東京医科大の女性差別とバックフラッシュ

わたしが生まれたのは、八十年代初めだった。85年に均等法が制定された。

だから、わたしが育った時代は、女性差別を撤廃するという機運に満ちていた。

差別なんてない区別だ、という人はいたが、変な人だと思われていたように思う。

バブルが崩壊しつつあったとはいえ、今と比べたら、国の力がもっとあった。今日頑張れば明日良くなると信じている人が多かったように思う。

あのころ、何が差別なのか、まだ誰もわかっていなくて、「これは差別なのでは?」と手探りで模索していた。

今は何が差別になるのか、かなりわかってきていて、それを是正するためには、どうすればいいのかもわかっている。実際に是正して、うまくいっている国のほうが多いくらいだ。

でも、日本ではいまだに「女尊男卑」だのなんだの言う人間がいる。

東京医科大のような明らかな不正にすら、それを女性差別だと認めない人たちがたくさんいる。SNSでそれが可視化されたので、わたしはすっかり参っていた。

わたしが書くことに何にも意味がないような気がした。砂漠に水を撒くのも、徒労もずいぶん経験してきた。

授業をしていても、この子がどんなに頑張っても、不正がある限り意味がない、と無気力になる。

予備校や、塾は、高校受験、大学受験でおかしな操作があることは、把握していたはずだ。

でも、予備校や塾は、「これは変えることができないので、それを見越して、適応させる」道を選んできた。

今は、様々な不正が公になって、膿が出ている時期だという人もいるが、わたしは楽観的になれない。

わたしは反日だと言われようが日本たたきだと言われようが全然かまわない。

わたしが子供のころ「非国民」という言葉は死語だった。だが、「反日」という言葉で、その概念は復活してしまった。

わたしは、県歌を子守歌に歌うくらい郷土愛があるが、それと同時に、今住んでいるところに不正や、是正するべきところがあれば批判する。それは、わたしの生活をよくするばかりか、今後の若い人たちにとっていいことだからだ。

でも、自分が住んでいる場所を批判することを「悪口をいうなら、日本から出ていけばいい」としか、捉えられない人がたくさんいることもわかってきた。

縁故主義、わいろ、汚職、不正義がはびこる国は亡びる。だから、それは是正されなくてはならない。しかし、盲目的に、追従する人たちのことを変えるのはもう難しい気がしてしまう。

個人的には、今住んでいるところの自然や、温泉が好きだから、しばらく住んでいるかもしれないが、いつか、日本の外に出る選択をするかもしれないと思う。

わたしはその選択をすることが、おそらく可能だから、そうできる。

でも、日本から逃げられない若い人たちのことを思うと、もう少し踏ん張って、戦うべきだとも思う。若い人たち自身が、不正義や不公正を当たり前の者として受け取って、そこに、適応しようとしていたとしても、やっぱり、若い人たちのためにはならないことだから、何とかしていきたいと思う。

蟷螂の斧を振り回すのにも疲れてきた。わたしの子供のころ大人だった人たちが、どんどん減っていくので、わたしはとても今落ち込んでいる。でも、だからこそ、わたしが子供のころ大人だった人たちがしてくれたことを、若い人のためにしたいとも思う。

わたしは、気の利いたことも、当意即妙なことも言えない。

Twitterは、言葉のやり取りが先鋭化しやすいので、ブログ主体で書いていく。けど、ブログという媒体自体がもうだいぶ古いものだともわかっている。

わたしは、差別主義者を変えられると思わない。でも、やっぱり、無力であっても、何かできることがしたい。

わたしにできることは少ない。寄付をする、塾講師の仕事を通して、生徒さんの学力と生きる力を伸ばす、ブログを書く、くらい。

やらないよりはましだ。それに、怒っている人がたくさんいるのはまだ救いだ。

わたしの子供のころ、教師が殴る、性的虐待をする、ということはよくあった。男子生徒が女子生徒を殴っているのもよく見た。でも、今はそういうことは減った。

それも、怒っていた人がいたから生まれた変化だ。

だから、不正義について、怒っていれば、変わるかもしれない。そういう希望を持っていたい。


アトピーと躁鬱とASDのスキンケア晒す

わたしはツイッターで自撮りをすぐあげるので知っている人は知っていると思うけどわたしはデブ&アトピーで肌がボロボロで、常々自分でもかわいそうだと思っている。

ので、今わたしが使っているスキンケアを書いておきます。

わたしは、ナッツアレルギーなので、スイートアーモンドオイルが入っていると死にます。そして、ちょっと高いハンドぐりーむに入っている率は高い。オーガニック化粧品にもよく入っている。おそろしい。

