体中にシミがある

わたしには、シミがたくさんある。
以前、ネットに自撮りをアップしたとき、生活習慣が悪いから、あんなに肌が汚いのだ、と書かれた。

父も、わたしに会うたび、肌のシミのことを指摘した。
隠すように、日に当たらないように、毎日言ってきた。

一部の人は、病気や、身体的な、悪いとされる特徴を持つ人について、「何か悪いことをしたから、そうなったのだ」と思う傾向がある。そして、実際にそれを口に出す。
また、スピリチュアルな商売をしている人(もちろん、全員じゃないけど、例えばヨガのインストラクターだとか、自然食品の人だとか)は、商売のチャンスとばかり「これをしたら治る」と言ってくる。
わたしは、たくさんのマルチや偽医療に勧誘されてきた。
(余談だが、マルチに騙されている人が、わたしに「なんで騙されるの?ふつうわかるでしょう」と言ってきたことがある。騙されている人は気づかないのだ)

父とのかかわりは短く、十歳の時まで一緒に暮らしたのと、トラブルがあって身を寄せていた二年間だけだった。

総合病院で、わたしのシミは、「遺伝的なもの」と言われた。非常に少ない症例で、その先生も何度も見たわけじゃないけれど、シミの形から言って、たしかだと。
そして、それは、人に気にされにくい形のシミだとも言われた。
人間は、病気だと感じるものを警戒するので、皮膚病に見えないものが、どんなにたくさんあっても、意識に上らないそうだ。
わたしのシミは、ランダムな形をして、重なり合っている。
日焼けでできたシミとは違うけれど、そういう風にも見える。
肌はもともと白いから、若い時に日焼けしすぎました、っていえばいいよ、と医者は言った。
レーザーで取ることができないと思う、広範囲すぎるから、と言われた。
また、重度のアトピーの後遺症もあるから、どの原因のシミか、限定できないから、レーザーの種類を決めるのも難しいといわれた。

カメラマンの知人に相談した。
「シミって、風合いでしょう」と彼女は言った。
「海外の一流モデルは、アウトドアが好きだから、シミだらけだよ。でも、それが素敵なの。日本のモデルは、肌をきれいに保つために、外にも出ない、それだと、ギャラガ何桁も違うの。
シミって、好きだよ、味というか、風合いだよね。風合いがない肌よりも、風合いがある肌のほうが、モデルの世界だと高い値段が付くんだよ。それに、写真にとってもきれいだしね」
と、言ってくれた。
精神科の主治医は、「傷や、シミを、戦いの勲章だと思えない人とは付き合わなくていいよ。それを評価するくらいの人とだけ付き合いなさい」と言った。

無垢なものを尊ぶ文化の中で、年を取るというのは、結構きついものだ。
年を取ると、肌を見せるな、体形が崩れているから、と言われる。
でも、年を取ったから増える魅力があるはずだ。
むやみに露出するということじゃなく、自分が素敵に見えるから、という理由で、肌を出すことも、外に出て、日焼けをすることも、その結果、シミができたりしわができたとしても、それがなんだというのだろう?

悪いことをしたから、体に欠陥があるのだ、という考え方は、人を追い詰める。
生きていたら、なにかしら起きる。
全部正しく生きられない。正しいこととされていることも、時代で変わる。
時代で、また、人の気まぐれで変わる評価よりも、自分が楽しくて素敵で美しいと思えることを大事にしたい。

わたしは、まだ、わたしの加齢やシミを愛せない。
でも、最近は自分の顔立ちを愛せるようになってきた。
体形も、妊娠してから大きく変わった。戸惑って、追い詰められて、妊娠しなければよかったと思ったこともあったけれど、変わりゆく体に慣れてきた。
目的によって、体も変わる。
生きているって、変わることだ。

ベシー占い 占い承ります。


波のように、悔しさと幸福が押し寄せる

外の空気は、あまりにも甘美すぎて、窓を閉じることができない。

朝六時といえども、七月中旬の気温は少しずつ上がっている。
草木が、勢いよく世界を征服し、鳥は鳴く。かたかたと何かの声がする。
ドアと窓を開け話して、風が通り抜ける。湿っぽく、生暖かい、太陽は上った。

自分の人生を切り開けるようになったというのに、わたしの心は、過去に囚われていて、体とばらばらに動く。
過去に戻って、あいつらを殺したいとつぶやいているうちに、激情が、今の人生を邪魔しに来る。
邪魔しに来る感情だって、わたし自身だというのに、わたしはその感情すら憎い。
その感情がなければ、今の人生を邪魔されることもないのにと。

自分の人生を作り出す、自らの光を拡大する、体の中にあるブロックとの対話、というテーマで、セッションを受けた。

つらいこと、しんどいこと、思い出したくないことが、勝手にわたしの中から湧き上がってくる。わたしはそれに翻弄される。なんとか踏みとどまろうとする。
激情から、気持ちが切り替えるために、いろいろな努力を必死でする。その努力も、なくてもよかったはずだ。

ただ、わたしは、今夢見ることができる。
こういう風に生きていたい、あの場所に行きたい、そういう夢を見る。
それをときどき実現することもできる。実現する前に、それをともしびに生きること自体が、わたしの力になる。
決して実現しない夢を待ち焦がれていた、無力な自分だったころ、成人した後も、「成人したくせに、自分の生きたいように生きられない自分がみじめ」だと身動きが取れなかったころ。

今は、夢を見て、実現することが、わたしの幸福だ。
余分なお金も時間もかかる、でも、お金を貯めるために生きているわけじゃない、今を生き延びるために、働いて、お金を稼いで、そうして、延命しているだけじゃなくて、なぜ生きるかの理由を補充するために、わたしはしたいことを、する。
したいことを、思いつかないように、息をひそめて、そう、だって、したいことがあれば、耐えられなかったから、でも、そんな時代を終わらせることができたのは、自分の力だと誇りにも思う。

自分で生きていける、でも、あのころ、奪われた大切なものは、人生は、二度と帰ってこない、彼らには返す気もなければ、人生を奪った気持ちすらない。

奪われたことが苦しく、苦しんでいる間にも時間は過ぎ、その苦しみ自体が憎い、その気持ちが自分に向かって、憎しみを忘れられない自分を攻め立てる。

今は、幸福だと感じることがある。眠れない、動けないほど、幸せだと感じることがある。

苦しみの中で光る宝石のような気持ち。

わたしは、父が愛人を作って出て行ったこと、出ていくときに「大人になればわかる」としか言われずドアをバタンと閉じたこと。
愛人と暮らしながら、ときどき、わたしたちの家に来て、食事をしたり、一か月に一度呼び出して、食事会をして、帰りの自動車の中で、手のひらの中に、小銭を落とされたこと。恵まれたこと。
みじめだったこと。家に父がいないことを人にばれないようにするために、家に人を呼んではいけない、祖父母がかわいそうだから、口外してはいけない、そういわれて育った。かわいそうなのは、秘密を押し付けられた、子供だったわたしなのだと、ようやく、言えるようになった。

