【毒親の子が親になった】にレビューが付いた

昨日からメンタルの調子が悪くて、しんどかったので、朝は掃除をしたり、体を動かしてみた。
そして、おととい出したキンドルの本のレビューが増えていたので見たら、的確なレビュー(残念だけど☆一つ)だった。
書いてあることはその通りで、わたしは、偏っており、攻撃的で、パートナーにモラハラ的なことをしてしまう人間だ。
確かに腹の子のことまでネタにしている。
全部その通り。

きれいごとっていう評はちょっとわからなかったな。
子供を黙らせたいと思ったこと、育てられないかもしれないと思ったこと、親に感謝しなくていいし会わなくてもいい、かわいそうなのは虐待されたわたしであって、孫に会えないのは親の自分でしたことの結果で自業自得という内容だから、一般的に言ってあまりきれいな内容でもなく、一般的な内容でもない気がする。

わたしがなぜ、自分のことを書くかというと、自分の経験したことを、整理しきれないので、外部化して、すっきりしたいから。
実際、本にしたことは、書いた直後は混乱して、具合が悪くなるけれど、一年くらいたつと、忘れてしまう。
わたしは、嫌なことがあると、いつまでも忘れることができないので、本を書くことで忘れることができると、とても助かる。
赤ちゃんのことを書くときには、プライバシーに配慮して、一般的なことしか書かないようにしている。
写真も出さない、生まれた日も公表していない。今のところ、性別の書いていない。

ただ、自分なりに、自分の攻撃性について考えることは多いのだけど、それは、先に攻撃されている(と感じている)ので、やり返す、ということが多い。
客観的にみて、わたしが攻撃されているかどうかよりも、わたしの感じたこととして、不当なことをされた場合、わたしは攻撃したり、怒ったりする。
わたしを面倒な人間だと思う人は、近寄らないでほしいと願っている。
わたしは生きることに精いっぱいで、それは誰でもそうだと思うけれど、だから、理解されないことも共感されないことも、どちらかというと、そっちのほうが多いことはわかっている。でも、生きる上で必要だから、本を書いている。
生きる上で必要じゃないことって、ないのだと思う。失敗も含めて。

昨夜は調子が悪くて、眠ることができなかった。体を動かして、調子が良くなって、それからレビューを読んだ。
とてもいいレビューだと思った。
よく読んでくれて、率直で、素晴らしいと思った。☆が一つなのは、ちょっと悲しいけれど、でも、よく読まないとあのレビューは書けない。感想を書くには、時間も心も使うから、素直にありがたいと思った。

レビューについて、あれこれ作者が言うのはどうなのか、わからない。
わたしも、パートナーへモラハラをするんじゃないか、しているんじゃないか、心配だから、よく、そのことについて話し合っている。だから、彼について、心配してくれていることもありがたいと思った。

わたしは、たぶん、偏った思考というのが目立つと思う。
わたしから見ると、いわゆる「普通」「偏ってない」という人こそが、偏って見えることも多いし、どうしてそうなるんだろう?と理解できないことも多い。距離があるということ。だから、その距離分、向こうから見たら、わたしは「おかしい」と感じると思う。

たぶん、あの☆一つの、良いレビューを書いた人には、わたしの文章を書くことへの衝動は理解できないのだろう。
恥をさらして、周りに迷惑をかけて、怒って、荒れて、病んで、それを公開しているんだから。
わたしだって、そう思うくらいだ。
わたしも、わたしのことが理解できない。そういうことはよくある。

わたしは、わたしの衝動も、戦い(戦いだと勝手に思っていること)も、なんでなんだろうな、とあきれることがある。
でも、それをしないと、もっと苦しくなる。
わたしの文章が下手で読みにくいのは申し訳ないと思った。混乱しているつもりはないけれど、あなたは混乱しているんだ、と言われたら、たぶんそれも当たっている。その通りだと思う。
ただ、わたしが混乱から覚めていたことは、人生においてなかった。
文章を書くことで、多少ましになる。

一応、わたし自身についてはともかく(そして、わたしが不当だと思うようなことをする相手に対する攻撃については除く)、周りについては、プライバシーなどを配慮していくつもりです。

たぶん、わたしのことが好きじゃないんだと思うのに、ダウンロードして、読んでくれて、感想を書いてくれて、ありがとうと思った。
この感想は、たぶん、いろいろな人の参考になるだろう。
読みにくく混乱した文章なのに読んでくれて。

今日は、晴れて、暖かい日で、赤ちゃんも、保育園に喜んで出かけて行った。
パートナーは少し元気がないので心配だ。わたしも風邪をひいているせいか、抑うつ状態だ。
でも、今日も一日頑張ろうと思えた。

わたしや、わたしの書く文章が、役に立つこともある。わたしの攻撃性は、わたしは悪いものだと思っていない。良いものだと思っている。考え方が偏っているのも認める。(偏っていない思考っていうのが存在するのかは疑問)
偏った考え方に、価値があると思うのがわたしのスタンスで、周りの人が「ユニークな考え方」をしているとうれしくなる。
わたしは、「偏っている」という言い方よりも、「ユニーク」という言い方を好むかもしれない。

フォロワーの人は、わたしのこと否定したら面倒だと思っているのかなあ。面倒だったら、フォローもしないだろうし、コメントもしないだろうし、いいねもしないと思う。
わたしはそう思うんだけど、それはフォロワーの人自身に聞いてみないとわからないから、なんで納得するのかはわからないなあと思った。
(ツイッターでは基本的には相互フォローです。)