クレンジング、シャンプードレッサー、ボディーソープを兼ねた一本。
上からわしわし洗っていける。

これも好き。たまのはだ。


これはトリートメントも兼ねている。

保湿はこれで今のところはいい感じ。


濡れたまま塗るのがポイントで、そうすると、お風呂あがりにタオルで拭けるのでべたべたしない。パジャマが油でべたべたしてきた歴史が長すぎてもういやなんだよね。濡れたまま塗るので当然乾いた肌に塗るよりも塗りやすいししっとりする。

アクルのエッセンス。これだけで手入れがオッケー。肌も荒れないので好き。

でも高いので、

普段は同じアクルの「myu-rusエラムローション」500ミリというのを使ってます。これはそんなに高くないです。値段は忘れた。

乳液は定まっていないです。無印の使ったり、アルガンオイル塗って髪にも塗ったりします。

ファンデーションは、クリニーク使ったり、アナスイ使ったり適当ですが、一番楽なのは、

オンリーミネラルのプレストを使ってます。振って出す奴だとこぼすしめんどくさいから。下地いらなくて、せっけんで落とせるのがいい。
今はそういうのたくさんある。
ほかにもナチュラルグラッセ使ったりもします。エトヴォスとかママバターも使ってみたい。
ほかにもいいらしいものがたくさんあるので、試したい気持ち。
オンリーミネラルは白っぽいので、ちょっと暗めの色を選んだほうがいいです。


自己卑下と自己憐憫

わたしは、金遣いが荒い。
伴侶はほとんど自分のために何か買う人じゃないので、余計私の金遣いの荒さが際立つ。
わたしが買うもので、生活を豊かにするものや便利にするものもあるので、一概に買い物が悪いとは言えないのだけど。

伴侶は勤勉で、仕事はきちんとするし、穏やかで誰からも信頼される。勉強を常にしているから、どんどん老いていかれるような気がしてしまう。

一緒にいて、彼のメリットは何だろうと思ってしまう。
わたしは、昼間、起きられるときもあるが起きられない時もある。
働いてはいるけれど家族を食わせるほどは働けていなくて、家計の足し程度だ。
仕事のスキルも、あまり伸ばせていない。その点、伴侶は仕事をどんどんブラッシュアップしている。
彼が学びたいという気持ちは本当に純粋で美しくすら感じる。
わたしには、そういうものがないんじゃないかと思うと落ち込んでしまう。

彼が突然わたしを嫌になっていなくなるんじゃないか、と不意に思う。
それは、買い物をしたタイミングのことが多い。お金を使った後、彼の一挙一動におびえてしまう。
不機嫌になるんじゃないか、と不安になる。
彼は決して声を荒げたりはしないのに。機嫌が悪くなることもない。なのに、わたしは、怖くなる。

お金を使わなくなれば自己卑下がなくなるんだろうか。
金遣いの荒さは、去年に比べて、ずいぶんコントロールできてきた。完ぺきではない。でも、前よりはできている。これは事実だ。

わたしができることは事実を積み重ねることだけ。事実を積み重ねて、自分を信頼できるようになりたい。それを自信と呼びたい。


責任逃れのための「自己責任」「他己責任」

自己責任という言葉は、責任逃れのための言葉である。
他人に対して、「自己責任で」というとき、「俺に責任はない」ということだけを言いたいのだ。
もっといえば「俺に迷惑をかけるな」という意味である。
もっとも卑怯な人は、他己責任だ。こんな言葉はないが、「自分に責任はない」ということだけ言いたい人がいる。
自分がしたことに対して、責任を取りたくない人は、ほかの誰かのせいにする。
何か問題が起きて、ほかの誰かのせいにするために、ほかの誰かに「自己責任だろう」ということは両立する。
自己責任だとうそぶく人の本質は、他己責任なのだ。

国が法律を作り、それに沿って社会が動く。だから、社会の動き方には、国が責任を負う。
そもそも、社会は、一人で生きることよりも集団で生きることを選んだ人類の工夫である。
弱いものが弱いままで生きられるようにするために社会が存在する。
社会が、個人を追い詰めるのは本末転倒なのだ。

自己責任だと教え込まれて、それを自分へも課すと、うまくいかない時に、原因を自分に求めるしかなくなる。
仕事がうまくいかないのも、貧しいのも、病気なのも、自分のせいだ、というわけだ。
仕事がうまくいくかどうかも、貧しさも、病気になるかどうかも、運の要素が大きい。
健康的な生活を心がけても、体調を崩しやすい人もいる。仕事の相性がいいかどうかは、運しだい。貧しさも、努力できるような家庭環境に生まれたか、ということが大きく影響する。お金を儲けられるような健康体、性別、国籍でないと難しい。
すべてに恵まれていても、大きな災害に見舞われたらすべて失うことを思えば、全部運だということを納得してもらえるだろうか。

