【女装して一年間暮らしてみました】の裏切り【感想】

ふむふむと読むことができる部分があったけれど、最後に残ったのは落胆だ。

男が女装をするとき、そこには選択肢がある。

女にはない。女は嫌になったからと言ってやめられない。男が女装して女として暮らしても、止めることができる。

わたしたちは、スカートや下着を楽しむことができる一方、それを拘束着としても感じる。

ハイヒールは痛い。したくてするのと、したくないのに、義務や圧力からするのとは違う。目立つと、たたかれる。自分を表現する服装にたどり着くのは難しい。わたしにとって、女の格好をすることは、自由を獲得する行為でもあるが、その一方で、圧力によって装うからだ。

男の服装は、彼の言うようにシンプルだ。ズボンを履いてシャツを着て、ジャケットを着れば事足りる。

女はそうではない。爪が引っかかれば一瞬で破れるストッキングは一枚500円で、それを穿かないとマナー違反だと言われる。

はきたくてはく人もいるだろうが、そうじゃない人もいるのだ。

最後に、女性が変わるべきだと、メッセージを送って、女装をやめたくだりには、失望した。失望、がっかり、一年間してみて、その感想だったのかと。

男が女性に持つ妄想と、女が男に持つ妄想と、どちらがきついかと言えば、男の持つ妄想のほうだ。男は、女の体を扱う時、「女は痛みを感じない」という前提で触れることが多い、わたしはそういう経験をした。

たしかに、女が男を人間として見ないで、「理想」の型にはめることはある。

でも、男だって昼は処女、夜は娼婦みたいな妄想を持つ。どちらが有害か。

彼は、女が男に対する妄想をやめればいいというようなことを言った。そこから男は変わると。男は変わりたがらないからと。

それはとても卑怯だ。彼は、性暴力の被害に遭った。女の姿をしたら、どれだけ暴力にさらされているのかわかったはずなのに、「女に変わることを求めた」。

男は変わる気がないから、変えるとしたら女が変わるべきだと。

では、あなたは男ではないのか。男として、男を変えることができるはずではないのか。女が男を変えるよりも、ずっと楽なはずだ。なにしろ、彼は男の中でもエリートで、男に対する影響力があるから。

女には、男に対する影響力はない。

女装は、女にとって、楽しみである一方、苦しいものでもある。

それを彼はごまかした。

彼の中の女の部分を大切にして、彼が解放感を味わい、本当に生きる実感を得たのは素晴らしいことだと思う。

でも、たった一年間でなにがわかったんだろう。

上澄みだけ。

男が女を人間として扱わない経験を彼はした。男友達は失せ、暴力にあい、軽視された。

男が女を人間として扱わないのに、どうして、女が男を変えることができるんだろう?

こちらが何をいっても、人間がしゃべったと思ってももらえないのに。

生まれてからこのかた、女として扱われることが、どれだけつらいか、彼はたった一年で音をあげたことからもわかるだろう。

彼はそれをわかっているのに、女に変われと語った。欺瞞だ。

彼は、その経験を持って「男」にアプローチするべきだった。

女に語るのではなく。彼はきっと、女に語るほうが負担がなかったのだ。

女の姿をしている間、男に暴力を振るわれたから。それで、簡単なほうを選んだ。

わたしは、だから、読後、騙されたような気分になった。


【母からの解放(著:信田さよ子】感想~母のなかったことにする力

読んでいると実家にいるときのことを生々しく思い出して何度か叫びそうになりました。社会構造から母娘問題を読み解く本です。今回は具体的な解決方法が載っていました。

 

母は、「なかったことにする力」で世の中を渡ってきた、だから、その力には勝てない。謝ってもらおうとか、理解してもらおうと思えば、距離が縮まってしまう。

そのことを、「わかってもらおうと思うは乞食の心(田中美津)」を引いて説明しておられ、フェミニズムから見た母娘問題の本として、優れています。

虐待と毒母の違いは「虐待は客観的に判断できる指標がある。毒母は母が重いと思う娘の主観的な言葉」という定義づけが改めてされており、「毒母という言葉で、母親が追い詰められてはならない」と明言されていました。

主観的なことは、劣っているという意味ではありません。

力強く、自分に何がありどう感じたか、表現することができるのは、それはそれは大切なことです。すべてのスタートと言ってもいい。

男性は、それを軽んじます。わたしは、主観を大切にします。

気持をなかったことにされてきた娘たちにとって「母が重い」「毒母」という言葉は、発明でした。その言葉を手掛かりにして、自分の気持ちを発信できたからです。

社会の矛盾のしわ寄せとして母娘問題があり、だから、娘の声は社会にとってないものとしてきたほうがありがたい。社会や母、父は、ハッピーな加害者だからです。

彼らは、今のままが幸せです。だから、現状に異を唱える者が邪魔です。なので、その「異」をなかったことにします。そうしたら、丸く収まりますから。

だから、彼らにとって「邪魔」になる言葉は、わたしたちにとって有益なわけです。彼らが邪魔だと言ってきたら、効果があるということです。彼らにとって、痛くもかゆくもない言葉には力がない。