制御できていない、偏りがある、というのも、「世界は広いからそういう人もいる」って思ってもらえたらいいなあ。
世界は広いから、わたしを見て「試行錯誤している、ユニークな考え方をしている」と捉える人もいる。
(わたしと接する人が全員嘘つきであるという仮定をしたらひっくり返ってしまうけど。そこまで考えるとちょっと足元が揺らいでしまう)

攻撃性が高いと思われるのは、たぶん、わたしが「しんどい」ので、「しんどい」ことと戦うと、それが人であれ世の中の仕組みであれ、具体的なものであれ、抽象的なものであれ、「変わってくれ」と願うので、それで攻撃性が高いと思われるんだろうなと思った。
実際、攻撃としか言いようのないことをしたこともあった。でも、わたしにも理由があった。
不当なことをされたと思ったから、攻撃した。
やり返さないと、心にダメージが残る。
死んじゃいそうだから。

心の中が、朝から、ごちゃごちゃしていたけど、このレビューはわたしにショックと納得を与えてくれた。いろいろな人の参考になると思う。わたしの参考にもなった。

☆四つのレビューを書いてくださった、二人の方も、本当にありがとう。
感想をもらうのは、とてもうれしい。肯定的な乾燥に対して、同じくらい長い文章をかければよかったんだけど、なんだか、そういう風にはならなかった。

反論のつもりはなくて、納得したけど、感じたことを書いたので、やっぱり、これも、攻撃や、反論に見えるのかもしれない。
どうも見えるのか、予測がついても、わたしはわたしの人生を生きていて、ほかの人もそうだよね。
あ、でも、やっぱり、反論あるな。
パートナーへモラハラしないか、わたしもいつも心配している。
聞いてみたら、モラハラされている実感はないと言っていた。
わたしが彼を「モラハラを感じることができないほど洗脳していたら」モラハラをされている実感がなくても、わたしがモラハラをしていると言える。だけど、たぶん、洗脳まではしていないから、彼の感じ方を尊重すると、モラハラはしていないんじゃないかなと思う。役割分担を我が家なりにしていて、不満はその時に話し合っている。

たくさん書いたけど、ありがとうという気持ち。
あおりとかじゃなくて、ほんとに。一生懸命書いてくれたんだなと思った。もちろん、しんどいはしんどいけど、受け止めます。

しんどいときの、わたしの対処方法は、「文章に気持ちを書く」ことなので、こういう風に書いてしまいます。
それは申し訳ないです。

今日はしんどいなあ。


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昨日から【毒親の子が親になった】という本を販売開始しました。
12月3日午後五時から4日午後五時まで、二十四時間の無料配布キャンペーンを行います。
ぜひ、ダウンロードをして、読んでください。
レビューや感想など頂けましたら、とてもうれしいです。また、アマゾンにレビューを投稿していただけると、ほかの人が読むかどうかの判断材料になるので、助かります。

虐待された人間が親になって、まだ三か月ですが、どのように考えているかを中心に書きました。
【内容紹介】
毒親に虐待された子供が、親になるときに、感じたことは、「こんな弱くてかわいい子供に、ひどいことをできるのはおかしい」ということでした。
出産する前よりも、強い気持ちで、親には絶対に会わないことを決意した理由は、虐待の連鎖を防ぎたいからです。
自分のことだけを考えるなら、いつか、自分の気持ちをわかってくれるかもしれないという淡い期待を断ち切れなかったけれど、自分に守るものができて、その期待を捨てようと思いました。

目次
毒親の子が親になった
虐待をしてしまうかもしれないわたしへ
親の喜び
 妊娠初期
 妊娠中期
 妊娠後期
 妊婦に対する男性からの嫌がらせや暴力
 周りの反応
 母親学級による出産にまつわる知識
 出産直前
 成長に対するさみしさ
 親の喜び
 男親のできること
 親には感謝しなくていい
あとがき
奥付


5chのヲチスレをちゃんと読んでみた

ネガティブなコメントがどうにも苦手です。
批判はもちろんされてしかるべきだと思うし、その批判に対して反論もします。
それとは別に、単に、わたしのことが気に入らないで悪口を言ってくる人がときどきいて、「なんでなのかなあ」と思うのです。
わたしは、ブログをやっているから、その人だって自分のブログで書けばいいと思ってしまうのです(それはわたしの都合ですけど)。
コメントで言われても同じだと言えば同じだけど、「自分はこういう意見を持っている、だから、この人のこの部分は気に入らない」というのには、自分のブログのほうがむいているんじゃないかなと思っています。

はてなブログで書いているときには、はてな女子スレッドというのがあって、直接リンクをされていたものだから、なんだろ?と思ってうっかり見に行ってしまったことがあります。

それで、気分が悪くなりました。

いろいろ調べて知ったのですが、いわゆるヲチ先の人が、スレッドを見るのは、「ヲチ先の人間が悪い」ということになっているらしく、それだけでバカにされるらしい。
そして、スレッドに反応すると「お返事した」といって、もっとバカにされるらしい、ということ。

スレッドを見たことを言ってはいけない、ましてや、スレッドを「晒し」すると、スレッドが燃える。
そういうことが分かりました。

だから、見ても、「見たことを気取らせてはいけない。気取らせると面倒なことになる」ということが暗黙の了解になっているようでした。
そして、変なことをすると「踊る」という風に言われるらしい。