父の秘密を、わたしは、ずっと言わなかった。
離婚もせず愛人宅に潜り込み、成人した後再会したとき「貧乏で苦労した」とわたしに言った父。
有責になったのは、じぶんのせいだ、わたしのせいじゃないのに、そういったことを言える父。
そういう父に、金銭的に世話になる気持ち悪さ、感謝を要求されること、そういうことを、わたしは、誰にも言えなかった。

あなたの介護をしない、といったときに機嫌を悪くした父。
愛人は、わたしの母に「介護はこちらがします」と啖呵を切った。だから、わたしは、個性も違うから、父の面倒を見る義理はない。
だから、そういったけれど。

父は、わたしが元気か、とか、お金に困っていないか、とか、聞かずに、人に迷惑をかけなかったか、と、聞いた。
わたしが、体と心を壊して、前の仕事を退職したと報告したときに。
わたしは、父に迷惑をかけられた。
父は、母と相性が悪いのなら、離婚してから、愛人と付き合えばよかった。
そうじゃなかったから、わたしは、とても苦しかった。
母は、壊れて、わたしをいじめた。
父は、共通の知人に、母の悪口を言って回り、共通の知人から、その話を聞いた。
父が思う以上に、わたしは、彼がどういう風にふるまっていたか、覚えているし、調べている。

彼の幼馴染に、話を聞きに行ったし、彼の姉に、父のもともとの性質を聞いた。

愛人宅と同じアパートに住んでいた人からも、どういう生活をしていたか、聞いた。

彼らは、わたしたち、母子に仕送りをしていた間、どれだけ苦労したか、わたしに話した。
わたしが、どんな苦労をしたか、彼らは大人で、わたしは子供で、わたしが選んだことは一つもなかった。

秘密のために、交友関係は、規制され、学校の話題で、父親がうざい、という話が出たとき、微笑むしかなかった。

腹違いの妹に、わたしがいることを、父は、ずっと隠していた。
それなのに、妹に、わたしの名前で呼びかけることもあったらしい、間違えて。

父は、わたしと過ごした日々を、きれいな思い出として話した。パパっ子だったとか。
わたしは、父が、気に入らないことがあれば、新聞紙で机をたたき、箸を放り投げ、母の見ていないところで、わたしたちをいじめたことを覚えている。
確かに、一緒にお風呂に入ることは楽しかった、でも、一緒に入るのが恥ずかしいと断った日、不機嫌になって、手のつけようもなくなり、泣きながら、ごめんなさい、一緒に入ります、だから、許してくださいと泣いたことも覚えている。
父は覚えていないらしい。

元愛人の現妻は、父とわたしが講演で一緒に遊んだり、自転車に乗るための特訓をした経験があるから、腹違いの妹にはその経験がないから、あなたはうらやましい、恵まれている、といった。
わたしの父は、十歳の時からいない。それ以降の年月は、ずっと、わたしの父を盗んでいた人が、わたしに、そういうことを言う。

父の家から、出て、でも、父に貸していたものがあるから、取りに戻りたいといったとき「あなたと会うと、動悸がするから、来ないでください」とラインが来た。
それで、わたしは、彼らと没交渉になった。
父に、訴えたが、わたしが悪いということになった。

親戚は、助け合うものだと教えられていた。だから、祖父の介護を、長期休みのたびにしに行った。
母は「いい経験をさせてもらってありがたいと思いなさい」といった。
でも、母は、介護をしには来なかった。

祖父が亡くなり、祖母が亡くなった。
わたしが苦境にたったとき、親戚たちは、わたしから離れて、助けることはせずに、わたしを葬式に呼ばなかった。
助け合うことが前提だったから、わたしは、それを信じていたから、時間を割いて、労力も咲いてきたけれど、祖父母が要で、守っていてくれただけで、タガが外れたらそんなものだった。
祖父母を守るために、わたしは嘘をつきとおさなくてはいけなかった。
二十年間も。十歳の時から。うすうす気が付いていた祖母に、嘘をつくことはきつかった。
誰も助けてくれなかった。
母がおかしくなったことも、彼らは知らなかったと言った。その間も、交流があったのに。
妹が家を出ていたのに。それも知っていたのに、うちが異常だとは知らなかったと、彼らは言っていた。

わたしは、ようやく母だけではなく、父も、親戚も、子供だったわたしが犠牲になることで、丸く収めようとしてきたことを、語れるようになった。

それで、ようやく、自分の人生を、歩めるのかもしれない、といくらか思えるようになった。

母には虐待されていた。
寝かしてもらえない、お金があっても、習い事をさせない、母の思うこと以外はさせない、けがをしたら、ぼんやりしていたのが悪いと、病院に連れて行かない、救急車で運ばれて点滴を打っている間も、胸ぐらをつかんで、いくらかかると思っているんだ、と叫ぶ、下着を買ってくれない、洋服も一年に一度、一着しか買ってくれない、サイズの合わない水着を着せられて、胸がはみ出してしまったことを笑う、着替えやふろをのぞいたり写真を撮ろうとする、赤ちゃん言葉で話しかける、二十歳の時の誕生日プレゼントが、三歳児向けのおもちゃだった、腐ったものを食べさせられた、虫だらけだと言ったら、そんなことはないと激怒された、生理の時に驚いて泣いたら、怒鳴りつけられた、生理ナプキンの使用量が多いとののしられた、妹と、わたしでは、食べてもいいものが違っていた、妹専用の食べ物があった、わたしの帰宅時間は五時まででも、妹は、夜の十二時まで門限が許されていた、わたしが気に入らないことがあると、母は、寝込んで無視したり、家出をしたりしていた。
部屋のドアを閉めることを禁じられていた、寝ているときに、口にキスをされた。
十五年前のおさがりを、十五歳以降になっても、着せられていた。
お金がないわけじゃなかったはずなのに。

今日は、きれいな空気の朝で、今日一日は、わたしのものだ。
亡霊のように、記憶の中の父母が、わたしをコントロールしようとする。だから、わたしは、厳密に言って自由とは言えない。でも、この、朝の空気だけは、わたしのものだ。