母親と友達になれるか?を基準に考え、もし、できないのならば、その関係は母の意向だけでできあがっている、もし、そこから距離を取りたいのならこうする、という距離の取り方が具体的に書いてあります。

何をされて、自分はどういう影響を受けたのかを明確にし、言葉遣いを改めて他人のように接する。家庭内別居ができるのだから、と、貧困ゆえに実家から出られない人も母親と距離を取る方法も記されていて希望が持てます。

実家を出ればいい、とさんざん言われてきましたが、病気や障害、支配によってエネルギーを確保できず、実家から出られない女性、非正規雇用も三分の二に届こうかというご時世ですから、お金がない女性、いろいろな人がいます。そういう人たちが無視されていないのはとても心強いと感じました。

「なかったことにするスキル」「聞こえないスキル」「自分の矛盾に疑問を持たないスキル」が彼らにはあって、そのため、彼らは自分たちのダブルスタンダードを維持できます。

聞くことができない、理解することができない、のではなくて、彼らは「理解したくない」「聞きたくない」「無視したい」と考えて実行しています。

それを、わたしは今まで「理解できないならわたしの努力が足りないのだ」と解釈してきましたが、そうではなく、彼らは「理解したくないのでそれを実行している」だけなのです。

そして、「理解できても、わからないことにする」ほうが便利なので、そうしています。彼らはしたくてやっているのです。したくないけど仕方がなくというわけじゃなくて、心からそう思っています。

現実を「見られない」んじゃなくて「見ない」「見たくない」んですが、そこを被害者や抑圧される側の人はまさかそんなことはないと思って、「理解したくない」ので、「話せばわかる」と期待しています。その期待は間違っています。彼らは望んでいないし思うとおりに行動しているのです。

 

わたしは、母を「助けたい」「救いたい」と長い間思っていましたが「彼女は好きでそうしている」のだとわかってからはだいぶ楽になりました。愚痴を言うような人生を送りたいと思っているからそうしているのだし、愚痴を言える先があったので幸せだったのです。そして、愚痴を言われるわたしは不幸でした。

わたしは「彼女を愚痴を言わなくて済む環境に暮らせるように変えたい」と思っていました。それが解決方法だと思ったんですね。でも、そうじゃなくて、わたしが変えられるのは「自分が愚痴を聞くことをやめる」という部分だけです。母はそもそも他人です。他人を変えることはできません。母を変えることができるとしたら「コップを外から揺らされたとき中の水が揺れるように」現状が動いた時だけです。愚痴を聞いている間は、コップは揺れません。

母は、言いたくて愚痴を言っているのですから、変えられるわけがないのです。

 

母や、差別者と話していると、こちらは疲れます。でも、あちらは疲れません。あちらは「言葉の遊び」だと思っていることが、こちらには差し迫った現実です。でも、加害者はハッピーなので、現実を知りたくはないのです。知りたくないから知らないのです。ここをわたしはずっと勘違いしていました。知りたいけど能力がないからできないのだと変換していたのですが、素直に受け取れば、できるけどしたくないから知らないでいたいだけなのです。

 

Twitterで見た言葉ですが「人殺しでも犯罪はよくないと言える」のです。だから、差別者や親が、いくら「差別はよくない」「抑圧はよくない」と言っていても、言葉だけだということを覚えておきたいと思います。差別はよくないと言っている分にはいい人だと自分のことを思えますし、まったく疲れません。でも、現実的に行動を改めるのは嫌なので、そういした言動不一致が取れます。

そこで「なかったことにする力」が発動するのです。こちらとしてはなすすべもありません。

引用

p196 女性である前に人間である

私たち女性は骨の髄まで女性なのではありません。男性と同じ人間です。人間というベースに子宮や膨らんだ乳房をはじめとした、女という属性がプラスされているのです。

~略~

いっぽうで男性は、男というより人間だと思っています。

~略~

たとえば女性から、「あなたも性犯罪者と同じ男性ですよね」と質問されたとき、彼らはどういう反応をするでしょう。「ええ? そうですね。同じ男ではありますね」と。冷静に応じる男性は、相当に考え抜いている人です。

多くはその質問をされたことに驚き、「あいつら、人間じゃないですから!」と、声高に性犯罪者の男たちをまず「人間」の分類から外そうとします。人間ではない性犯罪者対人間である自分、という構図にもっていこうとするのです。

男性はどうして、性犯罪者と同じ属性だということを認めることができないのか、常々不思議に思っていました。

そもそも、男性がジェンダー(男らしさ)を意識するのはそういう特殊な時だけで、ふだんはman-humanという壮大な図式の上に乗っかっていて、めったにジェンダーやセクシャリティについて考えなくていいという、とってもハッピーなひとたちなのです。これはとっても不平等なことじゃないでしょうか。