よくわからないものは怖いので、一度とことん読んでみようと思って、ヲチスレばっかり読んでみました。
知らない人ばっかりです。

読んでいるうちに、だんだん興奮してきて、確かに、「この人はおかしい」と思うこともありました。
そして、「スレ住人」同士でも、喧嘩があったり、マウンティングがあったり、「スレ違い」と追い出されることもあったりするんだな、と。
空気の読み合いが激しい。ヲチ先の人をバカにするのだったら、どんなことにもケチをつける。
そして、当然、ヲチ先の人が、心を病んだり、体調を崩しても、責任はとらない(とれない)。
「読まなかったらよかったのに」「存在していることを言わなかったら、自分がヲチされるような人間だと知られることもなかったのに」という風に言われる。
どうも、ヲチされる人間だ、ということは、それだけで恥ずべき事、ということらしいのです。
で、ヲチしているのは恥ずかしい人間じゃないかというと、「ここにきている時点でブーメラン」(お前も見に来ている時点で同罪)という論理で、一応自分たちも恥ずかしい人間であるけれども、読みに来る欲求を抑えられないヲチ先の人のほうがもっとバカである、という無敵な理屈であるということがわかりました。
これは、理不尽すぎるなと思いました。
だから、5chのヲチスレでなるほど、と思えることは、実際にたくさんありました。でも、わたしはそのルール(言い返すことが最も見苦しいというルール)がどうしてもフェアだと思えないから、やっぱり、自分はブログに書いたり、SNSに書いたり、人格を一貫して保てるほうがいいなと思いました。

いろいろ腑に落ちる意見もあるし、SNSで書きにくいことを発散する場でもある。
自分の意見として、堂々と言うほどでもないけれど、誰かに言いたくなって書いた、というのもある。

でも、ヲチスレによるけれども、書き込みをする人間は案外少数なこと、原動力にはいろいろあるけれど、嫉妬、嫉み、不快感の吐露、のぞき見趣味、相手をコントロールしたいという欲望、そういうものを満たす場だということもわかりました。

(相談するスレッドや、情報交換するスレッドはきっと有益なんだと思います。身近な人にこそ、言えないことっていっぱいあるだろうし。ブログやSNSはまめじゃないとできないから、できない人の救済の場だということも思いました)

二十年ほど前、2chにさらされる、というのはたいへんな恐怖でした。
とにかく、アングラ、怖い、気持ち悪い、どろどろしている、というイメージでした。

でも、今はもっとカジュアルになり、高齢化もし、人間も減ったんだな、ということがわかりました。

一応、気が済んだので、もう、いいかな、という感じがしました。
自分のことに言及されていないタイミングで読めたので、あまり心が乱されないで、いろいろなことがわかってよかったです。

そして、ブログに直接コメントをする人は、人にもよるけど、正々堂々としている部分はあるから、そこは評価しないとな、と思いました。

過去の自分の反省点も見えて、ちょっと自分が変われたかなと思いました。
人からの見え方って、本当にどうしようもないから、距離を取るしかない、というのが、人に言われても腹に落ちませんでしたが、自分から、怖いものを見に行って、自分なりに理解できたので、腑に落ちました。

(でも、やっぱり頭に来たら、また見苦しい姿を見せてしまうんだろうな、とは思います。
腹が立って、ちゃんと怒るというのも、わたしにとっては大切なことではあるので、なかなかバランスがとりにくいですが)


運命の赤い糸はわがままに過ごしてやってくる

「嫌な席だったら、帰る」という助言を実行して六年たちます。
「帰ること自体は、誰に対しても攻撃にならない。何も言わずに帰っても大丈夫。あとで、調子悪くて、帰ったって言って、悪く思う人とは合わないから、それまで。わかってくれるなら、弁解も聞いてくれる、誤解があっても話しあえる。
帰ること自体で取り返しがつかないことになることは絶対にないけれど、嫌な席に居続けて、判断が鈍って取り返しのつかないことになることはある」と言われたから、その通りだと思って実行しました。

先日の同窓会でも、嫌だと思って帰りましたが、わたしの味方はちゃんとあとから、わたしのそばに来てくれました。
一緒に時間を過ごして、ご飯を食べるだけで、心が安らぎなごみ、励まされる相手というのは、必ずいるのだと思いました。

同窓会に行くと、やっぱり、年収が一千万円超えている人がごろごろいるので、二人で自信を失いました。
でも、やっぱり、何もない自分だと思っても、幸せな部分というは、今、築けているよね、という風に励まされました。
年収が高いことを話すのでも、さらっと伝えてくれて、こちらも、「本当に頑張ったね、すごいね、よかったね」と心から言える相手と、「そんなん言われても困る」と落ち込む相手とがいるので、やっぱり相性があると思います。

三十過ぎると、今まで健康で順風満帆にいっていたひとも、人に言いにくい苦労が出てくることもわかりました。
そういう苦労を、種類は違えど、話せて、すっきりして、励まし合える人間が、細く長く続いているのは、本当にありがたいと思いました。

もし、年収が高い子でも、何かあったら、そうじゃなくなる場面もあるだろうし、でも、そういうときに、そばから離れず、力になりたいと思える相手と付き合っていきたいと思います。

