受動型ASDのパートナーとの付き合い方

わたしのパートナーとは、はてなブログとツイッターで知り合いました。
Skypeで話しているうちに、彼からプロポーズされ、会って、初対面で同棲をし、不愉快なこともなく、話し合いが成立する、メリットがあることから、事実婚をしました。
事実婚にしたのは、別れる時の利便性です。籍を入れてしまうと、お金はいいから、とにかく逃げたい、というときでも、朝廷や裁判をしないといけないし、何年もかかるし、居場所を突き止められてしまうから、隠れていないといけないのです。
それがいやで、事実婚にしました。籍を入れるメリットは、共同財産の形成と、相続の利便性なので、それを日常的に解決していたら、問題ないです。

受動型とはいえ、パートナーは、人付き合いが下手ではないです。
コミュニケーション能力の塊のような営業の、わたしの上司のもとで、今、わたしの代わりにアルバイトに行ってもらっているのですが、無口で、内向的だが、正直で、意見があったらはっきり言う、裏表のない性格を気に入ってもらっているようです。
口がうまい人を警戒する人は一定数いるので、そういう人と相性がいいです。

会う前に、いろいろな取り決めをし、同棲しているときも、かなり話し合いました。
戸籍や収入の証明書も提示してもらいました。
また、引っ越してからも、もとの家をしばらく維持してもらい、いつでも出て行ってもらえる状況を作りました。
でも、事実婚をしてから、体を壊して、養ってもらうことになったので、結局、あのとき縁がなければ、わたしはどうなっていたんだろうと思います。

ネットから出あって結婚する人は、わたしの身の回りに多く、うまくいっている人がほとんどです。
戦中派の主治医も、ネットで赤い糸を見つけ、こっちに引っ越してもらえばいい、と言っていましたが、まさか実現するとは……。
ありのままの自分を知ってもらうためには、ブログで自己表現をしていたことが、よかったですね。
同じ価値観の人と出会えたわけですから。

ところで、彼は自己モニタリングが苦手で、体調の悪さや、感情の変化を自覚することが難しいです。
言いたいことがあっても、言わないで、自己完結してしまったり。
そこで、わたしが、彼の様子を見て、いろいろいうことになったり、質問したり、指示を出したりすることになります。
ちょっと、それが、かえって彼の負担になるのか心配ではあります。

彼は、同じ作業をすることが得意なので、ルーチンの家事をほとんどしてくれます。
その代わり、初めてすること、即興でやりくりすることは、やや苦手なようです。
だから、基本の家事を彼がやり、できるときや、必要な時、わたしがやるようになっています。

わたしは、積極奇異型だと思います。そのため、一見、社交的に見える瞬間もあると思うのですが、すぐ疲れたり、突拍子もないことをして、トラブルを招いたりもします。それに、内向的なことには変わりありません。
似ているところと、違うところがあり、ASDという部分で共通しているから、生活は円滑です。

わたしは、就職をしたのも、結婚をしようかと思ったのも、ずいぶん遅い時期でした。
そういうことが、必要なのかどうか、興味がなく、ぴんと来なかったのです。
流されることがないので、ほかの人が焦っていても、ぴんとこなかったですし。
それでも、思い立った時に、それぞれ獲得できたのは運がよかったなと思います。

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障害が嫌なんじゃない

障害について描かれた漫画を読んだ。

障害や精神疾患を持っている人を、自嘲とはいえ「失敗作」と言ったり、「メンヘラ」と言ったりしていたことが気になった。

そして、健全な家庭に育った人には、虐待された人は理解されないのだ、ということも気になった。読んでて嫌だった。読まなきゃいいんだけど、読んでしまった。

「お母さんになる人へ。あまり厳しくしないでほしい」というメッセージがあったが、これから母になるわたしにとって、やはり、嫌な気持ちになった。

わたしだけが子育てをするわけじゃない。父親にも責任がある。そのほか、子供にかかわるすべての人にも責任がある。

 

ADHDをメンヘラ、といったことに反発があったが、それはあまり問題ではない。

先天的だ、脳疾患だ、だから、メンヘラじゃない、という言い方は、精神疾患とは違うのだ、ということに対して、字義通りのことを求めているというよりも、「精神疾患ではない、精神病ではない」という差別意識を感じた。もちろん、悪意はないのだろうけれど。悪意がなければ差別ではない、というわけじゃないのだ。

 

 

わたしは、障害を持っていること自体は嫌じゃない。それに伴った不便さが嫌だ。

その不便さは、軽減することができる。社会的にかかわる人間を厳選し、支援を受けることで、かなりのストレスを減らせることができる。

わたしの持つ、主な病気である、双極性障害も、自閉スペクトラム症も、治らない。

だからといって、それが脳疾患だろうと、精神病であろうと、どうでもいい。精神病のほとんどが、脳の機能がうまくいっていないから起こるものだ。

 

わたしの家は、健康的な家庭ではなかった。でも、同じような境遇の人が理解してくれたわけじゃない。人による。余裕のある、健康的な家庭に育った人が、思いやりを示してくれたこともしばしばある。

個人的には、余裕のない人と人が不幸な話をしていても、わたしは笑うことができない。人による。

だから、きれいごとを言わないでおけば、同じ境遇の人にしか話せない、というのは、本当に個人的な話なんだと思う。それでいいのだ、もちろん、あの漫画は、個人的なことを、内輪のノリを正直に書いたものだろうから。