そして、ここに答えが書いてあったので、わたしはショックを受けました。

なぜ、あれほど、自分が男であり、性犯罪者と同じ男という属性を持つことをかたくなに否定するのかというと、彼らは普段自分を男だとわざわざ考えていないので、特殊な時に、性犯罪者という刺激的な言葉を聞いて、「自分は男だ、そして、男という属性は汚されてはならない」と反射的に刺激に対応しているのが分かったからです。あれは特殊な男で自分はそうじゃないと、分けたいのです。

たぶんですけど、「女にも犯罪者はいる」と言われたとき、女性の反応は「ふーん、そうだね、女にもいろいろいるから」って感じでショックは受けないと思うのです。

だから、「男性に性犯罪者がいるよね」と言われたとき「男性差別だ!」「同じように言われたらそっちも傷つくだろう!」と言ってくる人たちが不思議でなりませんでした。

「ハッピー」だから考えないし、考えないからハッピーなので、女性に「考えないほうがいいよ」と言えるわけです。自分が考えてないでハッピーだから。

因果が逆なのに、「女性は考えることでわざわざ不幸になっている」「自分は考えないからハッピーだ」と無意識に思っているのです。

女性が「考えざるを得ない状況」に日常的に

p198

女性は夜道を歩くとき、満員電車に乗るときなど、さまざまなシーンで女であることを意識させられます。それは強制されると言っていいでしょう。絶えず、被害を受けるかもしれないという防衛体制を崩せません。

というわけです。でも、それを男性たちは「理解したくない」から、「どうして女は自意識過剰なんだ」「男を犯罪者扱いするのは男性差別だ」といってくるのです。だから、わたしたちは「どうして理解できないんだろう?」と頭を悩ます必要はありません!理解したくないんだから、何を言っても無駄なんです。

フェミニズムについて、よく誤解されがちですが、敬愛する女性学の研究者が主張しているように「弱者の思想」だと私は考えています。弱者は弱者であることことで尊重される、弱者であるがままに生き延びることができる社会を目指す考えなのです。

と書いてあることに全面的に賛成です。

力の差があるのに、ないかのように扱う、現実を見なかったことにする、「娘と母」「女性と男性」の間にある、厳然とした力の差をなかったことにして、「気にするから存在するんだ」と言ってくる人たちが大勢います。

「気にするほうが差別者」と、言葉を投げられたことともあります。

p199

フェミニズムに触れ、母親も自分と同じ女性であること(共通のジェンダー)を見つめる必要があります。

わたしは、子育てをする中で、悩みます。同じことをするんじゃないかと。具体的に自分がどう育てられたか思い出します。

だからそれを一歩進めて、具体的に母親の謎を解き明かすことで、わたしは、母と自分を分けたいと思います。


自閉症的生活【考えない練習】感想

考えない練習 著者・小池龍之介

 

【読後具合が悪くなったので勧めません。単に実家が強くてうまくいっただけなきがする】

この本を思ったのは、「自閉スペクトラム症みたいな考え方だな」ということ。

管理できるだけのものをもつ、計画を立てて行動する、決まったパターンの生活をする。人と群れたりつるんだりしないで、一人でいることを苦にせず、じぶんのしたいことをして、思っていないことを言わない。顔色を窺わない。感覚が鋭い。自分の感覚を大切にする。オンとオフをはっきりさせる。使わないモデムの電源は落とす。テレビはノイズになる。

これって、とっても自閉スペクトラム症的。伴侶は、足音を立てずに動く。ほとんど伴侶は実践している。

わたしは、コレクションをしがちなので、自閉スペクトラム症の人が全員これを実践できているということを言いたいんじゃなく、この考え方は、自閉スペクトラム症の持ち味を生かせるなと思った。

賛成できない部分もあって、子供に対する声掛けのところなんて、机上の空論だなと感じた。

でも、何かに気を取られて、上の空でいると、その上の空の分人生がなくなってしまう、というのは、最近実感していること。

過去の怒りに燃えている間は、今現在をきちんと実感しながら生きることができないし、何かを欲しがっている間は、食べているものの味もしない。

わたしは、頭の中のノイズに悩まされているので、どうしたらノイズを減らせるかというのは参考になった。脳が刺激を求めてしまうから、自分から苦痛をむさぼって、そしてそれが解消された状態を「楽」だと思い込んで、繰り返してしまうというところは、自分がそうしているという実感があるのでよくわかる。

何かを欲しいと思うことも、渇望することも、苦しい。こういう自分になりたいと思えば苦しい。それを開放すると楽な気がする。でも、手に入れてうれしいのは一瞬だから、また、ほしいものを探してしまう。

ただ、ちょっとわからなかったのは、怒っているということをどう扱うのかということ。

闘わないと、ずっといじめられる人にとってどう受け取ればいいんだろう?