義務と権利は表裏一体ではないのに、いつまでも表裏一体だと信じている人々がいる。
義務を果たさなければ権利を主張するな。
主張を垂れ流すな。
声高な人のせいで、まともに生きている人が迷惑する。
いつも怒っている意識の高い人は不幸なんだろうね、かわいそうに。
本当に日本人なのか。
日本が嫌なら国に帰れ。
そういうことを異口同音に繰り返す人々がいる。
バカみたいだ。

「女はまともに考えることができない、感情的だから」といまだにいう人がいる。
それがすでに論理的な発想じゃないから、言葉も通じないと思って、わたしはもう黙ってしまう。
時代は後退している。

上記のような言葉をいう人々は、でも、やっぱり追い詰められていると思う。これらの言葉を自分に向けないようにしているだろうけれど、書けば目に入るし、言えば耳に入る。人間は自分の言った言葉も聞く。だから、結局、それらの人々は、自分の言葉に追い詰められていくんだろう。

上記の言葉はすべて、「自分には責任がない。こちらに迷惑をかけるな」とだけ言っている。
それらの言葉をかけられた人には迷惑が掛かっている。でも、それは見えないらしい。


依存を超えて自分を生きる

山口達也と非生産(田房永子さん)

この記事を読んでいろいろと思うところがある。

わたしが真に困ったときに、贈られた言葉で「自分を生きてください」というのがあった。

「自分が生きる」が「自分を生きる」になったとき、自由になれますと言われて、心が強く動かされた。

わたしは、依存心の強い人間で、いろいろなものに依存してきた。人に依存したときは最悪だった。お互いに。

出産後、依存することが減った。過食傾向があったけれど、食べることにも依存しなくなった。

この記事を書くにあたって、「子供に依存してるのかな」とも思ったけど、それも違う。

ということを書こうと思う。

以前、田房永子さんの「キレるわたしをやめたい」について「この場面はキレていいと思う」という感想を書いた。それは今でも変わらないんだけど、産後「キレる」ということが増えた時期があったので、「このことを言っているのか」と思った。

たとえば、哺乳瓶を洗っていると、頭の後ろのほうで、パンっとなにかはじけるような感じがして、そのまんまキレてしまう。

怒鳴って、伴侶をたたき起こす。何やってるんだよ!と。

それで、いろいろ対策した。

振り返って、スローモーションで再生すると「頭の後ろのほうに白い塊がわく→それが破裂する」の間には、「なんでわたしばっかり」という気持が隠れていて、その気持ちが「今もそうだし昔もそう」ということを訴えていた。

生まれたときからの恨みがそこにあった。

生まれたときからの恨みを解決するのは難しいので、「わたしばっかり」と思ったら、とりあえず、それをするのをやめようと思った。

キレて家がぐっちゃぐちゃになるまで泣くより、わたしが育児をしないほうがましだという言い訳もあったけれど、それより、恨むくらいならやらないほうがわたしのためだと思ったから。

ましだからだとかなんとかとか、人や自分に言うための言い訳もやめたかった。

わたしがしたくないからわたしはしない。

そういうシンプルなことが大事だろう。

実際には、子供の世話をしたくないといっても、それを代わってくれる人がいないと実行できない。だから、伴侶に頼んだ。

それ以来あまりキレていない。

だから、そういうことなんだろう。本当はしたくないのにしなければならないからしている。だから、しなくてもいいように状況を整えて(そうすることで責任を果たして)、しない。

伴侶には負担をかけて申し訳ないと思うけれどキレたってどうせ負担はかけるから、彼が嫌になったらその時話すしかない。わたしはどうしたって、わたしでしかないから、恨んでキレるか、恨まないで生きるかしかない。

それでも暑い日にはキレることもあるので、キレそうになったら、薬を飲むようにしている。漢方薬も飲んでいる。効いていると思う。

依存をしているときは、単調な刺激をひたすら摂取して、脳を使わないように、刺激で満たして、時間をショートカットしている。幽体離脱と同じだ。今を生きていない。だから、そういうときは、生きている実感がないし、時がたつのがとても早い。それで、自分の人生がいつの間にかまた知らない間に失われてしまったと嘆いて、また恨む。自分の人生を親とか子供に盗られてしまって自分のしたいことができてないと言って恨む。依存しているときにはそれに夢中だから何も考えなくていい。考えているつもりだけど本当の意味では考えていない。