ただ、同じように、わたしも、あの漫画を読んで、どう思ったかを、書くことは許されるはずだ。

いやだったら読まなかったらいい、というのは、お互い様。

相手に伝える必要はない。

わたしは、障害が原因で不利益をこうむっている。でも、生きづらい、という言葉を忌避する。

わたしは、生きづらいといわれたくない。そんな、人をさげすむ言葉を自分に使いたくない。

わたしには、生きる上で、困難がある。それを乗り越える工夫をする。戦う。

そういう言葉遣いを選ぶ。

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アスペルガーには感情がないという誤解

ツイッターで、アスペルガーの人には感情がないから、人の気持ちを理解させることは酷でしょう、という内容のツイートを読んだ。
とんでもない誤解で、わたしは悲しくなった。
わたしは、アスペルガーの領域にはないから、厳密には当事者ではない。
でも、ASDではあるから、一応言っておきたい。もちろん、わたしのブログを読む人にはそんな誤解をしている人はそもそもいないだろうけれど。

わたしには、感情がある。怒りも、悲しみも、喜びも、楽しさもある。
心はある。動く。相手の気持ちもわかるつもりだ。ただ、それが正解かどうか、確かめるすべはないと思っている。だから、間違っているんじゃないかといつも不安だ。

相手の気持ちを読んでも、相手の気持ちの欲している通りの行動をとる必然性がないから、相手の要求には従わないことが多い。思い通りにならない。
相手が怒っているかなどの、ムードは理解できる。力関係もあるのだなと想像はできる。
でも、相手の思い通りの行動をとることはない。
それゆえ、結果的に、相手の気持ちがわからないと思われているのだろうと思う。

実際、人間が複数いたときの、力関係を読み切ることもできない。そして、言外の意味をとらえることもかなり難しい。
端的に言われないとわからない。言葉の裏を読み取れない。場面によって変わる意味が多い時には、かなり疲労する。
だから、わたしは、相手が言ったことを、こういう意味ですかと確認することが多い。そうやって、工夫をしている。

もう一つ、わたしは、自分が困っていることを把握したり自覚したりすることが苦手だ。
寒いな、と思っても、我慢するという感覚もなく、もう一枚服を着ようという発想が出ない。
生きることが難しいので、それが当たり前すぎるので、工夫をするという発想が出ない。
だから、困っていることを、解決するために、調べたり相談するという過程が存在しにくい。
よっぽど困ったら、困ったといえるけれど、たいていは、困っているという自覚がない。相当事態が悪化してから、ようやく、どうにかしないといけないのかもしれない、と思う程度だ。

だから、わたしのこうした行動を見て、困っているという感覚がない、寒さも感じないのかもしれない、と思う人がいるのだろうと思う。寒さは、たとえなのだけれど、反応しないから、感じない、感じないということは、心がないのだ、という風に解釈されがちなのだろうかと思う。

今は、早期発見、早期療育が主流だ。
わたしは、もちろん、大人になってから発見されたものなので、それがどれだけ有効なのかわからない。
ただ、最近、療育も、ほかの人たちとなじむことを目的とされているのならば、それがどれだけ、当事者を幸せにできるのか、その視点で考えると、早期発見が必要なのかどうか、疑問になってきた。

わたしは、発見が遅れたから、二次障害が起きた。いろいろつらい目にもあった。
避けられることのできた、悲しい出来事も多かった。だから、早期発見、早期療育を受けられる人がうらやましかった。
でも、今は、早期発見、早期療育ではなくても、いいんじゃないかと思っている。
生存バイアスかもしれないけれど、それもひっくるめて、わたしだし。
早期療育に追い詰められている人もいるようだから、それくらいなら、時間をおいてから、どうにか工夫を考えることでも遅くないと思う。
どんな人生でも、先回りされすぎると、生きている感覚を失いがちだ。
以前、発達障害の子供を持つ人が、それを認めるのがいやだ、と言っていた。
そのときは、発達障害を認めるのがなぜ嫌なのか、それは別に不幸なことじゃないのにと思った。
でも、今は、少し変わった。別に不幸なことじゃないと思う気持ちは変わらないけれど、認めにくい人がいるなら、その人のペースに合わせて、その人が認められるようになるまで待って、それからみんなが手伝えばいいんじゃないかと。早期療育が大切だからと、焦らせたり、認めないことが悪だと思うから、追い詰められる親御さんがいるのかもしれないと思うようになった。

発達障害でも、幸せになれる。
もちろん、わたしが思い描いた、未来に今いない。わたしの夢は叶わなかった。
でも、妥協した未来は、結構幸せだ。
できる範囲のことをしている、そういうことを、自分で受け入れられるようになるまで、苦しかった。今だって、苦しい。
起きなければよかったたくさんのことさえなければ、夢が叶ったかもしれないと何度も思う。ずっと思う。
でも、その苦しさと、今幸せであることは、両立する。

生徒を教えていると、能力よりも、人としての成熟が、その人の進路に深くかかわることを何度も教えられる。
能力があるはずなのに、伸びない生徒もいる。能力が人より劣っているはずなのに、できることが増えていく生徒もいる。
外から見たら、もともとの能力は見えない。できることで評価される。能力って何だろうと思わされる。
この子はできないと見放された子を何度も教えた。でも、学ぶことの楽しさを伝えると、自分で、人生を切り開ける子供のほうが多い。わたしは、手伝うことしかできないけれど、自分の意思で、人生を切り開いていく子供には頼もしさを感じる。