たしかに、怒りの言葉を発しているうちに、どんどん自分が言葉に引きずられて興奮してしまうことはある。

でも、どうしてもつらい出来事や理不尽な出来事があるとき、怒るのは自然だ。そして、それは言わないと伝わらない。

相手が、それを聞いてどう思うかどうするかは、相手の問題だけど、怒りや、差別などをどう扱えばいいのか。

自分の中だけで解決すると、世の中は変化しない。それって、差別される人にとっては甘んじること、同化することに他ならないから。

折り合いをつけるためには、一度、怒りを感じて、それを今感じているんだなと認識して、それを表現したら、あとは受け取り相手に任せるという態度が必要なのかなと思った。

興奮してしまったり、刺激が強いものは避けたりするというのはいい考えだと思った。ネットは不愉快なものをわざわざ見るのに適したものだ。

そして、わたしは、結構そういうことをしてしまう。とくに、刺激がほしいようなとき。自傷みたいだなと前から思っていた。それは、脳が、刺激を欲しがっているからだ。その刺激は何だって良いのだ。

テレビのお笑いについて「相手を貶める」「自分を貶める」「混乱させる」の三つだと書いてあったのは、その通りだなと思った。お笑いを見ていると、自分の中の「当たり前」が破壊されるようで苦痛だ。

 

 

近頃、おいしいものを食べても、上の空だと、食べた感じがないから、ちゃんと集中して食べることが大事だなと思っていた。

テーマとして「集中してぼんやりすること」を主治医に宿題として出されていた。人は、集中してぼんやりすることが大事なのだ。

スマホを見ると、刺激が強い情報が多いので、自分がここにいないみたいな感じで、苦痛をマヒさせて、時間をスキップすることができる。でも、それだと、体がここにいるのに、心が体のある場所からなくなるから、自分の人生がすり減ってしまう。

だから、時間を短くする、手を動かしたり体を動かして、心と体が同じ場所にいることを心がけようと思った。


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ケアワークの不均衡

感情を使った行為を繰り返すと疲れる。
感情を人のために使うことをケアワークという。
言語化されていないことを読み取って、元気かな?機嫌はいいかな?と様子を見たり、人の相談に乗ったり、慰めたり、励ましたり、そういう感情面に関わることすべて。
昨日うちではケアワークの不均衡について話し合った。
「わたしにケアワークをしてくれ」「ケアワークをさせないでくれ」というのは、一見わがままだけど、実際には、「顔色をみる」という手間を省いているので、とても親切な行為。
自己主張が激しいという人もいるけど、そうじゃなくて、察してと思ってばかりの人といると疲れるでしょう?
はっきり要求を伝えるというのは、自分のことをモニタリングできている証。
言わないでもやってもらおうと思っている人のほうが甘えている。
もちろん、してほしいといっても、拒否されることもあるし、相手に拒否する権利はある。
それが尊重ということ。
依存というのは、全部相手に何かを押し付けること。
謝ること、判断すること、決断すること、世話をすること、健康管理を任せること。

どうすればいいか、いちいち相談してきて「こうしたらいい」と判断してばっかりは疲れるでしょう。
それはケアワークをさせられているというわけ。
責任まで取らされるなんて、損もいいところ。

決断、判断も、感情労働に代わりはない。状況と結果を判断する。決断に責任を持つ。

たとえば、わたしとパートナーとは一見、彼がしている仕事量のほうが多いけれど、ケアワークを担っているのはわたし。
彼は自己モニタリング力がまだ弱い。
だから、わたしはそれを補う必要がある。気持ちや、感情、体調全般。何を必要としているのか、どうしたら、よくなるのか。

彼はわたしにたいして、それができない。だから、わたしは自分のことを自分でする。

してほしいと頼むときもある。でも、「察して」くれることはまずない。わたしは彼の顔色を見て、判断して、どうしたらいいか、考えるのに。
思いやってもらっているという感覚が、必要なのに。

昨日起きたことは
「毎日相談してくる人がいて困る。ラインがめんどい。しんどい。もういやだ。自分で決めて自分でやってほしい。だからそういったのに、わたしはしつこくできませんよ笑って返事が来てなんも通じてなかった。もう無理だからやだ」
と言ったら、へんな顔をしているので
「どうかした?」
と聞いたら
「僕もいつかいやになられるのかなって」
と言われた。
本人も言わないほうがいいと思ってたから変な顔をしつつ黙っていたらしい。
だけど、変な顔をしていたら、聞くし!聞くことですでにこっちは労働している。
で、「そもそも変な顔をしたのが悪かった」と言われたんだけど、感情を持つな表現するなと言っているわけじゃないので、最初から
「僕のことを嫌にならないでね」と言えばいいのだ。
毎日ラインで相談されるというのは子育て中にしんどい。だからいやだ。自分で判断してほしい。
で、それと一緒に生活しているパートナーが同じわけない。
だから、その後わたしは
「わたしをケアしてよ!」と言ったら「体が動かない」と言われた。
「あのね、ケアしてくれというのがすでに親切で、足もんでほしい、ぎゅっとしてくれっていってるんだよ、それでなんで悩むのさ」と言った。
もう、こういう話し合いもはっきり言って疲れるし面倒だけど家族だからしている。