「考えるのをやめる」ことと「依存をやめる」ことは似ている。

考えることをやめるのは思考停止みたいだけど、思考することで生きるのをやめるという状況がある。それが依存。食べることを考えていて食べていてどう食べるかいかに食べるか、それしか考えていない時って、頭使っているようで使っていない。食べることで生きている感覚を取り戻し、そして、食べることで思考をマヒさせる。

だから、食べることについて考えることを止められてようやく生きるみたいな感じになる。

食べることばかり考えているときとか、あと何時間したら睡眠導入剤(以下睡眠薬)を飲めるかだけ考えているときは、生きてはいるけど人生を生きていない。「わたしを生きて」はいない。人生がつらい時、ひたすら睡眠薬を飲める時間を待っていた。睡眠薬を飲むとぼんやりするから。そのぼんやりを「思考が研ぎ澄まされている」ように錯覚しているときもあった。別に何でもいい。睡眠導入剤じゃなくても、過食でも、なんでもよかった。

 

自分が人生を生きなきゃ死ぬってことが本当に腑に落ち始めたのは、五年前が始まりだったと思う。それまでどうやっても無理だった。親を捨ててからようやくやめられた。それまでは「自分で好きなように人生を生きるのは親に悪い」と思ってできなかった。親と縁を切って親に対して理由を説明しなくなってからよくなった。理由を伝えて説得しないといけないと思っていたから、依存しないといけなかった。説明をしなくてはいけない立場は常に弱い。

わたしの親は「理由」をとにかく求める。納得しない。だから、いつも理由を考えて行動していた。そういうのは、わたしのためじゃなかった。親はわたしのためだと言っていた。でも、わたしのためにはなっていなかった。

 

自分が自分を生きないと人生はこのままなくなる。もうすでに30年なくなっていたのに!なくなってしまった!親を許せない。苦しい。憎い。殺してやりたい。

という思考と、

親を許せないが、過去のことを反芻していたらさらに現在が失われる。

という現実の間で五年間苦しかった。どちらも本当だった。

 

親を許せないという気持ちを紛らわせるためにライフステージを進めることが必要だった。友達を作って、居場所を作って、お金を稼いで、伴侶を得る。生活の基盤を確保する。根無し草にはもうこりごりだ。根無し草のままだと子供として扱われて親に入ってこられてしまう。

そういう危機感があった。こんなに明確に思ってはいなかった。明確に思っていたら、相手に悪いと思って、行動できなくなっていただろう。

幸い、みっともないことをなりふり構わずした結果、伴侶を得て、生活の基盤も落ち着き、子供も授かった。

子供を見ていると、子供は成長しようとする方向性を持って生まれていることが分かる。成長は親と距離を広げるということだ。成長すればするほどどんどん離れていく。胎児から新生児、新生児から首が座り、寝返りができ、腰が据わり、ハイハイをする。抱っこする時間がどんどん減る。向こうから来たいときに来る。ハイハイし始めてから、一人遊びの時間がどんどん増えた。子供が親と距離を取るのは自然なのだ。生まれたときから決まっていることだ。それが腑に落ちた。

わたしは、親と別の人間だったのに、侵入されていたから、バランスをとるために、依存をしたり、体や精神のバランスを崩した。親がいなくなれば、原因がなくなるので、元気になった。

依存は生き延びるための手段でもある。依存症や、病気になるから生き延びられるということもある。でも、その生き延びるための手段を捨てて、生き延びる以上の生き方をすることもできる。

 

 

わたしは、田房さんという作家に特別な思いを抱いている。

同世代の似た属性の作家さんだから。

そういう、関係あるような関係ないようなことを考えてこの記事を書いた。

 


悲しみは遅れてやってくる

身内が半年前に胃がんで亡くなった。
それから今やっと悲しい、すごく悲しいと感じた。
半年前、わたしは出産直後で、産後鬱になり、悲しむ余裕がなかった。
その人は、胃がんなのに、妻に働かされすぎて、弱って亡くなってしまった。彼は苦しいと言ったので、周りはみんな助けようとしたが、妻はそれを「陰謀」だと言って退けて、彼を働かせ続けた。そして、彼は亡くなった。
(実父も胃がんだ)
いい人でも悪い人でも人は死ぬのだけど、いい人が死ぬのは堪える。嫌な人でもそれなりに近しければ堪える。

今日、学資保険に入った。伴侶が亡くなっても、子に保証が入るタイプだ。保険会社が倒産しても、保険会社自体が保険に入っているので、9割保証されている。病気やケガ、傷害を負っても、入院しなくても、一日から保険金が入るようにしたので、たぶん大丈夫なはず。15歳になったら、終身タイプの生命保険に入れる。わたしたち親自身は、入ることができない。