いろいろな偏見がある。偏見は、人の範囲を規定してしまう。チャレンジするための気力を奪う。

発達障害だから、能力に凸凹があるから、女の子だから、男の子だから、あれはできない、これはできない、というのではなくて、それぞれがしたいことを援助することが、幸せを導くはずだ。
だから、アスペルガーには感情がないなんて、言わないでほしい。
アスペルガーにも、発達障害にも、幸せはある。
どんな人にも幸せはある。

アスペルガーには、感情がないから、人の気持ちはわからない、というのは、偏見であり、誤解だ。
そういった誤解が、いろいろな人を、当事者だけでなく、それに関わる人を苦しめる。
その偏見を先に摂取してしまった人は、発達障害を認めることが難しくなるだろう。
人の助けを借りてはいけない、ということも、難しくなるだろう。

人が自分の能力を花開かせるためには、偏見や、抑圧から、差別からも、解き放たれている必要がある。
小さな、一つの誤解を減らすことで、人の可能性が増えていく。

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同じ自閉症傾向でも特性が違う

六帖さんとわたしは、同じASDでも、特性が違う。
わたしは、比較的誰とでも話ができるが、六帖さんは、知っている人としか話せない。
昔わたしは、初対面とは仲良くできるけれど、継続的な人には、不安定な波を隠すことができず、付き合うことが難しかった。六帖さんには気分の波は少ない。

片付けも、わたしは、実家が、片付けをしない家だったので、片付けの仕方が分からなかった。物の場所を決める、という基本的なことが理解できなかったのだ。
本を読むのが得意なのだから読んで勉強しろと父親に言われたけれど、そういう問題じゃなくて、実際に見ないと理解できない部分が多い。あいまいな指示が理解できないのだ。実際に見ると、具体的も具体的だから、理解できる。

ヘルパーさんに教わって、片付け方の基本を教わった。動線を考えること、よく使うものは手前に入れること、奥のものも出しやすくすること。だから、わたしの家の台所のシンク下は複数のヘルパーさんが使うので、非常に使いやすい。どこに何があるのか、一目でわかる。

お玉やフライ返し、軽い鍋は、壁につるしてある。取り出しやすいし清潔だ。
洗ったお皿は、ちゃんと引き出しにしまう。引き出しの中も場所を決めておく。誰でも、すぐしまえるようになっている。
調味料も調味料入れにしまっている。ジャンル別にしている。

服や雑貨、押入れの収納の仕方も教わった。
わたしは、奥行きのある引き出しを使うと、手前にあるものを使うだけになってしまうことや、たたむことが致命的に苦手なので、深さのあるバケツを収納にしている。奥にあるものを出しやすいように、車輪のついている板の上に載せている。

六帖さんは、服を畳むことができる。でも、深さがあるバケツに入れると、下のものを認識できないので、上になるものばかりを使う。
だから、六帖さんには、奥行きがあって、浅い引き出しが良い。

わたしは、片付けの配置を考えることができる。
でも、毎回同じ場所に入れることが、感情の波の低い時にはできなくなる。それでいて、部屋が散らかると、混乱して、パニックが起きる。
六帖さんは物の配置を考えることが苦手だ。何か新しいことを思いつくことがあまり得意じゃない。その代わりに、継続して何かすることや、こつこつすることが苦にならない。

だから、六帖さんは、洗濯物を畳んで、決められた場所に入れることができる。新しいものが増えなければ、家を散らかさないで済む。
でも、新しいものが増えたとき、わたしと六帖さんが同時にダウンすると、部屋がとても散らかってしまう。

わたしは掃除機の音が苦手なので、ヘルパーさんに頼んでやってもらう。
妊娠してから、寝たきりだったので、手伝うことができなかったのだけど、今日は一緒に片付けができた。

話しながらできるので、とても、気分転換になる。

手伝うと、身体介護になるので、点数は家事援助よりも高い。何もしなければ、家事援助になるから、点数が低い。
でも、わたしは、自分でできることを増やしたい、というのが目標なので(介護には目標が設定される)、できるだけ手伝う。

料理は、以前は、気力がなかったため、大鍋でスープを作って、何日も食べていたけれど、六帖さんが来てから、毎食ごとにご飯を炊いて、一品だけのことも多いけれど、毎回作るようになった。
だから、食生活が安定した。

六帖さんは、毎日同じことをすることが得意で、わたしは飽きっぽい。飽きっぽいのに変化には弱い。
変化に弱いのは、六帖さんも同じだけど、微妙に違う。

わたしは同時に何かすることができるけれど、六帖さんは疲れてくると何をしたらいいのかわからなくなって、フリーズする。それは、わたしにも起こるけれど。

わたしには感覚花瓶が、音と光、PTSDで男の人の大声が怖い、というのがあるけれど、六帖さんにはあまりない様だ。
二人とも共通して苦手なのは、困っているのに、自分が困っていることが理解できない、というところだ。

でも、二人で暮らして、とても楽しい。

今日は調子が良かったので、一時間ほどレザークラフトをした。オレンジ色のペンケースを作って、六帖さんに上げた。

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精神疾患は、精神的に未熟だからではない

しばしば誤解されることだが、精神疾患や、精神障害を持っている人は、精神的に未熟だと考えられ、説教の対象になりやすい。
しかし、もちろん、脳の機能や、心の働きが、「普通の人」と違うだけのことだから、説教だけでうまくいかない。