わたしが、自分を慰めるために、「足をもんでほしい」と具体的に言っているのは超絶親切なことでそれで仲直りしようと言っているのになんか悩んでしてくれないのでわたしは説明までしないといけないので、無限に疲れた。
自分で自分を大事にすることができないと、人のことも大事にできないいい例である。

自分の気持ちをモニタリングできず、表現できないから、他人を粗末にしたり、依存することになる。
自己表現とは自立の一種だ。
黙ってわかってもらえると思うのは甘えだ。

対等というのは、ケアワークのやり取りが同じ分量であること。
だから、子供と大人では対等ではありえない。
まして、子供にケアワークをさせていたら、大人は子供に暴力を振るっていることになる。
男女でも、男性はケアワークの経験が乏しい。自己モニタリング能力も劣っている。
でも、だからといって野放しにしていたら、絶対にできるようにならない。
だから、育ててやる筋合いはないものの、仕方がないから話し合っている。


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昨日から【毒親の子が親になった】という本を販売開始しました。
12月3日午後五時から4日午後五時まで、二十四時間の無料配布キャンペーンを行います。
ぜひ、ダウンロードをして、読んでください。
レビューや感想など頂けましたら、とてもうれしいです。また、アマゾンにレビューを投稿していただけると、ほかの人が読むかどうかの判断材料になるので、助かります。

虐待された人間が親になって、まだ三か月ですが、どのように考えているかを中心に書きました。
【内容紹介】
毒親に虐待された子供が、親になるときに、感じたことは、「こんな弱くてかわいい子供に、ひどいことをできるのはおかしい」ということでした。
出産する前よりも、強い気持ちで、親には絶対に会わないことを決意した理由は、虐待の連鎖を防ぎたいからです。
自分のことだけを考えるなら、いつか、自分の気持ちをわかってくれるかもしれないという淡い期待を断ち切れなかったけれど、自分に守るものができて、その期待を捨てようと思いました。

目次
毒親の子が親になった
虐待をしてしまうかもしれないわたしへ
親の喜び
 妊娠初期
 妊娠中期
 妊娠後期
 妊婦に対する男性からの嫌がらせや暴力
 周りの反応
 母親学級による出産にまつわる知識
 出産直前
 成長に対するさみしさ
 親の喜び
 男親のできること
 親には感謝しなくていい
あとがき
奥付


特権性や周縁性について語るとき、わたしは引き裂かれる

この記事は下記の読書会に向けて、準備として、書かれたものだ。

feminism mattersスカイプ読書会のお知らせ
この読書会に参加した。結果として、わたしとしては、ストレスで耳が遠くなってしまって目覚めた。
もちろん、ほかの参加者の方には有意義な会だったと思う。
ただ、わたしにとっては、しんどかった。

特権性や周縁性について語る、ということは、アンビバレンツな性質を持っている。
それは、このような問題を語りうる、という時点で、特権性があるということに他ならない。
情報にアクセスできるという意味で。
また、その反面、このような問題について考えなくてはいけない立場、というのは、それ自体が周縁だということを示してもいる。

読書会のテーマには、「特権性と周縁性」がキーワードになると思って準備していた。
わたしの特権性は、
「大学で学問をしているがゆえに、アクセスできる情報や、処理、そして、発言力がある」ということ。
「ある程度経済的に恵まれていること」
「子供のころからフェミニズムに触れていたこと、自分なりに戦ってきたこと」
「オープンにしていられるということ」「シスジェンダーであり、ヘテロセクシャルであること」
「日本人であること」
があると思っている。
反対に、周縁性では、
「障碍者であること」「障害や、被害を受けた経験から、人の多いところに出られないがゆえに、デモに参加することが難しいこと。そのためいわゆる数に数えられないこと」「東京中心主義ではないこと。これは、あらゆる運動が抱えている問題でもある」
「もちろん、女性であるということ」「性暴力や被害を受けていること」
が、あげられる。

わたしは今、一日長くて五時間程度しか起きていられないから、活動内容は非常に限られる。
何かしようとしても、体が動かない。
それは、個人的な問題であり、社会的な問題でもある。
このような人間でも、参加できる何か、というものが、あるかどうか。

インターセクション、というのは、様々なアイデンティティがある中で、どうするのか、ということを話すべきだと考えていた。
そのため、自己紹介でもそうしたし、最近の運動体が抱える問題について、どうしても、特権性の高い人たちが主導するがゆえに、少数派の中の少数派の意見がかき消えてしまうということを話したかった。
数になれ、というのが、シールズに代表されるデモの主張だったし、そして、わたしはそれに相容れない。
もちろん、シールズが掲げたことは、目標として、大切なことだと思っている。しかし、大義のために小異を捨てろ、というのはどうしても首肯できないのだ。
わたしは、わたしだからである。そして、大義のために小異を捨てろということの積み重ねが差別につながるからである。
少数派はずっと順番待ちをしている。
そして、大義は、特権側がずっと持ち続け、大義を選び続ける。
結果、少数派にチャンスは回ってこない。永遠に。
小異を捨てた結果、特権側には、少数派が小異を捨てたことさえ、目には見えなくなるからだ。
小異が無価値になる。