人からうらやまれるような権力や名誉を持っている人でも、人生の後半になると、人への嫉妬や恨みで頭がいっぱいになる人もいて、昔は、それでも「地位と名誉とお金があるのだからうらやましい」と思っていましたが、今では、そうは思えません。

自分自身、状況が変わらなくても、躁鬱で、心の状態が変われば、幸不幸なんて、オセロみたいにひっくり返ることがよくあります。

全部が心の持ちようだとは到底言えませんが、それでも、自分なりの矜持を持って暮らしたいと思います。

勉強してよかったと思うことは、知識を増やせたこと、視点を増やせたこと、そして、自分の周りの世界に秩序をもたらせたことです。
世界は混とんに満ちていて、それだけに、傷つき疲れることも多いです。
けれど、勉強することによって、人間の非力さを知り、無能さを知り、そして、自分の限界を知ることで、逆説的にですが、常に向学心を持つことの大事さを知りました。向学心を持つことで、混沌に流されそうになる自分を、知識や知恵が、錨のようにつなぎとめてくれるのです。
生活の面では、自分の身の回りの秩序を保つことがどれだけ大切か気が付けました。

わたしは、知識を得て、世界を広くする心地よさを知っています。そして、人を育てる仕事をしています。
わたしは、心地よさ、気持ちよさ、自分のなりたい姿になる工夫を勉強を通して、伝えていきたいと思います。

勉強ができても、心が貧しければ、それは、わたしにとっては意味がないです。
勉強は、その楽しさ、もしくは、なりたいものになるための手段であってほしいと思います。誰かを踏みつけるための道具に堕してはならないと思います。

高校生になっても、本を読解する能力に欠けている子はたくさんいます。
日本語が母語だからといっても、読む力を使わなければ、その力は育たないままです。
だから、語彙を増やし、コラムを読ませて、論説文を読む力を育て、大学に行くにしても、教科書や専門書を読み砕ける力を育てて、卒業させたいと願います。

知識は、自分に害をなす人を、遠ざける力があります。
マルチ商法やネットワークビジネスに騙されることも、知識があれば、逃げられます。
DVやモラハラをする相手を恋人にしないようにすることも、知識があれば、かなり遭遇する確率を減らせます。
嫌いな人は嫌い、好きなものを好き、自分は大切なものだ、という感覚があれば、その人たちは、あえて近寄ってくることが減ります。
空気を読めない、協調性がない、という言葉に負けてしまえば、モラハラの餌食に遭いやすくなります。
でも、空気が読めない、協調性がない、という言葉に対抗することもできます。それには知識が有効です。
本を読むことです。正しい本を選び、本から本へたどる方法を知ることが、身を守ることにつながります。

わたしは、七年間付き合った彼氏と結婚を考えていましたが、別れました。
時間にルーズで、「仕事じゃないんだから」がいいわけでした。
半日でも遅刻する、連絡をしない、SNSのほうがわたしよりも大事(ほかにもいろいろありましたが)、そういう点で、わたしを尊重していないのは明らかでしたから、わたしはさっさと別れるべきでした。
それでも、別れたときに「もったいない」と言われ、それもあり、わたしは、今のパートナーと出会うまで、ずっと「あの人と結婚していたら、少なくとも、もう子供はいたかもしれない。彼も変わったかもしれない」と引きずっていました。
引きずりながらも、出会いを探し回って、みっともなくあがいたのは、それから脱却するためによかったと思います。

精神科の主治医が「赤い糸をネットで探せばいい。ネットは世界中からパートナーを探せる。自分の周りで街コンだのなんだのしても、一度に限られた人としか話せず、自分のことを知ってもらうのも大変だ。あなたは文章が得意なのだから、それを使って、ネットで自己開示をして、それでもあなたがいいという人が出会えたら、その人にここに引っ越してきてもらえればいい。引っ越すくらいの条件を乗り越えるくらいの情熱がある人じゃないと、結婚生活もうまくいかないから、ちょっとくらい、そういうハードルがあったほうが、嫌な人を避けることにもなるよ。それに、案外近くにいるかもしれないし」と五年前言ったことは、現実になりました。

今のパートナーは、わたしのブログを全部読んで、そして、わたしに会いに来た人です。
このブログは、人と出会うためにしたものではなかったのですが、それでも、たくさんの人と出会い(そして別れ、反目、憎しみも)を生み出してくれました。

人に嫌われる理由が、自分なりに理由があればいいと思うのです。
自分が生きるためにどうしても譲れない部分が、人をいらだてるのだとしたら、その人は、自分とは合わないことがお互いにわかってよかったというフィルターとして機能します。
だから、自分が妥協できる範囲がどのくらいか、見極めることが大事です。
髪ははやすことができないかもしれないくらい、自分を変えるのが困難な部分が必ずあって、でも、それがかえって魅力に結びつく相手がいるかもしれないのです。


朝の日課がに化粧が増えた

朝起きて、洗顔をして、着替えて、朝ごはんを作って、シーツとタオルを全部交換して、洗濯をして、その間にご飯を食べる。
それから、ウエットのシートでクイックルワイパーを家じゅうかけて、そうしていると、洗濯が終わるので、干す。
その合間に赤ちゃんをあやしたり、機嫌が良くても、短い時間しかいられないから、抱きしめたり、手をつないで「て、て、て。ててててて」と歌いながら、右手と左手を交互に動かす、という遊びと、「あんよ、あんよ、あんよの子」と言いながら足をばたばたさせるのを手伝って、それから、両足をもって、腰をぐるぐると回してあげる。
すっごく喜んで、にこにこしてくれる。解けそうな気持になる。
赤ちゃんは朝はほとんど機嫌がいい。
それから、自作のメリーゴーランドを見せる。ネムリラのオートスウィングはとっても役に立つ。