わたしは同じ自閉症スペクトラムの人と一緒に住んでいるから、家の中で困ることはない。
「普通」の人が、自閉症スペクトラムの集団の中で暮らしたら、きっと支援を必要とするだろう。
わたしたちにできて、「普通の人」にできないことは確かにあるからだ。

わたしは発達障害だけでなく、精神疾患もたくさん持っている。自分でも、病名を全部把握してないくらいだ。それでも、投薬には問題ない。
投薬は、困りごとに対して、行われるからだ。病名に対して、それぞれ投薬するわけじゃないのだ。

薬を減らしてから、生活の質が非常に下がった。身体的に問題が出やすくなった。それも、精神疾患に対する頓服を飲むことでずいぶん解決した。薬は生活の質を上げる。

体の病気でも、病気の人に、その人が未熟だから病気になったのだという論法を使う人がいる。
でも、それはほとんど運の問題だから、精神的に未熟だから、病気になるわけじゃないという当たり前の事実が、わからない人がどうやらいるらしい。

精神疾患になるのには、いろいろな要因がある。だから、心の持ちようだけではもちろん解決しない。考え方の癖が一因になる場合ももちろんあるけれど、一度精神疾患になってしまったら、その「心の持ちよう」という機能が壊れてしまっているから、アドバイスではどうしようもない。心の持ちようが、邪魔されている状態だからだ。

わたしはその外に出るたび、普通の人のようにふるまう。それには、たいへんな無理をしている。
出かける前にも、精神的に自分を追い詰めるし、外に出ても、ずっと演技をしているように、気分を無理やりあげている。その反動は帰ってから出る。何日も寝込むことがある。エネルギーの前借をしているようなものだ。

わたしの脳が壊れてしまった理由は、いくつかの環境要因と、わたしの遺伝的素因がかかわりあって、交じり合っている。もちろん、成育歴も大きい。これらは、すべてわたしの責任とは言えない。運の要素が大きい。

「普通の人」とひとくくりにしても、実際にはいろいろな人がいるように、精神疾患を持った人にもいろいろな人がいる。
精神疾患を持った、わたし自身の経験は、わたししかしていない。「普通の人」の経験をわたしができないように、「精神疾患であるわたし」の経験は、ほかの人にはできない。
だから、わたしに有効なアドバイスをすることは、普通の人には難しい。

専門家でも誤診する。わたしも誤診されていた。だから、医者じゃない人が、わたしを診断することは不可能だ。
でも、医者じゃない人が、わたしにいろいろな病気を押し付けてきたことがある。それらはすべて当てはまらなかった。
しかし、それをされたことで、わたしはとても損なわれた。

安易に診断をつけることは害だ。

病気の名前がつく前も、わたしは困っていた。でも、そのとき助けてくれる人は少なかった。もちろん、少しでもいてくれたことは助かるのだけど。
病気の名前がついたあと、わたしはやっぱり困っていた。自分で、支援を求めたが、それも反対された。肉親に。別に助けてくれるわけでもないのに、自分で何とかしろと言われた。精神疾患なんて、そんなに大変じゃないのだから自分の力でやれと。

診断がつく前もついた後も、わたしは同じ人間で、同じ問題で困っていた。でも、今は病名を言えば、錦の旗みたいに、人に話が通じる。

わたしが思うに、単純に、困っている人をお互い助け合えばいいのにと思う。
わたしが助けられることもある。助けることができることもある。
何が起こるかわからない。
ずっと順調な人生はない。人はいつか老いて病んで死ぬ。
それは、人間的に成長すれば解決することでもない。人間的に未熟だから、それが起きるわけじゃない。
その当たり前のことを知ってほしいと思う。

知って、どうすればいいのかは、各自の余裕について、その人自身しかわからないことなので、その人自身で判断してほしい。

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社会問題を知ってほしいといわれるだけで反発する人たち

社会問題を提起したり、知ってほしいと運動しただけで、反発する人がいる。
溝を深めるとか、どうしてほしいのか言わないと意味がないとか、共感してほしいだけなのかとか。
個人的には共感は大事なことだと思うけれど、最後のことを言う人は、共感するだけでは物事は解決しないから意味がない、論理的に提示せよ、という割には、普段共感ベースで行動しているのだろうなと思う。
共感しないで行動すれば、相手の要求を飲むか飲まないかの判断になるだけだからだ。知ってほしいというのならば、じゃあ、知っておくか、それとも今は知りたくないから知らないでおくか、くらいの反応だけでいいはずで、反発まではする理由がない。

わたしは、そのまま鵜呑みにする。ああ、知ってほしいのだなと思ったら、知るようにしている。
その後、どう行動するかは、わたしの判断にゆだねられていると思うからだ。
要求を提示していないというけれど、知ってほしいという提示は、明確なのに、どうして、そんなことを言うのかよくわからない。責められていると思い込んで、防御しているだけのように見える。

生理痛について知ってほしい、というと、そういう風に男女の溝を深めてどうするのか、知ったからといって何もできない、知りようがないことを理解してほしいといわれても困る、と言いう反応をよく目にする。
別に、相手が知ってほしい、と言っているのだから、そういっているんだな、と思う程度に受け止めればいいのにと思う。
だって、要求はそれだけだから。
それ以上のことをするかどうかは、自分にゆだねられている、尊重されていると捉えられないのはなぜなのか。