人にはそれぞれの経験があり、考えがあり、蓄積されたものによって、出力される考えが異なる。それを一致させることは難しい。
それを共感で埋めようとする人もいるが、わたしはそれに反対だ。
なぜなら、共感される人だけを救い、そうじゃない人は放っておく、という結果になりがちだからだ。
どうしようもない人を、どうしようもないまま、守る、という態度が、反差別において必須である。
それが権利というものの性質だからだ。

また、わたしのように、一般的に共感と言われる機能が、脳にない人間もいる。わたし自身は、わたしなりの共感があると思っている。でも、たぶん、わたしから見る、ほかの人の共感と言われるものの多くは「差異をうやむやにして、平和裏に物事を推移させるための、対話をなくすためのもの」であって、それは、特権性の高い人の声をより大きく保つ機能があると思っている。
わたしには、それはない。
ない、というか、理解はできるし、実行もできるが、それをどうしても、気持ち悪く思う。

今回の読書会の目的は、特権性について、自覚することも、おそらく大切なことだったと思うが、共感しながら話す、という態度が目立ったために、結果的に、特権性を温存してしまう、ということになったと思う。
そもそも、こうした、差別問題にかかわるときに、共感することで相手を認める、という態度が取れる時点で、それはかなり特権的なのだ。認めることができる立場、という点で。
また、共感を求められる性別役割分担に乗らざるを得ない、という点でも、やはり問題だった。相反するようだが、女性だから、共感性を高く求められる、というのも、フェミニズムが戦うべき課題の一つである。
共感することで、場を流すことは、特権でもあり、被差別の結果でもあるのだ。

心地よい空間を作ることと、フェミニズムは、相容れない。
しかし、人が集団になったとき、人は、心地よい場所を求める。
わたしにとって、心地よい場所とは、「いつでも反論でき、議論でき、場の空気を読まなくて済むところ」である。
もちろん、そうでもない場合もあって、「自分の話を受け入れてもらい、自分の話を聞いてもらい、肯定し合う場所」ということもある。
後者は、いくらか、問題をはらんでいる。
それは、同調圧力として機能しがちである。また、内部の批判を機能させにくい。
同調圧力の結果を、無意識に甘受できる人というのは、その集団の中で、特権的である。
その、同調圧力によって、いうことを選ぶ人、というのは、すでに周縁に追いやられている。

特権と周縁について話し合う場でも、このような矛盾が起きてしまう。
それについて話し合う場であっても、特権と周縁が生じてしまうのだ。

また、周縁側が、批判した場合、特権側は、謝ることと訂正することしかできることがない。
しかし、謝ったところで、取り返しのつかないダメージは残る。
そこに、発言し、行動する難しさがある。
確かに完ぺきなフェミニズムというものも、運動というものも、ない。
だからといって、完ぺきじゃなくてもいいんだ、批判されたときに直して、発展していけばいいんだ、という結論は、単なるエクスキューズに終わってしまう。
指摘する側、踏まれている側には、すでに大きなダメージがあるのだ。
それを礎にすることを前提にし、発展するフェミニズムというのは、わたしは、首肯できない。
わたしは、人に、ダメージを与えたこともある。ダメージを与えられたこともある。

それは、人の健康や命を害するタイプのものだ。だからこそ、慎重にならないといけない。戦うことと、戦いによって相手にダメージを与えることと、また、自分が無意識にした差別によって、人にダメージを与えることと、それぞれは区別されるべきだ。

声なき声を聴くとき、そこには共感はいらない。声を聴く、というときに、すでに立場が固定されている。
それ自体が、特権と周縁を固定しているものだ。
だから、わたしたちは、ただ、そこに存在することだけができる。それだけが、固定化を阻むものだと、わたしは、今のところ考えている。

学問としてのフェミニズムが難しいのは、学問が男社会の産物であること、そして、その立場が、上記の立場を固定化すること、そのために、少数派の力をそぐことが問題だ。

だから、少数派の声を取り上げたり、分析するときには、非常な慎重さが必要になる。
pixivのBLが立命館の論文で取り上げられたときに、問題になるのは、少数派の表現というものの性質が、分析する立場と分析される立場とに、固定化されることだ。