わたしたちは、早めに死ぬ確率が高い。二人とも発達障害だからだ。特に、わたしは、ラピットサイクルタイプの双極性障害だから、自殺のリスクがすごく高い。悪くすると40歳で死ぬ。平均的に60歳くらいで死ぬらしい。
わたしはそういうことを「縁起でもないから考えない」というタイプじゃなくて、すごく考えるタイプだ。

実際、躁鬱の波のたびに、自殺の衝動は高まる。薬を飲んでコントロールしているけれど、何かショックなことやライフイベントがあると調子を崩す。

学資保険に入ったことをきっかけに、若くして亡くなった人のことを考えてしまう。
胃がんになる前は死ぬと思ってなかっただろうと思う。まじめな人で、体も丈夫そうに見えた。
死の寸前に自分の葬式の手配までして亡くなったことが本当につらくて悲しい。
妻にそういう能力がなかったのだと彼は知っていたのだ。そこまでしても、死後もめたのだから。
彼の遺品は、時計しかなかった。私物を持つことを許されていなかったのだ。
なにもかもが本当に悲しい。

わたしの子が産まれる一方で、同じ時期に、亡くなった人がいること。
わたしは、彼の死を悼む余裕がなかった。そして、今、余裕ができたので、とても悲しい。
悲しみが押し寄せてくる。

わたしは死に接近しながら生きている。躁と鬱のはざまで、浮き上がるとき、沈んでいくとき、わたしは死に近づく。
ときどき、本当に死にたいと思う時があって、子供のことを考えると、止められるときもあるが、そもそも、子のためにこそ、死んだほうがいいと思ったり、このことを思う余裕もない時もある。強い衝動に引っ張られて何も考えられなくなる。吸引力があるのだ。真っ黒な穴なのか、まぶしい光なのか、とにかく、そんな渦の中に飛び込んでしまいたくなる。そういう病気なのだ。
わたしの意思や、感情とは関係なく、周期的に呼び寄せられる病なのだ。
なんとか、死なないように、生きていたい。
人の死の喪失に、悲しいと思いながら、自分の死を思うのは卑しい。それでも、考えてしまう。
悲しみを感じていなかったからと言って、悲しくなかったわけじゃないのだ。その余裕がなかっただけ。

二度と会えないんだな。心に生きているなんて言葉もあるが、若くして亡くなった人については、ただむなしく思う。
また会えると思っていた。
でも、もう会えない。


子供を撮るためカメラを買った。


ちょっといいカメラを買った。起動が早いこと、人肌がきれいに映ること、コンデジであることを条件に探した。
ミラーレスだと持ち歩きにくい。カメラマンに聞いたら、ズームがあったほうがいいということなので、これにした。
少し値が張るものにしたのは、使って気持ちがいい、という感覚的な部分は、お金を出さないと手に入らないからだ。
趣味を増やしたいという目論見がある。
どんな道具でも楽しめる人は、才能がある。わたしは、触って気持ちが良いものじゃないと、続かないだろうと思った。
生き物として、感覚的に、楽しいものが、わたしにとっていいもの。

趣味は、最初は楽しくない。うまくなり始めると楽しい。うまくなると、次にうまくなるまで苦しい。
だから、最初と、うまくなり始めが、楽に続くようにしたいと思った。
趣味は育てないと、趣味として定着しない。
さあ、趣味をやろう!と思っても、そんなときに、やりたいことは、まずない。
普段から、興味が全然なくても、やってみて、畑に種をまいておかないと、いざという時に育てることもできない。

子供というのはいい被写体なので、これを期にカメラと親しくなりたい。
自己表現の手段は多ければ多いほどいい。

わたしが好きなことを、増やさないと「お母さん」の記号に飲み込まれて、わたしが何をしたい人間なのか、消えてしまいそうだ。
わたしは、旅行が好き、手芸が好き、料理が好き、出かけるのが好き、ネイルが好き、化粧が好き、ファッションが好き。
教えることが好き。
家を片付け、工夫して、使いやすく、居心地よくレイアウトすることが好き。

わたしは、遠くに行きたくなる。どこかに帰りたいと思う。
帰りたいと願う場所が、今いる家でいられるように、いつも工夫したい。
変わらないわたしのまま、わたしを愛せるように、カメラを買った。


【毒親の子が親になった】にレビューが付いた

昨日からメンタルの調子が悪くて、しんどかったので、朝は掃除をしたり、体を動かしてみた。
そして、おととい出したキンドルの本のレビューが増えていたので見たら、的確なレビュー(残念だけど☆一つ)だった。
書いてあることはその通りで、わたしは、偏っており、攻撃的で、パートナーにモラハラ的なことをしてしまう人間だ。
確かに腹の子のことまでネタにしている。
全部その通り。