相手に指示されることを待ち続けていたらそうなってしまうのだろうか。

個人的には、困っている人がいたら、助ける余力があった場合、助けるのは当たり前だと思う。それが社会の役割だからだ。

今週は発達障害について知ってもらう週間だ。
でも、それにも反発する人がいる。知りたくないなら知らなくてもいい。でも、こちらは知ってほしい。
知ってもらうことで、すそ野が増える。その中に走るだけじゃなくて、どう対応すればいいのか、知りたいと思ってくれる人もいるだろう。
でも、そういう障害があることを知らなかったら、そういうことを知りたいと思い立ってくれる人も見込めないわけだから、意味がないとは思わない。

知ってほしい、といった時には、知ってほしいと思っているだけだ。
その後、支援をしてくれるのならば助かる。知ったら、何か考えてくれることも期待はしている。でも、知ってほしい、それがまず最初だ。問題がそこにあると誰も知らなかったら、どうすることもできないからだ。

知ってほしいといわれたときに、反発する人は、共感を主にして行動することが多いのだろう。だから、無理やり何かを要求されたと感じてしまうのだろう。
知ってほしいということも、もちろん要求には違いないが、何かしてほしいというよりも以前にただ知ってほしいという気持ちがある。
言外の言葉を読みすぎるのは、いわゆる「普通」の人に見られがちな行動だけれど、一度、言葉だけのことをそのまま受け取ってもらえないかと思う。

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洗脳されやすいという特性

わたしと六帖さんは、ともにDVに遭ったことがある。
DVに遭ったことがない人は、わからないこともあるだろう。
どうして、暴力や暴言から逃げないのか?

それは、言動を縛り、行動を縛り、交友関係を遮断することによって、洗脳する過程があるからです。

相手のために、自分を譲る、そうすることでいつか事態が好転することを期待していくうちに、逃げられない状況を作られます。

子供を作ること、籍を入れること、そうすることで相手を縛れる。籍を入れてしまうと、身一つで逃げさえすれば、それで終わりということがなくなる。
六帖さんも、わたしも、籍を入れるのが異常に早かった。お互いの両親に会わずに籍を入れたことも共通している。籍を入れる時点で、六帖さんも、わたしも、軟禁状態に置かれていた。
軟禁状態に置かれていても、支配者と同伴で外出はできるから、軟禁されていることにも気づかない。
また、六帖さんもわたしも、服用していた薬を管理され、いきなり断薬されたり、処方外の薬を無理やり飲まされたりしている。
わたしの場合、たとえば、体の不調を感じて、吐き気や腹痛、頭痛があったときに、精神安定剤を飲むと、体が動くようになる。これは最近発見したことだ。体が弱いから寝込むしかないのだとあきらめていたけれど、精神安定剤を飲むことで、活動時間が増えた。

また、娯楽や趣味を制限される。楽しみを奪われる。そうすると、思考能力がなくなる。食べるものも、極端に制限される。それも、六帖さんも、わたしも経験した。
支配者は、今でもわたしにDVを振るったことを認めない。それどころか、ネットで、DV加害の冤罪者を名乗っている。
様々な証拠があり、裁判でも認められても、それなのだ。
事実を彼らはゆがめることができる。自分に都合の悪い事実を、認識しないで済ませることもできる。
わたしの場合は、加害者から逃げて五年たつが、その間に、脅迫状を送られたり、警察に堕胎罪で訴えられたりした。
もちろん、堕胎罪の適応外だから、立件されようもないのだが、それでも、事情を何度も聞かれて書類にした。
相手は、わたしを殺人しかけたのだが。

わたしたち自閉症スペクトラムの傾向があるものは、人の言葉を信じる。裏を読めない。言葉通りに聞いてしまう。意外と空気は読める。ただ、どう対応していいのかわからない。
わたしの場合は、相手が泣いて暴れたり、床に転がって足をばたつかせたり、六法全書を投げつけたりしたり、性暴力の結果、二回、入院することになったりした。どう対応すればよかったのか?
わたしには、それまで、そのような行動をとる、男性に対する対処方法がストックになかった。
初めて見る奇行に凍り付き、思考は止まった。

わたしの場合、知識もあった。DVについてかなり書籍を読んでいた。でも、自分が支配関係に巻き込まれたとき、自分がそうだと認めることは非常に難しかった。
そのころには、相手がわたしの貯金で暮らしていたので、わたしが逃げたら相手が死ぬかもしれない、自分の体に身ごもっている子供はどうすればいいのか、ということで、身動きが取れなくなっていた。相手は、わたしの名義でクレジットカードをいくつも申し込み、毎月の支払いが二十万、三十万になっていた。
恐ろしいことに、楽天カードは、解約しても、しばらく使える。逃げてから、六万円の支払いをした時には涙が出た。
悪いことに、ニコニコ動画のプレミアム会員登録をしており、それは本人でしか解約できないものだから、逃亡の身では、どうすることもできず、楽天カードから引き落とされるので、逃げてから一年くらい払った。窓口もなく、電話も代表先しかなかったので、電話しても取り合ってもらえなかった。弁護士に頼んでも一か月かかった。