受けたヒーリング
アロマ&ヒーリングルーム睡蓮

ベシー占い 占い承ります。


病気になることで、生き延びる

摂食障害 100人100色の『回復』 鈴木眞理×信田さよ子×鶴田桃エ×荻上チキ、NHKハートフォーラムシンポジウム

これを読んで、とても興味深かった。
自分語りをしようと思う。

過食症の方は対人関係に苦手意識があり、自己評価が低い方が多いです。ストレスを溜め、それが上手く発散できない傾向があります。すると嫌な気分になって、無性に何か食べたくなる。この時、脳が喜ぶ甘いもの脂っこいものを食べます。過食の最中だけ嫌なことを考えない解放感があります。

こういう時期があった。
過食症だから、死なないという自覚があった。いつか収まるだろうと、放っておいた。
お金はかかったし、からだも重たくなった。
今思うと、わたしは自己評価が低かった。夜になると不安になり、眠れなかった。だから、食べた。

一人暮らしをし始めてから、過食が始まった。収まったのは、仕事で自信が付き始めたころだった。
その代わり、買い物依存症気味になった。

過食症などの依存症に限らず、病気をしている間は、人生に向き合わなくてもいい。
向き合わないでいいというと語弊があるけれど、病気のことを考えることで、逃避できる。
解決することができない問題を目前としたとき、できることは、少ない。
病気を無意識に選んだんだと今では思っている。
わたしは親に支配されていることがつらかった。
自分の価値観とは違うことを強いられ、戦おうとしても、すべてを読まれているから撃沈した。
逃げる力も奪われていた。わたしが生まれてからずっと知っている相手に、わたしの気をくじくことはたやすい。

本人がなりたくてなった病気ではないこと、頑張った結果なってしまったことを説明します。

そう、なりたくて病気になったわけじゃない。病気でいることは苦しい。人生をエンジョイしている同年代を見ると、嫉妬と、恨みと、どうしようもない焦りが生まれ、親に対する怒りがピークに達する。
その怒りがわたしにとって重要だった。怒りを自分に向けている間は、わたしは治らなかった。親に向けて、逃げ出すことができて、初めて、そのエネルギーが、自分以外に向いた。それをするには、いろいろな人の助けが必要だった。

ストレスから、心身に重大な症状、例えばアレルギー皮膚炎などが出ても、それでも、親は変わらなかった。
だから、どんどん、病気が増えていった。病気をしている間、人生は保留になった。
それが、つらかった。しかし、それが救いでもあった。

病気が治りさえすれば、どんなこともうまくいくと思っていたが、そんなわけはなかった。
でも、病気よりつらいことはなかった。
あれよりつらいことはないから耐えられると考えると、不幸になる、と言われたこともあったし、それ以上につらいことだってある、と言われたけれど、今のところ、そういうことはない。健康であることが一番幸せだ。
だから、不健康になることは徹底的に避けることにしている。すぐに身体的に症状が出るから、サインを読むのはたやすい。
不便だけれども。

意志が弱いのではなく、あまりにも意志の力を信じ、自分をコントロールすることにとらわれてしまうのがアディクションなのです。

また、「アディクション」には心理的鎮痛効果、つまり心の痛みを感じなくしたり和らげたりする効果があるといわれています。アルコールやギャンブル、薬物、買物依存などと同様に、摂食障害の行動にも同じく鎮痛効果があると考えられます。

理不尽なことが、家庭内で、ずっと続くと、コントロールできるのは、自分だけになる。
しかし、それを続けることで、自分の体もコントロールできなくなる。

それが苦しかった。

何かにアディクトしている間は、そのことに集中していられる。アディクションだけでなく、病気の間も、病気の苦しさに集中していられる。心理的な葛藤が、原因だけど、心理的な葛藤を、肉体的な苦痛に置き換えて、シャットアウトできる。

それは確かにメリットなのだ。

親は、わたしに治ってほしい、と言いながら、看護というすることができて、生き生きとしていた。
それでいて、疲れると、わたしに当たり散らすこともできた。
優しくすることも、つらく当たることも、どちらも正当化できた様子だった。
だから、わたしがよくなりかけると、そのタイミングで、悪化するようなことを仕掛けてくるのだった。
それは、母だけでなく、離婚した父も同様だった。

わたしは、強いコントロール下にあった。
病気はそれに対する反応だった。しかし、病気は、コントロールから外れることを望んでいたのに、コントロールを強化した。
なぜなら、一人で暮らすことを妨げる格好の理由となったからだ。
頼むから就職しないでくれ、と言われたことも忘れられない。

生きづらさ」という表現もあまり好きではないんです。たとえば親や家族が喧嘩をしてる。その中で生きる子ども時代ってやっぱり本当に苦しいし、それが自然だと思います。それを「生きづらさ」と言っていいのか疑問なんです。そんな中で人間らしく生きようとしたら、たまたま痩せたり食べたりする行為になってしまった。

わたしの家は、高度に葛藤した場所だった。父は、わたしが小学校低学年の時に、家を出て、愛人と暮らしていた。
父は、一か月に一回、わたしたちに会いに来た。そして、家族のまねごとを強いた。

父がいないことを、わたしは、祖父母にさえ、秘密にしなければいけなかった。
同級生にも秘密だったので、家に友達を招くことができなかった。玄関に男の靴がないことを知られると、家に父がいないことがばれるから、玄関先にも入れるなと言われた。それは、友達を作るうえでも、世間話をするうえでも大きな妨げとなった。いつも、秘密を抱えていることが、とても苦しかった。
父方の祖母は、わたしをいじめた。
わたしたちが、悪いから、父が家を出たのだと考えているようだった。

わたしは、「こじらせている人」「生きづらい人」と言われたことがある。こじらせているのは、わたしの親であって、わたしは正常な反応をしただけだ。
ほかの家庭の在り方を知らなかったから、主治医に、「健全な人間関係を学ぶために」とテレビドラマや、映画を見ることを勧められた。それくらいしか、教材がなかった。「みんな、悩んでいるから、これだけ家族をテーマにした作品があるのだ」と主治医は言った。

わたしは、苦しいのが普通だった。正常だった。でも、両親は、両親が普通であって、わたしが異常だと思っていた。
単に、わたしの文化と、両親の文化が違うだけだったのに、わたしが悪い、と言われたので、わたしは病気になった。