赤ちゃんの連絡帳を書いて、おむつを補充して、ガーゼを入れて、わたしがする準備は終わり。
赤ちゃんが保育園に行く時間になると、パートナーが、ひよこの着ぐるみを着せる。そうすると、保育園に行くことがわかるのか、お口がとんがって、うれしそう。

おなかがすいたら、ぴっと手をあげて教えてくれる。うれしいと手をぶんぶんふる。興奮すると「ふんすふんす」と息を荒くする。
赤ちゃんにもいろいろな感情があって、意思がある。
母乳拒否が続いていてつらいけれど、ミルクをやるときに、膝に乗せると、暖かく、柔らかく、ちょうどいい重みで、これが幸せの重みかと思う。

赤ちゃんが、保育園に連れられて行く間に、化粧をする。
いろいろと買い集めた化粧品の中から、一番気分に合うものを選んで、つける。
ファンデーションも、三種類持っている。
落とすのがしんどそうな日、毛穴が詰まっている日は、オンリーミネラルのミネラルファンデ。
以前は、粉のタイプで、出すのが大変だったけど、プレストタイプに変えたら、本当に楽になった。
コンパクトを付属のブラシでこすって、そのまま、顔に乗せるだけ。

毛穴を入念に消したいときは、アナスイの液体のファンデーションを塗る。
機能がいいのかはわからないけれど、バラの香りが好きだから。

それから、お粉をはたく。
いろいろ、素敵な新製品が出ていてほしくなるけれど、なかなか減らないので、もう五年くらい使っている。
化粧品は、半年で捨てろというのを読んだけれど、よく考えたら、粉、特に固まっているタイプのものには、水がないから細菌は繁殖しない。
油で固めているのも、油の中ではそれほど細菌が繁殖するとは思えない。

一番楽しみなのは、ポイントメイク。
アイシャドウを混ぜると、色が変わるのがとても好き。
MACとアナスイをよく使う。
アナスイのアイカラーデュオが好き。
色を混ぜると、不思議に変わる。
わたしはパールやラメが入っているものが好き。

口紅は、kiss、ちふれ、media、ボビイブラウンなどいろいろ持っている。
口紅も半年で捨てろと書いてあるのを読んだ時、一回泣く泣く捨てたけど、別に健康上問題がなさそうだから、まあいいや、とまた集めて使っている。

気に入っているのは、韓国コスメのティント。すごくよく染まるから、下地に使っている。

一時期はグロスがべたつくから嫌いだったけど、最近は好き。

昨日のツイキャスで紹介したアイテムをまとめました。リンク先は各メーカーの商品ページです。

https://t.co/JlMhnl5XTA

— O9CO2+H2O🍺 (@OQCeeee) 2017年11月27日

” rel=”noopener” target=”_blank”>コスメ集

https://t.co/YcWJGADzwB

モーメントにまとめました。

— O9CO2+H2O🍺 (@OQCeeee) 2017年11月23日

” rel=”noopener” target=”_blank”>簡単ベースメイク特集

こういうのも、読むのが楽しくなった。

化粧が終わったら、筋トレと体操ができたらする。
今は風邪をひいているから、走れないけれど、できれば走る。
運動をしないと、甘いものを無性に食べたくなる。
不思議と、運動をすると、それほど食べたくならない。
たぶん暇だと、脳に刺激がほしくなって、甘いものを欲してしまうんだと思う。

日課がスムーズにできるからと言って、鬱がないわけじゃなくて、その証拠に毎日ベーグルを焼いている。
小麦を練ったり、食べたくなるのは、たいてい鬱がひどいとき。


爪の色は誰の色?

同窓会に行くときに、爪を丹念に塗った。
紺に染めて、白いラメをグラデーションに重ねた。
重ねれば重ねるほど乾くの時間がかかり、よれてしまうから、苦労する。
赤ちゃんを見る時間をぬって、一生懸命おしゃれをした。

三次会で、世話になった先生と話せた。
「その爪は人と仲良くなる意思のある色じゃないよね。昔から協調性がない」と先生が言った。
「先生に髪がなく、自力ではやすことができないように、わたしには協調性がないんですよ」
と言い返したら、
「それはフォローしきれないな」と言ったやつがいて腹が立った。
何様だろう。
先生は、一回じゃなくて、十回以上、協調性がない、爪の色が変、こんな詰めの色なんてないと言った。
わたしは、出産してから二か月しかたっていないのに、頑張って、先生や、ほかの人に会いに来た。
わたしが一番いいと思う爪の色で来た。
出産してから、髪はぱさぱさになって、体はだるだるになって、顔も皮膚が前と違う。
自分の気に入る姿じゃない。でも、爪だけは好きな部分になるようにしていった。