インターネット上に、リベンジポルノや、わたしに対する誹謗中傷が続いた。
弁護士に依頼して消すことはできるが、延々と続くのに、追いかけられず、あきらめるしかなかった。
沈黙をしていても、相手は、わたしが加害者に対して、誹謗中傷を続けていたと、今もインターネット上に書き続ける。
裁判で、わたしに対して、一切の接触も、一切の言及も書かないとお互いに約束したのに、その次の日には、破られた。
相手が無一文の場合、こちらができることは何もない。
罰金を払わせようにも、払うものがないからだ。

失ったものは、お金だけではなく、信用もだった。会社に乗り込まれたので、辞めざるを得なくなった。
逃げても逃げても、追ってこられる。殺されるという恐怖や、恥辱、自分を責める気持ちで、毎日パニック状態だった。
そんなときでも「どうしてついていったのか」「どうして騙されたのか」「もっと早く逃げればよかった」「セックスが良かったのか?」などという人ばかりだった。
そういう人たちしか残っていなくても、頼るしかないので、一生懸命返答したが、納得してもらえることはなかった。

支配、被支配の関係は、理解されることはないのだと思った。

それも、以前本を読んだとおりだった。

発達障害者の難しさは、単に、能力の凹凸だけではない。社会的に、「配慮」される中で、もちろん、成長していったり、ゆっくりと苦手を克服することもできる。

でも、弱っているときに、周りの人から引き離されて、洗脳されてしまったら?

そういう状況にわたしたちは一番弱い。
一対一で相手の言葉を鵜呑みするしかなくなる。
反論を試みても、すべて無効化されてしまう。そういう相手なら、逃げればいい、という発想が思いつかない。
逃げてもっとひどいことになるかもしれない、逃げないで耐えれば、いつか相手もまともになるかもしれない、という夢を見る。
そうしていないと、地獄に耐えられないのだ。

DVを受けて離婚したことを恥ずかしいことだという人は、現実にいる。
実際に言われたことがある。
騙されたほうが悪い、暴力を振るわれたほうが悪い、そういう人は現実にいる。

わたしは、いまだに、読書やテレビを見ることができない。音楽も聞くことができない。
パニックで一晩泣き明かすこともある。
趣味も手放した。
中身のない人間だと自己嫌悪に陥って、身動きが取れなくなる。

六帖さんの場合は、男性だったせいで、自分が逃げるべきなのだ、という発想を持つことが難しかった。
わたしの場合は、相手が働かない、わたしの金で生活しようとする、致死量の薬を飲ませる、そういうことがおかしいというのがわかりやすかった。
でも、六帖さんの場合は、妻が働かないことも普通だし、家事をしていれば、実際に何にお金を使っていようが、見過ごされやすいし、子供に対する扱いも、ホームスクーリングをしているといえば、周りは何も言えなくなる。
女性が、DVを振るった場合、言葉にしても、それは「普通」に見えやすい。また、六帖さんの場合、同性の友人に相談しても、男性の中でDVに知識のある人が少ない。
そういうこともいろいろと問題を長引かせた。

知識があっても、DV被害者になることは避けられない。その後、ケアされることも難しい。
わたしの場合は、かかりつけの主治医が、DVやパニック障害に詳しい病院を知っていたから、すぐに入院できたものの、たいていはそういう幸運に恵まれないだろう。

発達障害は、対人関係の障害でもある。
恋愛や、結婚という、密室の関係に踏み込んだ時、わたしたちは、一人で歩まなくてはならなかった。
大人になってからの支援は、とても難しい。支援につながっていることも難しい。

わたしは、疑問を持てない。困っていることに気づけない。
だから、助けを求められない。
被害に対する認識を持てない。それを「受け止める」ことになれている。
自閉症スペクトラムの人間として生きるということは、理解不能な世の中に対して、何もかも鵜呑みにしていく、という生存戦略を取らざるを得ないということだ。
わたしの常識は世の中の常識ではない、ということを早々に学んでしまったせいで、自分の違和感を封じ込めやすい。
相手が正しいと思う癖がつきすぎている。
だから、疑問を持てない。

反対に、加害者になることもあるだろう。
そういったときに、相談しようにも、何が問題なのか、そもそも問題が起こっているかどうかすら、疑問を持てないわたしのような特性の持ち主は、どうしていったらいいのか、今も試行錯誤でいる。
これは、知性や、知識の問題ではないのだ。
人とのかかわりの障害なのだ。

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双極性障害と進学

進学には苦労した。
体が病弱だからだ。普通の人と使える時間が違う。
だから、短い時間で、勉強をするしかなかった。

成績優秀だったとわたしは言うが、発達障害や双極性障害、そのほかに、二次障害のため体の病気も多く、高校は、出席を免除されてようやく卒業したような状態だ。

健康だったらなんてこともないかっただろうが、椅子に座っていること時代できなかった。勉強をできない時期が、三年以上続いた。その中で、できることを必死で探した自分を肯定したいと思う。
自信の根拠は正直言ってない。ただ、自分自身を正当に評価したいと思う。それは、わたしが双極性障害持っているため、気分次第で、自分を最低だとも最高だと思うからだ。その気分は障害ゆえに、制御できない。だから、よりどころになるものを、恣意的に作り上げた。気分次第で自分の評価が変わると、体が物理的に動かなくなる事態を招く。そのための工夫だ。

そういうことにしておく。
そういう態度をとる。決めたから実行している。

実際に自信があるかどうかは問題ではない。ただ、そうするしかない。生きられない。

わたしは運よく、優れた教育を受けることができた。それには、だいぶ努力もした。
信州大学の時には、まったく意味が分からない授業が多く、講師に、夜十時まで質問に突き合わせてしまったことがたびたびある。
そうしたことが、週に三回以上あった。それほど勉強しなくてはついていけなかった。