そうした恥の感覚や罪悪感を消すために、「周りの期待に応える良い子」をやってきて、その無理が摂食障害という形で「表れてくれた」と思っています。

わたしは、いい子をしていた。
勉強しか、娯楽がなかったので、勉強をした。それ以外は取り上げられてしまった。

もちろん、遊びに連れていかれたが、それは母の考える「子供のためになること」であった。

「時間がかかっちゃう」って言い方をする人が多いのですが、時間をかけて欲しいと思います。

これは、その通りなのだけど、本当に残酷な事実だ。普通なら、人生を楽しめる時間なのに、病気のため、生まれた家のために、病気なんかのために、人生を使わないといけない。病気が終わってから、空っぽの自分を、満たすために、数十年遅れて人生を始めないといけない。
病気から学べばいいといわれたことがある。
ものすごく、腹が立った。
病気を無駄にしないように、だとか、成長する機会だと思って、と言われたことを思い出すと、怒りで心が燃え滾る。
人生における小さな楽しみ、例えば、道に咲く花に気が付くような感性をすでに持っているのに「そういうことに気が付けるようになればいいね」と言われたこと。その人自身が、気が付いていないのに、「そういう話に感動した」と言われたこと。
わたしは、誰かを感動させるために病気になったわけでもなかったし、ほかの人だってそうだろう。
ただ、やりきれない毎日の中で、なんとか慰めを感じたことだというのに、それも、「消費」されるという悔しさ。
その消費世界が、わたしを病気にしたのだという直感があった。

いい大学に入ってほしい、と言われた。
でも、偏差値の高い大学に入らなくても、自分の道を見つけて、幸せに生きている人なんて、たくさんいた。
その人なりの、幸せが見つかればいいのだ。

摂食障害の仲間たちは、どうするべきか、どうするべきじゃないか、という「べき」の価値観にとらわれているということです。そこからはなれて、今自分が楽になるために「どうしたいか」、「どうしたくないか」を中心にすること。

どうしたいか、どうしたくないか、を取り戻すのには、とても時間がかかった。
最初は、したいことが思いつかなかった。
それに、失敗することが怖かった。
あまりにも、先回りされすぎていたから、自分で選んだことを、失敗とみなされることが多かったから、そのあとの報復や恥辱がつらかったから、もういないのだ、と実感することが難しかった。
高校生の時、自分で選んだ服を、返品してこいと言われた。
何度もそういうことがあった。
わたしは、返品したくなかったし、恥ずかしかった。何時間もかかって、やっと選んだ服だったから、着てみたかった。お店の人に嫌な顔をされるのも嫌だった。
自分の価値観を否定されたと感じていた。
それでいて、お前はダサいと、母にも妹にも言われていた。妹には、母は、ブランドの服を与えていた。

大声を出されたり、赤ちゃん言葉でしか話しかけてもらえなかったり、大人になってからも三歳児向けのおもちゃを買ってこられて、いらない、と言えば、泣かれたり、そういう狂った日々だった。

母も、父も、病を持っていた。
それは、診断されるようなものじゃなかったかもしれない。
けれど、彼らは、それを見ないことに決めていた。
わたしが間違っていると決めつけることで、自分自身から逃げていた。

親でさえ、逃げていた親の病に、わたしが付き合う必要がない、とわかるまでには、長い無駄になるような時間が必要だった。

それは、なくてもいい時間だった。
そこから学ぶことなんて、一つもない。
学ぶべきだ、感謝するべきだという人には、唾を吐きかけながら、これから、自分のことを考えて生きたい。

ポジティブな人は、どんなことからも、学べるというが、わたしは、ポジティブになりたくない。
ポジティブな人に利用されたくない。

病気になることでしか、生き延びられない、無力な時代があった。
今は違うと思いたい。

ベシー占い 占い承ります。


産む前のつらさ

体がだいぶしんどくなってきた。
おなかが日に日に、一日ごとに大きくなっていて、驚く。
膝に負担がかかり、ふくらはぎがつる。
むくみがひどい。
腰も痛い。
おなかが重たい。
膀胱や胃が押されて、痛い。
体重管理が難しい。
イライラしてしまう。わけもなく泣いてしまう。

親に、自分の子供を会わせないといけないかどうか、一瞬考えた。
でも、それから一晩落ち込んで眠れなくなってしまった。
たくさんされた、ひどいことを思い出した。
今、中学生や高校生を教えていると、明らかに子供で、幼い。
あの、幼い人たちに、ひどいことをすることは思いつかない。
でも、わたしはされた。

おなかにいる子供は、明らかにわたしと違う生き物だ。すでに意思のようなものがあり、わたしの思う通りにはならない。
他人だとつくづく思う。
だから、死なないように、育つことを手伝いたい。
育てる、ということは、できないと思う。子供が、勝手に、自分の力で育てるように、わたしがサポートするのだと思う。

わたしは、勉強以外の娯楽を禁じられていたので、勉強に面白さを見出した。
何かするときは必ず母親が同伴だった。
いつも、お母さんがかわいそうだった。
かわいそうだと思わされていたのだ、と気が付いて、ああ、人生をそのせいで、ずっと盗まれていたのだと気づいてからは、怒りが止まない。
盗むための手段として、泣いたり、怒ったり、脅したり、ありとあらゆることをされた。
彼女の人生に対する欲求不満を、わたしにぶつけられた。
父は、愛人を作り、出て行った。大人になればわかると吐き捨てられたが、いまだに理解できない。
面会交流を強いられたが、断ったら、養育費を払わなくなるのだと思って、応じていた。そのストレスで、病気になった。

母はわたしにしがみつき、父はわたしを捨てた。
都合のいい時に、暇つぶしのようにかまっては、飽き、自慢できるように、育てられた。
わたしが何かを成し遂げたときに「喜ぶな」と言われた。
それでいて、親はわたしのことを自慢し、「いい親御さんですね、育て方がいいから」と言われてはにたにたしていた。
わたしの努力なのに。盗まれた。感情を。

わたしは、生きる手ごたえを失い、感覚がなくなり、幻聴と幻覚を見て、自分から乖離した。
そのために、さまざまな事件に遭って、何度も死にかけた。

逃げればよかった、と言われた。愛人から後妻になった人からも言われた。
でも、わたしは、逃げられなかった。
逃げられないように、感情や判断力や、情報をコントロールされていたし、体調が悪くなるように仕向けられていたからだ。
今思うと、具合が悪くなったりけがをするようにさせられて、そして、罵倒され、看病されるというパターンがあった。
救急車で運ばれると、胸ぐらをつかまれ、罵倒されたことがあった。
病院には、連れていかれなくなった。
お年玉で病院に行った。
祖父の介護を休みを使って手伝わされたが、母はしていなかった。
そして「老いて死ぬことを勉強させてもらってよかったね」と言われた。
わたしの経験のために、祖父は老いて死んだわけではあるまい。
それは、愛犬が死ぬときにも言われた。
母や、そのほかや、とにかく誰かのケアをさせられた。それをさせるために、「かわいそうだ」という感情を刺激された。
就職することも、「やめなさい」と言われた。
「あなたにはできない」と言われた。
父にも、「お前には、自動車は運転できない」ということを言われた。