きれいごとっていう評はちょっとわからなかったな。
子供を黙らせたいと思ったこと、育てられないかもしれないと思ったこと、親に感謝しなくていいし会わなくてもいい、かわいそうなのは虐待されたわたしであって、孫に会えないのは親の自分でしたことの結果で自業自得という内容だから、一般的に言ってあまりきれいな内容でもなく、一般的な内容でもない気がする。

わたしがなぜ、自分のことを書くかというと、自分の経験したことを、整理しきれないので、外部化して、すっきりしたいから。
実際、本にしたことは、書いた直後は混乱して、具合が悪くなるけれど、一年くらいたつと、忘れてしまう。
わたしは、嫌なことがあると、いつまでも忘れることができないので、本を書くことで忘れることができると、とても助かる。
赤ちゃんのことを書くときには、プライバシーに配慮して、一般的なことしか書かないようにしている。
写真も出さない、生まれた日も公表していない。今のところ、性別の書いていない。

ただ、自分なりに、自分の攻撃性について考えることは多いのだけど、それは、先に攻撃されている(と感じている)ので、やり返す、ということが多い。
客観的にみて、わたしが攻撃されているかどうかよりも、わたしの感じたこととして、不当なことをされた場合、わたしは攻撃したり、怒ったりする。
わたしを面倒な人間だと思う人は、近寄らないでほしいと願っている。
わたしは生きることに精いっぱいで、それは誰でもそうだと思うけれど、だから、理解されないことも共感されないことも、どちらかというと、そっちのほうが多いことはわかっている。でも、生きる上で必要だから、本を書いている。
生きる上で必要じゃないことって、ないのだと思う。失敗も含めて。

昨夜は調子が悪くて、眠ることができなかった。体を動かして、調子が良くなって、それからレビューを読んだ。
とてもいいレビューだと思った。
よく読んでくれて、率直で、素晴らしいと思った。☆が一つなのは、ちょっと悲しいけれど、でも、よく読まないとあのレビューは書けない。感想を書くには、時間も心も使うから、素直にありがたいと思った。

レビューについて、あれこれ作者が言うのはどうなのか、わからない。
わたしも、パートナーへモラハラをするんじゃないか、しているんじゃないか、心配だから、よく、そのことについて話し合っている。だから、彼について、心配してくれていることもありがたいと思った。

わたしは、たぶん、偏った思考というのが目立つと思う。
わたしから見ると、いわゆる「普通」「偏ってない」という人こそが、偏って見えることも多いし、どうしてそうなるんだろう?と理解できないことも多い。距離があるということ。だから、その距離分、向こうから見たら、わたしは「おかしい」と感じると思う。

たぶん、あの☆一つの、良いレビューを書いた人には、わたしの文章を書くことへの衝動は理解できないのだろう。
恥をさらして、周りに迷惑をかけて、怒って、荒れて、病んで、それを公開しているんだから。
わたしだって、そう思うくらいだ。
わたしも、わたしのことが理解できない。そういうことはよくある。

わたしは、わたしの衝動も、戦い(戦いだと勝手に思っていること)も、なんでなんだろうな、とあきれることがある。
でも、それをしないと、もっと苦しくなる。
わたしの文章が下手で読みにくいのは申し訳ないと思った。混乱しているつもりはないけれど、あなたは混乱しているんだ、と言われたら、たぶんそれも当たっている。その通りだと思う。
ただ、わたしが混乱から覚めていたことは、人生においてなかった。
文章を書くことで、多少ましになる。

一応、わたし自身についてはともかく(そして、わたしが不当だと思うようなことをする相手に対する攻撃については除く)、周りについては、プライバシーなどを配慮していくつもりです。

たぶん、わたしのことが好きじゃないんだと思うのに、ダウンロードして、読んでくれて、感想を書いてくれて、ありがとうと思った。
この感想は、たぶん、いろいろな人の参考になるだろう。
読みにくく混乱した文章なのに読んでくれて。

今日は、晴れて、暖かい日で、赤ちゃんも、保育園に喜んで出かけて行った。
パートナーは少し元気がないので心配だ。わたしも風邪をひいているせいか、抑うつ状態だ。
でも、今日も一日頑張ろうと思えた。

わたしや、わたしの書く文章が、役に立つこともある。わたしの攻撃性は、わたしは悪いものだと思っていない。良いものだと思っている。考え方が偏っているのも認める。(偏っていない思考っていうのが存在するのかは疑問)
偏った考え方に、価値があると思うのがわたしのスタンスで、周りの人が「ユニークな考え方」をしているとうれしくなる。
わたしは、「偏っている」という言い方よりも、「ユニーク」という言い方を好むかもしれない。