学資を二つ取るのは簡単なことではない。
しかも、社会的には全く評価されない。とくに就職では。
学資を持つということが専門性を持つことだと理解されにくい。
大学で得た知識の質は、人それぞれ違うのに、一からげに扱われる。
だとしたら、評価するのは自分自身でしかない。

どうしたら自信を持てるのか。そんなことはわからない。
わたしは日常的に、ほとんど自虐的に、ネガティブに過ごしている。そのままだと死を選びそうだ。
死ぬのは簡単ではない。
だから、消去的に、事実として、誇っていいことを、自分自身に無理にでも認識させている。

双極性障害の苦しさは理解されにくい。
身体障害を持つ父に、そんな障害でうらやましいといわれた。そう思っている人は多いだろう。
精神病は、身体障碍に比べてずっとましだと。

わたしを理解する人は少ない。
わたしを守れるのはわたしだけだ。
だから、自信を持てるところは持とうと努力している。自信を持つにも、覚悟と努力がいる。それを惜しまないだけだ。惜しむほどの余力がない。

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わたしたちの子供が自閉症でなかったら

六帖さんが家に来て、一年がたった。
彼の実家で、ご両親に会った。
会う前は熱や蕁麻疹が出て、行くのをやめようと彼は言ってくれたけれど、なんとか会いに行った。

彼には両親との記憶があまりないらしい。だから、どういう人なのか、全然わからなかったけれど、ご両親の話を聞いたら、どんな子供時代だったのか少しわかった。
家の事情で苦労したお母さん、ハンサムなお父さんは、仕事を妻の家の事情に振り回されながらも受け入れて、飄々としていた。
遺伝子とは不思議なもので、六帖さんと親御さんはとても良く似ていた。美男美女のカップルに生まれた子供なのに、六帖さんはハンサムとは言えないのが、不思議だとからかった。

彼と知り合い、一年の間に、わたしは身ごもった。経過は順調で、ようやくベビー用品を調べ始めた。
予期せぬ出費が多く、驚くことが多い。子供に拘束される人生が始まる。不安がある。
子育て経験者は、「しょうがない」という。「海外に出ていきたいという気持ちがないわけじゃないけれど、寿命もある。公開がない人生だったとは言えないけれど、たくさんの後悔の中に埋もれている」という。
「つらいことも多いけど、発見も多いよ」という。子育ての話は夫婦仲が円満な、子煩悩の父がいる家の人に聞かないと、悲観的な気持ちになることを知った。
どんな時代でも、子育てをする父は、するし、しない人はしないのだ。
夫が子育てをしていた家庭の妻は、子育てを楽しいものだと語る。自分の人生を犠牲にした一面と同時に、豊かになる一面を語る。これはきれいごとじゃなく、そう。
子供を早く持った人たちは、もう、子供から手を放して、自分の人生をもう一度生き始めている。
そのタイミングで、わたしは、子供を育て始める。
いつ、産めばよかったのかと今更思うけれど、今のタイミングしかなかった。

わたしたちは、自閉症カップルだから、生まれる子供も自閉症のつもりで話していた。
運動をさせよう、集団の強要はさせないようにして、でも、慣れるような機会は与えよう、体の使い方がとにかく苦手なはずだから、アウトドアもしよう、など。

わたしたちは、自閉症の人の気持ちの流れはなんとなくわかるけれど、定型の人の気持ちはわかりにくい。わかるつもりでも、本当にはわからない。もちろん自閉症同士でもわかるとはいえないのだけれど。
定型の人が人の気持ちがわかる人、というとき、本当のところを答え合わせするわけにはいかないのに、どうして、わかるといえるのか、そこが疑問に思うわたしだ。

わたしたちの不安は、子供が、自閉症ではなかったらどうしよう、ということだ。
わたしたちは、自閉症の世界で生きているから、定型の子が生まれたら「異質」と感じる可能性がある。
彼、彼女が必要としている感情的なコミュニケートを与えられるか、難しい。
その場合は、定型の人の力をより借りるように、注力しないといけないだろう。わたしたちにはないものは、与えることができないから。

自閉症が暮らしにくいのは、世の中に自閉症の人間が十分の一しかいないからだ。
わたしたちの家庭ではそれが逆転する。
わたしたちの家庭で、定型発達の子が生まれたら、少数派になるわけだ。理解者になる努力は、どちらにしてもするものの、難易度が上がる気はしている。自分の経験から、類推することが難しいからだ。

自閉症の療育は、社会に混ざるために、自分を変えることを要請される。
そう理解している。
人数が逆転していたら、療育は必要がない。
療育で自閉症は治らない。社会のルールを理解することで、ふるまい方を覚えられる。そうして、二次障害を防ぐものだと理解している。
だから、療育を焦る必要はないと思っている。もちろん低年齢の時にすれば、それだけ二次障害を防ぎやすくはなるだろうが、そのことで、親が負担に感じるのだったら、遅らせて構わないものだと思っている。

遺伝子を混ぜ合わせても、出来上がった子供は他人だから、わたしと特徴が似ている部分があっても、理解不能な部分も多いだろう。自閉症だったら、わかることも多いかもしれない。だから、心のどこかで、自閉症であることを望んでいた。でも、もちろん、そうじゃない可能性もある。
そうじゃなかったとき、わたしは、どれだけのことができるだろう。