以前、離婚したとき、堕胎をするかどうか、悩んでいた。
それを父に相談したら堕胎を勧められた。
フォローはできないと言われた。
結果的に、自分の判断で堕胎をしたが、常に、そのような目に遭ったことの「責任」を理解しろ、と言われた。
でも、思えば、父も離婚をしただけじゃなくて、婚姻中に愛人や子供を作り、わたしの母の悪口を方々で言っていた。
その人に、ただ、離婚するだけで、ああいわれることには、今では納得がいかない。
その時には、母には「ご勝手に」とだけ言われて、電話を切られた。
それ以来、連絡していない。
母は、何か相談すると、わたしを突き放し、傷つけ、動けなくなってから、それでも、わたしがすがって、手助けを頼む、というパターンを常にしてきた。
だから、あれも、その一環だったのだろう。

わたしは、本当に、どうして、親が、ああいう風にわたしに接したのか、理解できない。

わたしの体内にいる小さな人間に対して、コントロールしたいとか、傷つけることをしたいとか、思わない。
でも、彼らは、わたしにひどいことばかりをしたり言ったりした。

父方の祖母が、わたしに最後にかけた言葉は「あんたは非情な子だね、非情ってわかる?冷たい、ってことだよ」だったし、継母がわたしに最後に言った言葉は「あなたに会うと動悸がするから、家に来ないでください」だった。
でも、彼らはそれがひどい言葉だとは思っていない。

わたしは、これから子供を産む。
わたしは、彼らに一生子供を会わせない。
彼らは必要がない。

それでも、わたしは、思い出す。
そのたびに、その時に戻ったように、苦しい。
もう、終わったことだとは思えない。
わたしの中で続いている。

ベシー占い 占い承ります。


洗脳されやすいという特性

わたしと六帖さんは、ともにDVに遭ったことがある。
DVに遭ったことがない人は、わからないこともあるだろう。
どうして、暴力や暴言から逃げないのか?

それは、言動を縛り、行動を縛り、交友関係を遮断することによって、洗脳する過程があるからです。

相手のために、自分を譲る、そうすることでいつか事態が好転することを期待していくうちに、逃げられない状況を作られます。

子供を作ること、籍を入れること、そうすることで相手を縛れる。籍を入れてしまうと、身一つで逃げさえすれば、それで終わりということがなくなる。
六帖さんも、わたしも、籍を入れるのが異常に早かった。お互いの両親に会わずに籍を入れたことも共通している。籍を入れる時点で、六帖さんも、わたしも、軟禁状態に置かれていた。
軟禁状態に置かれていても、支配者と同伴で外出はできるから、軟禁されていることにも気づかない。
また、六帖さんもわたしも、服用していた薬を管理され、いきなり断薬されたり、処方外の薬を無理やり飲まされたりしている。
わたしの場合、たとえば、体の不調を感じて、吐き気や腹痛、頭痛があったときに、精神安定剤を飲むと、体が動くようになる。これは最近発見したことだ。体が弱いから寝込むしかないのだとあきらめていたけれど、精神安定剤を飲むことで、活動時間が増えた。

また、娯楽や趣味を制限される。楽しみを奪われる。そうすると、思考能力がなくなる。食べるものも、極端に制限される。それも、六帖さんも、わたしも経験した。
支配者は、今でもわたしにDVを振るったことを認めない。それどころか、ネットで、DV加害の冤罪者を名乗っている。
様々な証拠があり、裁判でも認められても、それなのだ。
事実を彼らはゆがめることができる。自分に都合の悪い事実を、認識しないで済ませることもできる。
わたしの場合は、加害者から逃げて五年たつが、その間に、脅迫状を送られたり、警察に堕胎罪で訴えられたりした。
もちろん、堕胎罪の適応外だから、立件されようもないのだが、それでも、事情を何度も聞かれて書類にした。
相手は、わたしを殺人しかけたのだが。

わたしたち自閉症スペクトラムの傾向があるものは、人の言葉を信じる。裏を読めない。言葉通りに聞いてしまう。意外と空気は読める。ただ、どう対応していいのかわからない。
わたしの場合は、相手が泣いて暴れたり、床に転がって足をばたつかせたり、六法全書を投げつけたりしたり、性暴力の結果、二回、入院することになったりした。どう対応すればよかったのか?
わたしには、それまで、そのような行動をとる、男性に対する対処方法がストックになかった。
初めて見る奇行に凍り付き、思考は止まった。

わたしの場合、知識もあった。DVについてかなり書籍を読んでいた。でも、自分が支配関係に巻き込まれたとき、自分がそうだと認めることは非常に難しかった。
そのころには、相手がわたしの貯金で暮らしていたので、わたしが逃げたら相手が死ぬかもしれない、自分の体に身ごもっている子供はどうすればいいのか、ということで、身動きが取れなくなっていた。相手は、わたしの名義でクレジットカードをいくつも申し込み、毎月の支払いが二十万、三十万になっていた。
恐ろしいことに、楽天カードは、解約しても、しばらく使える。逃げてから、六万円の支払いをした時には涙が出た。
悪いことに、ニコニコ動画のプレミアム会員登録をしており、それは本人でしか解約できないものだから、逃亡の身では、どうすることもできず、楽天カードから引き落とされるので、逃げてから一年くらい払った。窓口もなく、電話も代表先しかなかったので、電話しても取り合ってもらえなかった。弁護士に頼んでも一か月かかった。

インターネット上に、リベンジポルノや、わたしに対する誹謗中傷が続いた。
弁護士に依頼して消すことはできるが、延々と続くのに、追いかけられず、あきらめるしかなかった。
沈黙をしていても、相手は、わたしが加害者に対して、誹謗中傷を続けていたと、今もインターネット上に書き続ける。
裁判で、わたしに対して、一切の接触も、一切の言及も書かないとお互いに約束したのに、その次の日には、破られた。
相手が無一文の場合、こちらができることは何もない。
罰金を払わせようにも、払うものがないからだ。

失ったものは、お金だけではなく、信用もだった。会社に乗り込まれたので、辞めざるを得なくなった。
逃げても逃げても、追ってこられる。殺されるという恐怖や、恥辱、自分を責める気持ちで、毎日パニック状態だった。
そんなときでも「どうしてついていったのか」「どうして騙されたのか」「もっと早く逃げればよかった」「セックスが良かったのか?」などという人ばかりだった。
そういう人たちしか残っていなくても、頼るしかないので、一生懸命返答したが、納得してもらえることはなかった。

支配、被支配の関係は、理解されることはないのだと思った。

それも、以前本を読んだとおりだった。

発達障害者の難しさは、単に、能力の凹凸だけではない。社会的に、「配慮」される中で、もちろん、成長していったり、ゆっくりと苦手を克服することもできる。

でも、弱っているときに、周りの人から引き離されて、洗脳されてしまったら?