ほかの人が、ほかの女性の何もしていない爪を指して、
「こういうのがいい」
「協調性がないと社会でやっていけない」と言ってきた。
そいつの妻は、中学生になる子供を連れて、その子供はずっとうつむいているのに、
「法的素養を身に着けさせたいから、宅建を受けさせたい」
「受験するから、口添えを頼みたい」と言っていた。
わたしはその夫婦が不愉快だった。同窓会の三次会に、十一時に、何を言っているのだろう。
でも、協調性がないと名指されたのはわたしだった。
わたしは、
「お前のために塗った爪じゃない」
「協調性で金が稼げるのかよ」
と言いたかったが、
「もう帰ろうかな」と言って帰った。

帰ってから、同期が来てくれて、
「ひどい席だったね、来年からはもう行かないで、うちらだけで会おう。協調性がないなんて思わない、あっちがない、その爪だってきれいじゃん」と言ってくれた。

わたしは、いやだったらいつでも帰る決断ができる自分が好きだ。
爪だって、服だって、自分が好きなものを身に着ける。
それで、自分が好きになれるんだったらいいと思う。
人のことをあれこれ言う人はそんなに立派じゃない。
協調性で飯が食えるか。


親に感謝する必要も許す必要もない

子供を出産してわかったのは、親に一切感謝しなくていいということだ。
わたしは、自分の子に、感謝してほしいと思わない。
何もかも当たり前に受け取ってほしいと思っている。

わたしが勝手に産みたくて産んだ。
育てたくて育てている。
喜んでほしい、笑ってほしい、声を聞かせてほしい、手を握ってほしい、そう思うからいろいろなことをする。
泣いてほしくない、鳴き声を聞いているのはしんどいから、あやす。
飲むところがかわいいから母乳やミルクをやる。
小さいままでいてほしいけれど、できることが一つずつ増えていくことがうれしいから、いろいろな刺激を与える。
今は、こぶしをしゃぶれるようになった。がらがらに振り向くようになった。
手をつないで歌を歌いながら動かすと、「きゃしゃー」と声をあげて笑う。
腹ばいにすることができるようになった。頭を持ち上げることができるようになった。全部うれしい。
外に連れ出すと、必死で回りを見る。のけぞってまでしてみる。
だから、散歩に連れ出したい。
毎日、一つでも幸せであり、喜ばしいことを感じられるようにと思う。
大学資金を貯めて、勉強をしてほしいと願うのは、勉強の面白さを味わってほしいから。

全部、わたしがしたいこと。
だから、感謝なんてしなくていい。してもらったらさみしいかもしれない。

わたしは、「親に会わせないなんてかわいそう」と言われた。
でも、彼らはわたしが会いたくなくなるようなことをした。
感謝しないといけないと思わされていた。
いうことを聞かされて、彼らが自慢できるような人間になって、自分の意思を踏みにじられ、身体的特徴を笑われ、そして「わたしたちはいい親だ」と言われてきた。
みじめな思い、つらい思い、裏切り、虐待、そういう目に遭って、彼らはそれを自覚してもおらず、なじっても決して反省せず、認めない、謝ることなんて遠い、そういう人たちに語る言葉はもうないのだ。

死にゆく人たちに関わるよりも、わたしは、自分が愛する存在、これから生きていく存在にエネルギーを向けたい。
親なんて早く死んでくれて結構だ。死んでくれ。もう悩まなくて済むから。

わたしは、父方の祖母にひどくなじられたので、二度と会わず、葬式にもいかなかった。
母方の祖母の葬式には呼ばれなかった。
親戚なんて、都合の良い時には労働力として頼ってくるが、こちらが困っても無視する。
あいつらは早く死んでほしい。
パートナーの親とだって、わたしは無関係だから付き合わない。彼の親であってわたしの親じゃない。知り合いでもない。

わたしが会いたい人、関わりたい人とだけ関わる。それでいい。


買ってはいけないと言われていた服を大人だから買った

ふわふわのシャギーのセーターと、やはりふわふわのワンピを買った。
実家では、自分の好きな服を買ってもけなされ、返して来いと言われていたので、おしゃれをするのが怖かった。
ふわふわのニットなんて、わたしには似合わないと思い込んでいた。

一緒に大学生活を送った友達は、ずっと渋谷で買い物をしよう、これも似合うよ、とかわいい服を勧めてくれたのに、わたしは「怖い」と言って断っていた。
それほど、わたしの心の中は母親に占められていた。

子供を産んで、わたしの親は、本当にひどいことをわたしにしていたのだとわかった。
柔らかくふわふわといい匂いのする赤ちゃんが、最近はよく笑う。
手をつないで、歌を歌うだけで喜んで遊んでくれる。散歩にも連れていく。きれいな服を着せる。
こんなに美しい生き物に、ひどいことをできたあの人たちはやはり異常者だった。それがよくわかった。
子供を産むと親の気持ちがわかるというが、わたしには余計わからなくなった。
産む前のほうが、「わたしにはわからない事情があったのだろう」と思えた。
実際に子育てをして、彼らの悪質さが、際立つ。どうしたって、この弱い生き物に、あれができることが理解できない。

ボロボロの服は、自尊心を削られた。
どう考えても、貧乏ではないのに、誰も着ていないような、時代遅れの服はつらかった。みじめだった。

ふわふわした服は、汚れる、誰が洗うんだ、似合わない、ファッションショーに行くわけでもあるまいし、色気づきやがって、など罵倒された。

わたしは、それが似合わないものだと思っていた。
時間は二度と戻らない。そのことを思うと、心がびゅっと穴が開いたような気がする。

それでも、わたしはこわごわと、ふわふわした服を買った。そんなに高価でもない。でも、わたしはとても幸せだ。

前述の友達はわたしに、「お母さんに子供を会わせないなんてかわいそう」と言った。
「かわいそうなのはわたしだ。会わせたいような親じゃないんだから、自業自得だ」と言い返せた。
でも、わたしは、やっぱりつらくなって、パニックになって、家で暴れた。