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ギフテッドであろうとなかろうと生きにくい発達障害

あれから約1年、50円東大生と発達障害の数学少年が再会しました。
この記事のブコメに才能があることについて、嫉妬している発達障碍者の人がいた。
結構しんどい話やなーと思う。

わたし自身は、ギフテッドかどうか知らないけれど、小学三年生のころには、古典を読んでいた。清少納言や、紫式部。ひらがなで書いてあったから読めたのだ。下に注釈があったし。翻訳されたものならシェイクスピアや、海外の昔話、童話やその類似性を分析した本を読んでいた。
株や法律、保険金、そういったものの本も読んでいた。小学生の時には一日に一、二冊、休日には五冊から十冊読んでいた。
だから、国語は得意だった。国語が得意だとほかの科目もできる。特に社会は雑学を知っていればある程度できる。
高校受験の時には、答え方を覚えていないとできないから勉強は必要だった。

でも、わたしは二次障害で体を壊し、学校に行けなくなった。

適応できなかった。

目につく才能だったから、ほめられることも多かったけれど、謗られることも多く、仲間外れや、いじめも受けた。
何足靴を買い替えたかわからない。片方の靴を隠されて見つけられても、もう片方は燃やされていた。一緒に探すふりをした子が犯人だった。その子は、泣いて、もういいから帰る、といったわたしを、見つかるまで探そうよ、と言いながら、わたしの反応を見るために最後まで残っていた。

わたしは社会性がなく、うまくいかないことがあると、教室の中で机を放り投げて暴れたこともあった。筆箱をおもちゃにされて、投げた男の子をナイフをもって追いかけた。教師に、ナイフをもって追いかけたことを怒られた。ランドセルをぼこぼこに踏まれて、家に帰ったら物を大事にしないと怒られた。そういうことに、納得がいかなかった。

中学時代の時は体がしんどくてたまらなかった。勉強だけしていればいいと許してもらえれば楽だった。
満点でも許してもらえない親の元で、勉強をする時間を求められて、いつもドアを開けることを命令され、ランダムに見張られては怒鳴られる家庭で、落ち着いていられる時間もなかった。

学校でも家でも、居場所がなくて、いつも死ぬ場所を探していた。

多少優れた点があっても、社会とうまくいかなかったら、生きていくのはつらいことだ。
社会とうまくいっていても、やっぱりつらいものはつらいだろう。社会とうまくいっているから、かえってつらいこともあるだろう。

わたしの躁うつ病は二次障害なんじゃないかなと思っている。

働き始めてからもいろいろと困難はあった。働くということがあまりよくわからなくて躓くこともあった。
幸い、勉強が得意だということを生かして、塾の仕事につけたからよかったけれど、働きやすい業界かというと、そういうわけでもない。
今は、パートナーに養ってもらったり、生活の面で補ってもらっているから、ずいぶん楽になったとはいえ、彼もわたしと同じ発達障害だ。
彼もやはり、勉強が得意だったものの、成人後は、かなりの地獄を見ている。

わたしたちにあるものが才能と呼べるほどのものかはわからない。多少優れている点はある。そこを隠しても、謙遜だと思われることはなく、むしろ、悪いように取られるので、わたしは優れている点がある、ということにしている。どちらにしても、憎まれる。優れた点や変わった点があると、それをもっているだけで、憎まれる。隠すことはできない。隠しても、それはそれで憎まれる。

他人からどう見られるのかを多少想像することはできても、たとえば、嫉妬の概念のない私には、うらやましいところまでは理解できても、嫉妬ということの全容は理解できない。できないものに対策はできない。わたしにない感情は、わたしには理解できない。
そういうところで、衝突はよくある。

自分を隠せば隠すほど、もっと難しくなる。かといってむき出しのままでも難しい。どちらにしても難しい。正直でいることのほうが、単純だから対処しやすい、というだけで、自分を隠さないでいる。でも、やっぱり、いろいろな人がいるから、絶対の正解とは言えない。

正解を探してしまうのが、わたしの特徴でもあるけれど。

適応しようとして、適応障害になったこともあった。体が動かせなくなった。過呼吸もひどかった。

才能だけを見る。そうすると、きっと羨ましい。才能がない。そう思えば、自分には何にもないと感じる。
わたしは、自分の才能を、「なんの役にも立たない。お金にならない。社会では役に立たない。価値がない。そんなものは才能とは言えない」と言われたことがある。わたしはその人の言うことを聞いてしまい、時間を無駄にした。
才能があると目立つ。目立つとつぶされる。
才能がなくて、何もないと嘆くこともある。自分のできることに何の価値も感じられなくなると、自分にはどんな意味での才能もないのだと、思い、心細くなる。わたしは何もなさないで、何もせず、死ぬのかと思うと、さみしくなる。

何を才能と呼ぶのか、評価する人がいてこそ才能だと認識できるのだと思うけれど、もし、才能があったとしても、生きていくことは難しい。
才能がないとしても、生きていくのは難しい。
才能があるといわれてたけれど、期待ゆえに、ゴムを引っ張り続けると、ちぎれるように、ちぎれてしまったわたしも、やっぱりいる。
何もかももなくして、わたしには、才能どころか能力もない、価値もないと、泣いているわたしもいる。

どちらも楽じゃない。
両方のわたしがいる。

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