フォロワーの人は、わたしのこと否定したら面倒だと思っているのかなあ。面倒だったら、フォローもしないだろうし、コメントもしないだろうし、いいねもしないと思う。
わたしはそう思うんだけど、それはフォロワーの人自身に聞いてみないとわからないから、なんで納得するのかはわからないなあと思った。
(ツイッターでは基本的には相互フォローです。)

制御できていない、偏りがある、というのも、「世界は広いからそういう人もいる」って思ってもらえたらいいなあ。
世界は広いから、わたしを見て「試行錯誤している、ユニークな考え方をしている」と捉える人もいる。
(わたしと接する人が全員嘘つきであるという仮定をしたらひっくり返ってしまうけど。そこまで考えるとちょっと足元が揺らいでしまう)

攻撃性が高いと思われるのは、たぶん、わたしが「しんどい」ので、「しんどい」ことと戦うと、それが人であれ世の中の仕組みであれ、具体的なものであれ、抽象的なものであれ、「変わってくれ」と願うので、それで攻撃性が高いと思われるんだろうなと思った。
実際、攻撃としか言いようのないことをしたこともあった。でも、わたしにも理由があった。
不当なことをされたと思ったから、攻撃した。
やり返さないと、心にダメージが残る。
死んじゃいそうだから。

心の中が、朝から、ごちゃごちゃしていたけど、このレビューはわたしにショックと納得を与えてくれた。いろいろな人の参考になると思う。わたしの参考にもなった。

☆四つのレビューを書いてくださった、二人の方も、本当にありがとう。
感想をもらうのは、とてもうれしい。肯定的な乾燥に対して、同じくらい長い文章をかければよかったんだけど、なんだか、そういう風にはならなかった。

反論のつもりはなくて、納得したけど、感じたことを書いたので、やっぱり、これも、攻撃や、反論に見えるのかもしれない。
どうも見えるのか、予測がついても、わたしはわたしの人生を生きていて、ほかの人もそうだよね。
あ、でも、やっぱり、反論あるな。
パートナーへモラハラしないか、わたしもいつも心配している。
聞いてみたら、モラハラされている実感はないと言っていた。
わたしが彼を「モラハラを感じることができないほど洗脳していたら」モラハラをされている実感がなくても、わたしがモラハラをしていると言える。だけど、たぶん、洗脳まではしていないから、彼の感じ方を尊重すると、モラハラはしていないんじゃないかなと思う。役割分担を我が家なりにしていて、不満はその時に話し合っている。

たくさん書いたけど、ありがとうという気持ち。
あおりとかじゃなくて、ほんとに。一生懸命書いてくれたんだなと思った。もちろん、しんどいはしんどいけど、受け止めます。

しんどいときの、わたしの対処方法は、「文章に気持ちを書く」ことなので、こういう風に書いてしまいます。
それは申し訳ないです。

今日はしんどいなあ。


電子書籍【毒親の子が親になった】無料キャンペーン


昨日から【毒親の子が親になった】という本を販売開始しました。
12月3日午後五時から4日午後五時まで、二十四時間の無料配布キャンペーンを行います。
ぜひ、ダウンロードをして、読んでください。
レビューや感想など頂けましたら、とてもうれしいです。また、アマゾンにレビューを投稿していただけると、ほかの人が読むかどうかの判断材料になるので、助かります。

虐待された人間が親になって、まだ三か月ですが、どのように考えているかを中心に書きました。
【内容紹介】
毒親に虐待された子供が、親になるときに、感じたことは、「こんな弱くてかわいい子供に、ひどいことをできるのはおかしい」ということでした。
出産する前よりも、強い気持ちで、親には絶対に会わないことを決意した理由は、虐待の連鎖を防ぎたいからです。
自分のことだけを考えるなら、いつか、自分の気持ちをわかってくれるかもしれないという淡い期待を断ち切れなかったけれど、自分に守るものができて、その期待を捨てようと思いました。

目次
毒親の子が親になった
虐待をしてしまうかもしれないわたしへ
親の喜び
 妊娠初期
 妊娠中期
 妊娠後期
 妊婦に対する男性からの嫌がらせや暴力
 周りの反応
 母親学級による出産にまつわる知識
 出産直前
 成長に対するさみしさ
 親の喜び
 男親のできること
 親には感謝しなくていい
あとがき
奥付