そういう状況にわたしたちは一番弱い。
一対一で相手の言葉を鵜呑みするしかなくなる。
反論を試みても、すべて無効化されてしまう。そういう相手なら、逃げればいい、という発想が思いつかない。
逃げてもっとひどいことになるかもしれない、逃げないで耐えれば、いつか相手もまともになるかもしれない、という夢を見る。
そうしていないと、地獄に耐えられないのだ。

DVを受けて離婚したことを恥ずかしいことだという人は、現実にいる。
実際に言われたことがある。
騙されたほうが悪い、暴力を振るわれたほうが悪い、そういう人は現実にいる。

わたしは、いまだに、読書やテレビを見ることができない。音楽も聞くことができない。
パニックで一晩泣き明かすこともある。
趣味も手放した。
中身のない人間だと自己嫌悪に陥って、身動きが取れなくなる。

六帖さんの場合は、男性だったせいで、自分が逃げるべきなのだ、という発想を持つことが難しかった。
わたしの場合は、相手が働かない、わたしの金で生活しようとする、致死量の薬を飲ませる、そういうことがおかしいというのがわかりやすかった。
でも、六帖さんの場合は、妻が働かないことも普通だし、家事をしていれば、実際に何にお金を使っていようが、見過ごされやすいし、子供に対する扱いも、ホームスクーリングをしているといえば、周りは何も言えなくなる。
女性が、DVを振るった場合、言葉にしても、それは「普通」に見えやすい。また、六帖さんの場合、同性の友人に相談しても、男性の中でDVに知識のある人が少ない。
そういうこともいろいろと問題を長引かせた。

知識があっても、DV被害者になることは避けられない。その後、ケアされることも難しい。
わたしの場合は、かかりつけの主治医が、DVやパニック障害に詳しい病院を知っていたから、すぐに入院できたものの、たいていはそういう幸運に恵まれないだろう。

発達障害は、対人関係の障害でもある。
恋愛や、結婚という、密室の関係に踏み込んだ時、わたしたちは、一人で歩まなくてはならなかった。
大人になってからの支援は、とても難しい。支援につながっていることも難しい。

わたしは、疑問を持てない。困っていることに気づけない。
だから、助けを求められない。
被害に対する認識を持てない。それを「受け止める」ことになれている。
自閉症スペクトラムの人間として生きるということは、理解不能な世の中に対して、何もかも鵜呑みにしていく、という生存戦略を取らざるを得ないということだ。
わたしの常識は世の中の常識ではない、ということを早々に学んでしまったせいで、自分の違和感を封じ込めやすい。
相手が正しいと思う癖がつきすぎている。
だから、疑問を持てない。

反対に、加害者になることもあるだろう。
そういったときに、相談しようにも、何が問題なのか、そもそも問題が起こっているかどうかすら、疑問を持てないわたしのような特性の持ち主は、どうしていったらいいのか、今も試行錯誤でいる。
これは、知性や、知識の問題ではないのだ。
人とのかかわりの障害なのだ。

ベシー占い 占い承ります。


生徒さんの贈り物

今日、午前中は世界中の人から嫌われていると感じて、泣いていた。
処方されているソラナックスを飲んで、ヘルパーさんと話した時も、昔のつらいことを思い出してしまって、泣いてしまった。

夕方、一番最初に教えた生徒さんが、大学に入学が決まったということで、一緒にお茶をすることになった。
とてもいい子で、手に職をつけて、お父さんと経済の話や、政治の話をできるようになるために、大学に行きたいといった子だ。

わたしが教えていた時は、成績が悪く、全教科合わせても100点行くか行かないかだった。
一生懸命やっても、どうしてもできないのだ。頭が悪いわけじゃないのに。

年数を重ねていくうち、そういう子は、とても多いということがわかった。
頑張っても、頭が悪くなくても、どうしても伸び悩む生徒さんはいる。

わたしは、成績優秀でない人生を知らなかったから、そういう子たちが、どういう人生を歩むのかイメージがなかった。

でも、教えていくうちに、そういう生徒さんとかかわるうち、大事なのは、成績じゃなく、人間性だということがわかるようになった。

成績が同じくらいでも、人間性で、人生の明暗が分かれるところを何度も見た。
自分の人生を見据えて、何がしたいのか、どうやって行きたいのか、先のことを考えすぎず、「今」何がしたいのか、じっくり考えることができる生徒さんは、高校でどんどん花開いていく。

今日、会った生徒さんも、なんと推薦で大学入学を決めた。
人の後ろに隠れるような子だったのに、高校では、役職について、人を引っ張ることもしていた。

なんと誇らしいのだろう。

わたしは高学歴ワープアもいいところだから、成績優秀な学生時代を送ったからと言って、人生がばら色じゃない場合もあると知っている。
成績も大事だけれど、それよりも、どう生きたいのか、何をしたいのか、そのために何をすべきなのか、考えることができる子が、どんどん伸びていくことを、その子には教えてもらった。

その子はうまくいかなくても、人のせいにせず、「自分が努力しなかったから当たり前」と言い、落ち込まない。
努力して、それでもうまくいかなかったら、落ち込むけれど、と言っていた。
努力していなくても、周りを見て、ねたむ人をたくさん見てきたから、そういう姿勢が当たり前じゃないことを知っている。
年齢にかかわらず、人間として完成している人はしているし、していない人はしていない。

