大学入試まで戦える。
読みやすいので中学生にもお勧めしたい。

萌え萌えになって、なかなか読み進められない。
名著である。


尼のような子を読み終わりました

何か面白いことを書こうと思ったのですが、面白いことが一日に存在していないので書けないな、と思いました。

今日は、尼のような子を読み終わりました。

尼のような子

尼のような子

真っ暗な中をひたすら疾走、そして失踪していくような文章がまぶしかったです。

愛するものに対して、歪んだ熱さを持って走っていく情熱が、うらやましいような気がしました。

わたしは、そうしたい気持ちもありながら、破滅するのが怖くて、自分にストップをかけているのだと思います。

最近の少年アヤさんのブログを読んだら、もう走る必要がなくなったのかな、と思いました。
一時期の文章は危うげで、読んでいて苦しくなるようでしたが、最後には力強く去っていたので、素晴らしいと思いました。

少年アヤさんは、わたしよりもずいぶん若く、早く親離れができてよかった、と思います。

わたしは親離れがなかなかできませんでした。
少年アヤちゃんには、生きる情熱があって才能もあって、みんなから注目されていてうらやましいなと思います。

わたしには何があるかな、と思います。

少し前に読んだミニコミで、事務員であることが耐えられずに仕事を辞めた人の話がありました。
わたしはそれを読んで惜しいなと思いました。その人は面白いことをする自分でいたいから仕事を辞めたのだと書いてありました。

わたしは、普通の人が、普通に働く物語が読みたいと思いました。
わたしには、それはできないので。

だから、わたしがいくら自分のことをつまらない人間だと思っていても、自分が思っていることを淡々と書いてけば、誰かが面白いと思ってくれたり、気が楽になると思ってくれたり、するのだろうな、と想像します。

わたしは自分自身の文章を読み返すとき、だいたい、面白いなとかつまらないなとか、自分のことを忘れて読みます。

だから、やっぱり少年アヤさんの素晴らしさとわたしの素晴らしくなさを比べても仕方がなくて、わたしと少年アヤさんとは全然違う人間だけれど、わたしも少年アヤさんも、文章を書きたいうちはたくさん書いて、読んでもらって、読んでもらう規模は全然ちがうわたしたちだけど、文章を書くところは同じだし、きっと願っているものも同じだから、いいな、と思いました。

それで、わたしはつまらない日でも面白くないなりに文章を書こうと思いました。
そうしたら、一日が面白くなかった人に、他にも一日が面白くなかった人がいるんだなと思ってもらえると思います。
それがわたしにできる一番いいことだと思います。


面白い本 仕事文脈 女と仕事

文学フリマで買った、仕事文脈三号、女と仕事を読みました。

読み応えがあって面白かったです。

仕事文脈の本は、嫉妬を呼び覚まされます。
「わたしにはこんなに仕事はできやしない!」です。
出ている人は、キラキラ、華やかです。うまくいっていない人も華やかに見える。うーん。
「本の力だ」
というわけで、やっぱり嫉妬してしまうのです。

わたしは就職がうまく行きませんでした。
やりたいこと、自分のしたい生活、向いていることが、ちっともわかっていなかったからです。

仕事を考えるときには、この三つが大事な気がします。

わたしは、SEになりましたが、SE向きの生活がしたかったわけではないです。向いてもいませんでした。

今は、塾で働いています。向いていると思います。したい生活

文学フリマで文章を書くことは絶対にはずせません。
だから、今の生活で良かったのかな、という風に思います。

いろいろな働き方を、今からでもいいから、知りたいと思っています。

世の中に出回っているインタビューはキラキラしすぎていて、参考になりません。
そこそこの人の話を知りたいな、と思っています。