自分の人生を取り戻すことなんてできないかもしれない。
失った時間は絶対に帰ってこない。
今、あのとき着たかった服を着ても、気持ちは成仏しない。
あの時は着たかった事実は変わらない。その気持ちも消えない。

それでも、わたしは、服を買って、大事に着る。
わたしの傷は今も生々しい。わたしの青春も、一番柔らかな感受性を持っていたころ、みじめだった事実も、一番きれいだったころ、みっともない姿でいたことも、消えない。癒えない。

そんなわたしが、母に会うことはできない。
おしゃれは無価値なもの、おしゃれをするわたしをののしり、みっともない生き物だと思い込ませたあの人のそばにはいきたくない。

今でも悲しい。
ずっと悲しい。
悲しくて気が狂いそうな気持を、忘れようとしても、忘れることはできない。
波が押し寄せて、流されまいと、生活に縋り付いているだけ。錨のように、今持っている美しいものがわたしにはあるけれど、鏡に映るわたしは、中年で、フェイスラインも、体のラインも崩れている。
あの頃、わたしは美しくありたかった。きれいな、かわいい、気に入った服を着たかった。

わたしは、爪を塗る。朝起きたら、化粧をする。取り戻したいから。何をかわからない。
自己決定権のようなものかと思う。
でも、取り戻せない。むなしさに胸がかきむしられる。
それでも、続けるしかない。
わたしがわたしであるという戦いのために。

苦しく、悔しく、みじめな戦いだ。
絶対に取り戻せないものに抗って、頭の中の記憶はいつでも無差別に襲う。
そのたびに、わたしは狂う。


綺麗なもので心にシップをしたい

綺麗なもの、かわいいもの、美しいものを手に入れると、自分もきれいでかわいくて美しいものになれる気がする。
それは、気のせいだから、次から次へと消費の対象はうつる。目まぐるしく。
一回も袖を通さずに廃棄される服、化粧品、気まぐれに選ばれるアクセサリー。
自分の体のコントロールを奪われたことで、わたしは、自分の体や心のコントロールを失ってしまった。
コントロールを失うと、自分の体が自分のものだ、という当たり前の感覚がなくなる。
必然的に自尊心もなくなる。
一度、ひどい目に遭うと、ずっとひどい目に遭い続ける。そういう連鎖がある。
それは、わたしだけに起こったことじゃない。保育園で、年中の友達が、近所のお兄さんにお菓子と引き換えに体を触られると言っていた。でも、お母さんにそのことは言えないとも言っていた。そんな年齢から、わたしたちは、体も心も傷つけられ、幸せだとか安心だとか守られているという感覚を失ってしまった。
当たり前に得るものなのに。失うというよりも初めからなかった。

だから、わたしは、美しいもの綺麗なものかわいいものがほしい、それは、わたしがコントロールできるものだから。
買う、手に入れる、保存する、手入れをする、捨てる、無残に扱う、全部わたしの思うままだ。
普通に生きているだけで、娯楽にもSNSにも、心にやすりをかけられるような一言、言葉、情報があふれている。
歩けば、店に入れば、女という体は、人を、つまり日本において人と扱われるのは男だけだ、その男が、欲情するための媒介として、女の体が存在し、女は、あらゆる苦痛を、「快楽」に読み替える神経を持つものだというプロパガンダがふりまかれている。
針で刺されても、棒を突っ込まれ、こすられ、水攻めにされ、窒息され、拘束され、縛られ、殴られ、でも、女は、女という体さえ持っていたら、それらの苦痛は快楽になるのだと、そういう嘘が蔓延している。それをおかしいと言えば、「お前は気がくるっている」と言われる。

そして、あふれるそれらの加害性の高い情報を食べて、彼らは安心する、自分たちが持つ加害欲は、責められることもない「ただの性欲」なのだと肯定され、また、加害欲が再学習されていく。そして、わたしは無気力と無力を再学習する。

わたしの身に起きたひどいことは、勝手に起きたわけじゃなくて、男がわたしにしたことだ。
そして、わたしは学校に行けなくなった。だって、学校にはそいつがいたから。
わたしは、大学に行くのも苦痛だった。だって、男の大きな声がするから。
授業中にパニックになったときにも、教員にののしられた。「相手の子は何もしてないのにかわいそうでしょう」
その人は、セクハラ対策委員だった。比較文化論を研究していた。

わたしは、誰にも何もしていないが、わたしが行ける場所は限られている。学習するにも、体力も精神力もいるが、わたしは集中することができない。なぜなら、集中していると「あのこと」がいつでも浮かび上がってくるかもしれないからだ。
それが浮かび上がってきたら、わたしの体も心も「あのこと」に乗っ取られて、時間も「あのとき」に戻ってしまう。わたしは、現実を喪失している。

精神が不安定だから「メンヘラ」「きちがい」「頭がおかしい人」と言われる。
だって、それを言う人たちはわたしの過去なんて知らないのだから。
不安定で迷惑をかけるわたしの背景など、当然知ったことはない。だって、彼らは加害者ではない。そんなのは当たり前だと言い聞かせ、わたしはにっこりしながら早く死にたいと願う。ああ、そうだね、わたしは醜い、肉塊だ。

心臓がバクバクして呼吸が苦しくなる。空気がうまく吸えない。空気がなくなってしまったようだ。

早く忘れたらいいね、命があってよかったね、魅力的だということだからよかったね、自慢?
あなたがだらしないから目をつけられてそういう目に遭うんだよ、何度もそういう目に遭うってことは自衛する気がないか、もしかして望んでいるんじゃないの?