そういう大事なことを学んだ。

塾講師とは悲しいもので、どんなに生徒を大好きになっても、時が来たら、お別れだ。
思い出してもらうこともない。二度と会えない。

そんな中で、思い出してもらえたこと、わたしにあえて、うれしいといってもらったことが、どんなにわたしの励みになっただろう。

その子は「二人とも、会えて嬉しいと思えるのはいいですよね」と言ってくれた。
「先生が、生徒のことを大好きだと気持ちをかけてくれるから、わたしも先生のこと大好きなんですよ」と言ってくれた。
本当に暖かいプレゼントをもらった。また、頑張れる。

ベシー占い 占い承ります。


服を着る

服を着る、というのは表明だ。

自分が何者であるかということを示す。

パーソナルデザインで、客観的にみて、一番似合う服の選び方を学んだ。

それは必ずしも、わたしの好みと一致するわけではなかった。

しかし、扉が開いたと感じた。

コンプレックスをむき出しにされたと感じた。

隠したいのなら、自分で選べばよい、そうじゃないから、サービスを受けたのだ、と思い直した。

 

おしゃれは楽しいものだと長い間思えなかったのは自分に自信がなかったからだ。そんな自分をいい加減やめたかった。

 

鏡に写った自分は見慣れなかった。

知らないブランドの店をいくつも回っていくうちに、自分にふさわしいと思っていたものはちがったのだと感じ始めた。

 

布や縫製のよい服は、わたしの体を優しく包む。そういうことを知らなかった。店員は敵じゃなかった。

 

微笑んで、この服素敵ですね、と会話をすればいろいろなことを話してくれた。

 

 

そういうことも知らなかった。

 

 

様々な布や様々なパターン、色使い、質感、バランス、組合わせ。

 

 

それは冒険で戦いで、生きている感じがした。誰もわたしを見てないとしても、わたしがわたしを見ていた。

 

コンプレックスの部分だけを取り出してみていたのは、わたしだった。

 

わたしはコンプレックスから自分を許したくなった。

 

だから、服を着たい。

自分を好きになる、美しくみえる、今の不格好な自分を労る、服を着たい。

きれいで美しくて居心地のよいもの、色を塗った爪先や、ブレスレット、悲しくて辛いときに慰めてくれるものが、物質でもなんでもいいのだから、服だけを除外するのはやめたい。

 

 

自由になるために、学ぶのだから、服だって、やっぱりそうなのだ。

 

わたしは女の形をして、わたしでもあって、誰に何を思われても、やはりわたしで、どこにも逃げられない。

だから、逃げるのをやめて、堂々と、わたしでありたい。

ベシー占い 占い承ります。


腕を切りながら生きながらえる

入院したとき、腕を切り刻んでいる子に出会った。

医者は切るなとは言わなかった。

わたしも、切るのをやめてほしいと思わなかった。

切らないための100の方法を宿題にノートに書く日々を一緒に過ごした。

切るなと言われて切らないなんてできないことをそこにいたみんなが知っていた。

手首を落とすまで切ると不便だからその前にやめられればいいね、という話を笑ってしていた。

 

わたしは作文の書き方を教えた。

自分の気持ちを書くことを毎日した。

ある日、その紙を持って、彼女は家族と医者で話し合った。

家に帰らず、寮生活をすることに決まった。

それから彼女は切る衝動が減った。切ることは続けても、隠さず、消毒してもらいに、ナースステーションに通った。

 

わたしは精神不安定で、筋肉注射を打ってもらうことで、一日生きながらえるような日々だった。

いたくていたくてたまらなかった。

 

依存をして、薬を飲んで、時間を稼いで、問題に向き合うための体力を取り戻すために、休憩していた。

その時間は必要だった。

 

いつまでも、悲しんでいいと言われたら、きっとわたしたちは死んだ。死にたかったのだから。先が見えなかったから。その先が悲しみばかりだったら、生きている価値もないのだ。

 

切りながら、生きるすべを学び、生きるようになって、他に興味が向いて、生きる実感を取り戻して、解離から自分の体にたち戻って、その過程を通して、やっと、わたしたちは生きられた。

 

二度と会わなくても、共通点がなくても同じ日々を過ごした。

 

わたしたちは認められない存在であっても、わからないと言われても、わかりたくないと言われても、確かに存在している。

 

助けたくないなら助けなくてもかまわない。

でも、寄り添うということが、わたしたちには必要だった。

わたしたちは一緒にいることで、補いあい、治療しあい、日常に戻った。

 

自分を切り刻みながら、生きる方法は確かにあるのだ。

切り刻むことを手放す未来も、確かにあった。

ベシー占い 占い承ります。


シスジェンダーだけど性違和がある

Aちゃんと六帖さんと三人で、パーソナルデザイン診断とお買い物同行に行った。

そうして、AちゃんはIラインが似合う人だと診断された。そして服装を着ていったら、女性的なラインが非常に美しい女性として見えた。

でも、Aちゃんはそれがうまく消化できなくて苦しがっていた。凹凸のない体になりたいのに、まっすぐなラインの服を着ると女性的なラインが目立ってしまうから。

それで、家に帰ってから、ずいぶんいろいろな話をした。Aちゃんが笑顔になってほしいから。

Aちゃんが女性的な形をしていることを受け入れようが受け入れまいが、折り合いがつけばいいなあと思った。

わたしは、自分について、女性であることをあきらめられていると思っていた。

でも、そうじゃないことが話している間に、だんだんわかってきた。

わたしはラッキーなことに、小中学生の時から、性規範を押し付けられたら、たとえ専任の前でも主張することができる人間だった。

たとえば、標準服で女生徒がズボンを履けないことについても、全校集会で主張して、結果的に勝ち取った。途中で、教師にいじめられたり、上の学年の人に男女と言われたり、殴られたりなんだりしたけど平気だった。

わたしは、小さいころからアクティビストだった。周りの大人はそういうわたしのことを普通に受け止めてくれていたし、応援もしてくれた。地域の人を巻き込んで、話に行った結果、ズボンを履けないのはおかしいといってくれたし、学校にも言ってくれた。PTAでも話し合いが起きた。母は、わたしをサポートしてくれた。わたしの周りの女の子のグループ全体で、戦って勝ち取ったという成功体験だ。

今では、わたしの母校の生徒は、女生徒たちが好きなズボンを履いたりスカートを履いたり、選べるようになっている。

 

わたしは、性規範が嫌いで、自己主張することで、そのことと折り合いをつけてきたから、楽に生きている。そういうのも、環境に恵まれていて、ラッキーで、運が良かっただけだと思う。

 

 