わたしたちは、本当の意味では、言動に責任が取れない。
人のダメージを代わることもできない。
そのうえで、行動すること、発言することを、選択する。


家制度に固執する「誰も懲りない」


中村珍さんの本です。
この本は、お父さんがとにかく大好き!殴られても大好き。
で、お母さんは浮気して出て行ったから悪。
と言っている。

で、なんで悪なのかというと最初よくわからなかったのだけど、よく読むと「藪家」を捨てて「名前」を変えたからってわかる。
殴られたこととレイプされたことはとても悲惨な虐待なんですけど、失うべきものがたくさんあってうらやましい……という感じ。
健康な体や傷のない経歴、不足のない経済、とかね、もともとないから普通の人は。たいてい。
そんで、お母さんの頭をお母さんの彼氏の前で踏むんですけど、その数か月後にのこのこ会いに行って、その場に彼氏が同席していたからって「誰も懲りない」ってコマが出るんだけど、自分の彼女が自分の娘に頭踏まれてたら、次回から合わせないか絶対目の届くところでってなる。

そんで、自分の選択でもずっと不幸っていってる。
でも自分で父親と暮らせねえって出て行ったことも、高校辞めたのも自分の責任じゃん。
そりゃあとから、この選択肢じゃなければよかったと思うことはあれど、高校に行くチャンスがあって、でもやめられて、自活できて、その後バイトして、血縁から借金を負わされることもなく、専門学校行けたんだからいいじゃん……。自分の金だろうけど。

この作品はノンフィクションなのかフィクションなのかわからないから、安心して読めない。
どっちでもいいということなのかな?
わたしはわたしの「ものさし」で測らせてもらうけど、家制度の上の家族に固執しすぎ。
離婚したら夫婦じゃねえし。
死んでも同情されないし。
愛がなくても家族にはなれるし。
愛があっても暴力があるときはあるし。

女にすげえ冷たい。
男が悪さしてても全然悪く言わないのに、おばあさんやお母さんに暴力ふるいすぎ。
その理由もぼけたとか、男作ったとか、普通の悪いことじゃないのに、お母さんが離婚しても彼氏と続いているからって暴言吐きすぎ。
というか、お母さんが離婚するのも、彼氏作るのも人生的に自由だから。

離婚したらお母さんは藪家の妻じゃない。結婚いいやだったらだれでも出て行っていいし。人間だから藪家に虐げられたまま死ななくていいのに、お母さんに離婚するよりかは結婚したまま死ねって言ってるよねこの人。死ぬべきだったみたいなさ。
離婚したからって娘に頭踏まれるのっておかしいよ。

一番お母さんに怒っているところはお母さんの名前が変わって、彼氏を紹介されたときなんだよね。
なんか自他の区別ついていない。家制度上の中では自他は混然一体になるけど。家制度には人格ないからね。
一家の大黒柱のためにほかの家族が耐え忍ぶのが素晴らしいってやつだから家制度は。
そこからはずれて自分の幸せ探しに行ったお母さんのこと憎いんだろうけど、そのあと一緒に暮らしているし。

女すげえ嫌いなんだなと思う。子供を産んだのは「お母さん」だから「お母さんが選んだから自分がいる」みたいなことを書いているんだけど、お父さんはどこに行ったんだよ、と思う。

なんつーか、続けて読むと「家制度に忠実」という意味で「お母さん二人いてもいいですか?」と同じなんだなと思った。

「お母さん二人いてもいいですか?」でも思ったんだけど別にヘテロカップルでも外で子供作れるから。
わたし一人目は六帖さんの子だけど二人目はどうするかわからない。
そんなの、家族によって形は自由だし。
ヘテロはみんな同じだと思ってるのも思い込みだろうと思う。

家族の理想の形が強固にある。
みとられないで死ぬのは悲しいとか、離婚は許さない、とかね。
でも、そんなのないから。


妊婦から見た「お母さん二人いてもいいかな?」について

いろいろもやもやが続くので、また書く。

一番釈然としないのは矛盾だ。
子供たちのアウティングを避けるために、カミングアウトしないという話なのに、そのくだりも含めて本を出している。
婚姻制度を否定しているのに、疑似婚姻届を出す。
家族扱いされないっていってる。
結婚したい人に結婚の自由を、と言っている。
じゃあ、婚姻制度がどうというわけじゃなくて、婚姻制度を実現していたいんじゃない?
でも、そうじゃないといっている。
矛盾。

矛盾点をいくつか挙げていくけど、矛盾しているから以下の部分はうまく読めないと思う。
破たんしているから何度読んでも意味が分からない。
制度上の話に絞るけど。

婚外子差別のことにも触れているけど、制度上の話なら家制度に触れないとおかしい。
でも触れていない。同性婚は大賛成、婚外子差別のお祭り差別には乗りません、というのも矛盾だ。
中村さんの頭の中には結婚するかしないか、という話しかない。
権利を認めるのが大切?という言い方をしているけど、この言い方はおかしい。権利は認めるものじゃないんだよね。権利はあるものだから、権利が侵害されているかしていないかというのも。
どっちなんでしょうか。
婚外子差別があるから仮に同性婚制度があったとしても、結婚していない、と言っている。
わたしも何を書いているかわからないけど、本が矛盾しているから、仕方がない。
(同性婚ができたら、すでに生まれている子はもちろん婚外子にならない。また、婚外子に自分の子がなろうとなるまいと、差別はいけない。そして、自分の妻のことを「妻」っていっているんだから、やっぱ結婚したいんだろうな)
矛盾している本の矛盾点を書いていても、うまく書けないから、このへん自分でもうまく書けないけど。