わたしは、わたしの体を一つ一つ切り落としたい。
あのことに触れた部分を一つ一つ切り落としたい。そうして、残った部分がきれいならば、その部分だけで生きなおしたいと願うのだけれど、そんなことができるはずもない。

わたしは、わたしが不安定になったのは当たり前だと思っている。
でも、仕方がないよね、と許されて、存在するくらいならば、消えてしまいたい。
わたしが「いてもいい」と許可を与えることができるあなたは、どうして、当たり前のように、わたしよりも「えらい」わけ?
どうして、許可を与え許すことができる立場に、あなたは当たり前に立てるの、そしてわたしはいつでも下の立場にいなければならないの?あのことがあっただけで。たまたま、あのことに出会わなかったあなたが。

がらくたを集めるようにしか、今日を生きることができない。
明日も生きられるのかわからない。
昨日生きていられたことはもう忘れてしまいたい。
心にやすりがかけられてしまうから、だから、心にシップをしたい。


男尊女卑に染まると、成績が伸び悩む

統計やデータを必要とする人は、読まないでください。
わたしは、データも大事だけど、現場の感じていることも、貴重な情報だと思うので書きます。
聞き取りやフィールドワークも研究になるのだから、データデータという人はちょっと滑稽にも感じるのだけれどそれはおいておいて。

スマホを手にした男子高校生は、男尊女卑に染まります。
スマホを持つまで、ネットを見る時間が長くなるまでは普通の子だったのが、ネットの記事を読みだすと、お母さんをバカにし、目上の女性をバカにし、年下や同級生もバカにするようになります。
すると、周りから人がいなくなります。
そして、「理解されない」という恨みを抱き、「理解しないほうが悪い」と思考が転換していきます。
そうすると、ますます、ネットの男尊女卑にすがるようになる。
男尊女卑というのは、妄想です。
男というだけで、素晴らしくすぐれている、という妄想です。
だから、それに染まると、まったく努力をしなくなる。
しなくても、自分は男だから、で止まってしまうようです。
それに、努力はすればするほど、いかに自分が卑小な存在か突きつけられるようになりますからね。
一度、男尊女卑の甘い蜜を吸うと、その「卑小な存在だ」「何もできない存在だ」ということに耐えられなくなるみたいです。

ネットに、コンビニに、本屋に、ポルノ的なイラストや、ポルノそのもの、性暴力があると、何が悪いか、というと、自分が女性に性的嫌がらせをしても、「許される」と思い込んでしまうという弊害があります。
男子高校生が、「女性の裸に近い姿のイラスト、ポーズは煽情的」なものを見せてきて「どう思う?」と聞いてきました。
それは、性的嫌がらせです。だから、わたしは、その子と話すことが嫌になりました。
でも、彼は、そういうことをしても、いいと思っているからそうしたわけです。
だって、性的嫌がらせをしても、女の子は赤面したりキャーというだけで許す、という物語があふれているからです。
環境的にも、ポルノはたくさん売られています。だから、そういうものを、女性も見慣れているし、見せていいんだと、彼は勘違いしたんだと思います。
だけど、そういうことをしていると、人に嫌われます。当たり前だけど。
人に嫌われると、適切な助言をしてもらえなくなります。男尊女卑があるから、わたしの勉強に関する助言も聞かないです。

それどころか、わたしに「母親たるもの」というような説教をしてきます。

そういうことをするのは、彼女がいる子もです。モテないからそうなるとは限らないのです。

全体的に女の子は、教えれば、成績が伸びます。やる気もある、努力もする、伸びないわけがありません。
でも彼女らがしっかりしているのは「女の子だから」と抑圧されてきた結果だから、それはそれで、わたしはひっかかりを感じています。

「女の子は浪人を許さない」「女の子だから、そんなに上を目指さなくていい」「そもそも教育は必要ない」という保護者はまだまだ大勢います。だから、女の子は「子供時代のリミット」を常に目の前にぶら下げられているため、しっかりせざるを得ないのだと思います。だから、女の子は、能力が高くなりがちです。

男の子でも、勉強ができる場合があって、それは二通りです。
教育熱心な家庭であるか、お父さんがお母さんを尊重する家庭であるか、どちらかです。
でも、本当にそういう男の子は少ないです。なかなか根深い問題です。

男尊女卑というのは、男と女が世の中に二通りだけ存在しており、男というだけで偉い、と妄想する、妄想の中でもきわめて雑な妄想です。
客観性がないのだから、もちろん、学業も伸び悩むのも当たり前かもしれません。
男尊女卑の染まることで、その人の能力が限定されてしまうのだとしたら、差別者自身も、不幸せなことだと思います。
差別される側は言うまでもなく。
(ただし、差別が存在して、世の中を動かしているので、下駄を履かされている男性が、能力が低くてもそれなりの地位に就けるという現実もあります。その現実自体が、男性の能力を制限する過程を再生産しているともいえます)