5chのヲチスレをちゃんと読んでみた

ネガティブなコメントがどうにも苦手です。
批判はもちろんされてしかるべきだと思うし、その批判に対して反論もします。
それとは別に、単に、わたしのことが気に入らないで悪口を言ってくる人がときどきいて、「なんでなのかなあ」と思うのです。
わたしは、ブログをやっているから、その人だって自分のブログで書けばいいと思ってしまうのです(それはわたしの都合ですけど)。
コメントで言われても同じだと言えば同じだけど、「自分はこういう意見を持っている、だから、この人のこの部分は気に入らない」というのには、自分のブログのほうがむいているんじゃないかなと思っています。

はてなブログで書いているときには、はてな女子スレッドというのがあって、直接リンクをされていたものだから、なんだろ?と思ってうっかり見に行ってしまったことがあります。

それで、気分が悪くなりました。

いろいろ調べて知ったのですが、いわゆるヲチ先の人が、スレッドを見るのは、「ヲチ先の人間が悪い」ということになっているらしく、それだけでバカにされるらしい。
そして、スレッドに反応すると「お返事した」といって、もっとバカにされるらしい、ということ。

スレッドを見たことを言ってはいけない、ましてや、スレッドを「晒し」すると、スレッドが燃える。
そういうことが分かりました。

だから、見ても、「見たことを気取らせてはいけない。気取らせると面倒なことになる」ということが暗黙の了解になっているようでした。
そして、変なことをすると「踊る」という風に言われるらしい。

よくわからないものは怖いので、一度とことん読んでみようと思って、ヲチスレばっかり読んでみました。
知らない人ばっかりです。

読んでいるうちに、だんだん興奮してきて、確かに、「この人はおかしい」と思うこともありました。
そして、「スレ住人」同士でも、喧嘩があったり、マウンティングがあったり、「スレ違い」と追い出されることもあったりするんだな、と。
空気の読み合いが激しい。ヲチ先の人をバカにするのだったら、どんなことにもケチをつける。
そして、当然、ヲチ先の人が、心を病んだり、体調を崩しても、責任はとらない(とれない)。
「読まなかったらよかったのに」「存在していることを言わなかったら、自分がヲチされるような人間だと知られることもなかったのに」という風に言われる。
どうも、ヲチされる人間だ、ということは、それだけで恥ずべき事、ということらしいのです。
で、ヲチしているのは恥ずかしい人間じゃないかというと、「ここにきている時点でブーメラン」(お前も見に来ている時点で同罪)という論理で、一応自分たちも恥ずかしい人間であるけれども、読みに来る欲求を抑えられないヲチ先の人のほうがもっとバカである、という無敵な理屈であるということがわかりました。
これは、理不尽すぎるなと思いました。
だから、5chのヲチスレでなるほど、と思えることは、実際にたくさんありました。でも、わたしはそのルール(言い返すことが最も見苦しいというルール)がどうしてもフェアだと思えないから、やっぱり、自分はブログに書いたり、SNSに書いたり、人格を一貫して保てるほうがいいなと思いました。

いろいろ腑に落ちる意見もあるし、SNSで書きにくいことを発散する場でもある。
自分の意見として、堂々と言うほどでもないけれど、誰かに言いたくなって書いた、というのもある。

でも、ヲチスレによるけれども、書き込みをする人間は案外少数なこと、原動力にはいろいろあるけれど、嫉妬、嫉み、不快感の吐露、のぞき見趣味、相手をコントロールしたいという欲望、そういうものを満たす場だということもわかりました。

(相談するスレッドや、情報交換するスレッドはきっと有益なんだと思います。身近な人にこそ、言えないことっていっぱいあるだろうし。ブログやSNSはまめじゃないとできないから、できない人の救済の場だということも思いました)

二十年ほど前、2chにさらされる、というのはたいへんな恐怖でした。
とにかく、アングラ、怖い、気持ち悪い、どろどろしている、というイメージでした。

でも、今はもっとカジュアルになり、高齢化もし、人間も減ったんだな、ということがわかりました。

一応、気が済んだので、もう、いいかな、という感じがしました。
自分のことに言及されていないタイミングで読めたので、あまり心が乱されないで、いろいろなことがわかってよかったです。

そして、ブログに直接コメントをする人は、人にもよるけど、正々堂々としている部分はあるから、そこは評価しないとな、と思いました。

過去の自分の反省点も見えて、ちょっと自分が変われたかなと思いました。
人からの見え方って、本当にどうしようもないから、距離を取るしかない、というのが、人に言われても腹に落ちませんでしたが、自分から、怖いものを見に行って、自分なりに理解できたので、腑に落ちました。

(でも、やっぱり頭に来たら、また見苦しい姿を見せてしまうんだろうな、とは思います。
腹が立って、ちゃんと怒るというのも、わたしにとっては大切なことではあるので、なかなかバランスがとりにくいですが)