男の子のだれがかっこいいと話したこともなかった。

中学生の時、子宮を取りたいと思っていた。

小学生高学年の時、胸が大きくなり始めたときは、嫌で、お風呂場で毎日泣いていた。

性器や陰毛が生えてくることもとても嫌で、自分を殺したかった。

でも、死ななかった。

成長するにしたがって、ボディが変わっていった。ボディイメージがコントロールできないことがたいそう苦しかった。

凹凸のない体になりたいと言ったAちゃんと話しているうちにそういうことを思い出した。

わたしは、性規範に対する違和だけじゃなくて、性違和も持っているんだな、とわかった。

一つ賢くなった。

性規範とはけんかできるけれど、ボディとは喧嘩できない。

妊娠してから、体が変わっていく。ホルモンの野郎が、勝手に私を変える。わたしはそれが嫌で嫌でしかたがない。

おなかに赤ちゃんがいるのだからと言われても、体が醜くだぶついていく様子を、「醜い」としか思えない。子供を持つ喜びで、まったく打ち消されることはない。

わたしの趣味は家庭的だと称されるものが多いが、そういう意識は全くなく、どっちかと言いうと手に職をつけることのできる、商売に結び付く趣味だと思っていたけど、人からそう見えないと知ったとき、面食らった。手芸が好きなのだ。

 

自分が持っている苦しさや大変さの一つに、「性違和」という名前絵をつけて呼ぶことができる。だから、わたしはそれを手掛かりにして、考える手綱が一つ増えた。

 

Aちゃんを笑顔にしたいと思って話し始めたことだったけど、自分の問題になって帰ってきた。

問題を解決しようとは思えない。しょうがないと受け入れることもまだできていない。

結果的にしょうがないと思えたらそれはそれで運が良いことだけど、そうじゃなくて、考えて、楽になるときが来るといいと思う。

楽になればそれでいい。

楽にならなくて、わたしが自分の体に違和感を持ち続けていたとしても、それでいいと思ってる。

少しずつ、考えを進めることができるから。

以前に描いたブログで「いつまでも悲しみを中心においているとよくない」ということを書いたら、ずいぶんと反発が来た。

わたしがそう考えていることとは変わらない。わたしは、つらいことと立ち向かうことと、悲しい悲しいと言い続けていることとは違うと思ってる。

違うつもりで書いたのに、「人にはプロセスがあるから、悲しい時はいつまでも悲しめばいい」と言われた。でも、一生悲しみたくない。悲しみたい人は一生やってればいい。

それと、考えていくことと、悲しみを楽しむ人とは違うと思ってる。

大昔に大変なことがあってそれをずっと大変だと思うのは、今現在それ以上に大変なことがないからだ。それは幸せなことだ。

わたしが自分のボディに違和感があるのは、今現在進行形のことで、「今」の話だ。

だから、違う。

今、わたしは、困ってる。

妊娠したから、加齢したから、どんどんボディが変わってく。ボディが憎い。嫌い。受け入れられない。見たくない。消したい。消えたい。

こういう気持ちとどうやって折り合いをつけるか、またはつけないまま生きていくか、どこに着地するのか、見てみたい。

性規範とは戦える。性違和とはどういう風に付き合うんだろう?

これから楽しみだ。

 

ベシー占い 占い承ります。


母は母。わたしはわたし。もう、傷つけられない。

中学生の時、生理痛がひどく、道端で気絶し、銀行に保護された。
救急車で搬送され、点滴を受けていたら、母親に胸ぐらをつかまれ、いくらかかるんだと思っているんだと怒鳴られた。

中学校では、早退を許されず、歩いて移動できなかったので、四つん這いで歩いた。
みじめだったので、生理の日は、学校を休ませてほしいと頼んだが、「生理がばれる。恥ずかしいのはあなた。わたしは這ってでも学校に行った」と言われた。実際に這ったわたしは、そういうの、やりたくなかった。

母は、わたしが成人してからも、家を出るまで、赤ちゃん言葉で話しかけた。風呂を上がろうとすると、脱衣所に来た。

そういうことに折り合いをつけられたのは、自分が大人になり、一緒にいる相手を選べ、もう、自分が傷つけられないとわかったからだ。
会わなければ、もう大人だから、傷つけられない。

会わないという選択肢が、ある。

自分の母との問題が分かってからも、わたしは主治医の前で母の言うことをオウムのように繰り返し続け、ほめたたえていた。
主治医はわたしに、「バリア」を作って、いい言葉だけを自分の中に入れるようにしなさいと言った。

自分の人生を奪われたことが悔しい、若い時代を奪われたことが苦しい、殺してやりたい、といったら、まだ若いのだし、気が付いた時から始めればいいのだといわれた。でも、全然納得ができなかった。

そうして、悔やみながら、もがきながら、過ごした時代は、過去のことを考えていたばかりで、そうしているうちに、現在も未来も、あっという間になくなった。具体的には母のことを考えているだけで、十年が経過した。
そうして、ようやく、母のことを考えること自体が、ばかばかしいのだと気付いた。

その後、父と半年暮らした。父が母を壊したのだった。

だから、もう、関係なく生きようと思った。

もがいている最中の時代を、むだで意味がないと思った。
でも、そうじゃなくて、もがいている最中に出会った人がいたから、人を信じ、愛することを怖がらなくなった。

むだじゃないといえる。
でも、わたしには無駄だった。もっと、いろいろなことをできた。可能性があった。可能性を悔やむ。
可能性を悔やむこと自体が、過去に対して考えることで、その最中にも、今という時間は消えていくのだった。それを主治医に指摘されても、どうにもならなかった。

母がしてくれたことはたくさんある。それでも、もう傷つきたくない。
あのころ、わたしは、たいへんだった。骨折をしても、病院に連れて行ってもらえなかった。

今は自分で行ける。

折り合いはついたのか、というと、ついた、とはっきりいえる。
わたしは今自分を生きている。
自分の選んだ人といる。
尊重されている。

わたしは壊れた親に育てられたが、壊れていない部分もある。壊れた部分があったとしても、それを受け止めてもらえる相手がいる。
その相手を選んだのも、わたしの力だ。
だから、わたしは、もういいんだ。
母のようになる可能性はゼロだ。
だってひとりではないから。もし、母のようになる瞬間があっても、反省して、見つめなおして、修正するだろう。
わたしは、自分を、信頼する。
疑いながら、それをバックアップしてもらえる環境を構築して、防ぐ。
だから、わたしは、過去のことを懐かしく、慕わしく、思い出すけれど、つらいことも、悲しいことも、ひっくるめて、もう、いい。

大人になったから、自分を守れる。
自分を守るのは自分。
もう、わたしは十分にもがいたのだ。

ベシー占い 占い承ります。