わたしのために子供を産んでくれてありがとう、これで先に安心して死ねるというシーンがあるんだけど、これもおかしい。サツキさんは、子供のために生んだんだよね。

だってこれさ、六帖さんが「子供を産んでくれてありがとう。これで僕は安心して死ねる人生を用意してもらった」といってたら、おかしいよ。

わたしは、自分の子供を生むけど、籍を入れるつもりはない。
「もともと権利がある人だから選べるんだよね」と言われたらその通りだけど、家制度に反対だから。簡単な話だ。
家制度に反対なのか、制度に乗っかりたいのか、その違いは大きいのに、ポジションをいくつもとってる。矛盾している。
こちらは、意味が分からないからスルーしてしまう。そして、読みたい部分だけを読んで、安心したいと思ってしまう。そういう商売だなと思った。
なんか主張するとき絶対に言いきらないで、逃げ道が用意されているんだよね。だから言葉数が多くなって読みにくくなるんだ。

また男性について種馬扱いを崩さない。男にも人格はあるんだよ。

この本を読む超人しか子育てできないのかと思わされる。
別にわたしにも夜通し起きている体力なんてないし。

産後に弱っている人にああいう言い方したら自尊心削れる。わざといっているのかな、と思う。
サツキさんに無職のおばさんっていっているし。

亡くなった人を婚姻届けの証人にしているのも、亡くなった女性の人格を認めていないから怖いと思う。
もちろん法的に根拠のあるものを求めていないというのはわかるんだけど「この人ならきっと認めてくれる」というのは故人の人格を踏みにじっている。理想化されてもね。


もやもやする本

妊娠七週目で、つらりがひどくて、めまいがする。
マーライオンみたいに吐いた。胃痙攣が起きるほど吐いた。胃が痛くて眠れないし、どういう態勢になってもしんどい。
食中毒かと思ったけどつわりだって。

ところで、この本を批判するために読み返した。
この本はめちゃくちゃ批判しにくい。

フィクションなのかノンフィクションなのかわからないつくりなので、登場人物の言動に突っ込んだら、生きている人間を否定したみたいな気持ちになるのだ。
でも、いつも通り書く。
「お母さん二人いてもいいかな?」 中村キヨ さん

自分でもともと持っていたのだけど、LGBT的な観点から勧められたので、再読した。
でも、これ、危ない本だよなと思った点が二点。

レイプ被害者に、「おばちゃん(キヨさん)」は「体が勝手に起こした反応だ」というのをかなりページを割いて説明しているんだけど、わたしだったら、お医者さん以外にキヨさんみたいな言い方で、ああいう風に言われるのはいやだ。黙れって思う。
レイプ被害者としてのわたしが読むとすごく嫌な気分になった。
なんか、子供に説明しているみたいなんだよ。被害に遭ったからってバカになったわけじゃないんだから普通に話せばいいのにと思った。
あと知ってるし。サツキさんが知らなかったのかもしれないけど、読者に読ませるって、サツキさんだけに話すのとは違って、むき出しのままじゃならん気がする。
わたしの好みだけども。

レイプによって生まれた子供だということをトナくんという長男に話すシーンがあるんだけど「僕はいいけど、ママがかわいそう」というシーンがあって、つ、つらい、と思った。
中学生に何を背負わせているんだって。
家庭の問題だから口を出しにくい部分だけど、こうして本にされているから、まあいつも通りいうのだけど、これって、一生背負うには重すぎる話題だと思う。

公表するかどうか、本人が選べる年になるまで、隠し通す、とサツキさんはLGBTについては、言うのに、レイプの被害の結果生まれた子だ、ということは隠さないのか、そして、漫画に描くのかという風にわたしのなかで物議をかもした。

子育てエッセイってすごく難しくて、子供は、それについて、どうもいえないじゃないですか。でも、プライバシーや自分の反応について書かれて、そのうえ、その稼がれたお金で自分がもの食べたりするじゃないですか。
それらがわかったときの負担てつらいと思うんですよね。
もちろん、わたしはトナくんじゃないから、自分の体験の類推でしかないんだけど。

レイプ被害者が読むとしんどいってわかるように、レイプって話をどこかに帯とかにつけておいてくれないかな、と思った。
わたしはもちろん人のことをさばく立場にないし、誰かが最良だと思った選択肢を否定する立場にもいないけれど、漫画として読むなら、登場人物であるトナ君がこういう目に合わないでほしいと思ったし、トナ君のプライバシーも知らないでいたかった。