「生きる」と「怒る」

生きているという「感じ」がするのはどういうときかというと、怒っているときだ。

怒るとパワーがわく。生きるためのパワーだ。

会社を辞めたときも、「パワハラに遭ったので病気になりました」というんじゃなくて、「パワハラだ、それは不法行為だ」と相手を責めるべきだと主治医に言われた。

回復が全然違う。

病気になったほうが悪いと付け込まれる余地を残すな、パワハラをした相手が悪い、その結果損失を受けたと主張するべきだと言われた。だから、後者の言い方をして、自分でそう言う認識をすべきだと。そう主張すると自分もそう納得する。自分が悪いのではないと。

病気になったからやめますだと、自分が悪いみたいに認識してしまうから、体に良くない。

 

怒っているときは自分の輪郭がクリアになっている。
それに依存しすぎると、怒っているばっかりの人になったり、怒るための出来事を探すようになったり、怒ることで人に認められたいと思うようになったりする。
でも、そうじゃなくて、生きるためのネガティブな感情を個人的に大事にするってこと。
というのは、今日いくつかの記事を読んだから。

 

怒るっていうのは、自分のセンサーが働いているってこと。それをなかったことにすると、自分を守れなくなる。

怒っていることを認識するって、それは、生きるために戦ってるってこと。


ゲリラ的人生

ゲリラ的人生は、くたびれはてこさんの過酷な人生が描かれている。

逃げるという言葉を書いていて、事実その通りなんだけど、わたしの言葉だとこれは「戦い」って言い方になる。

嫌なことがあって、ここにいたら生きていけない、という気持ちにふたをしないで、行動してるから。

わたしは、同じ年の時、こんなにも勇敢な人間じゃなかった。

機嫌よくいると、自分以外の人にとって都合がいい。でも、自分の都合が悪い。

昔、元カレに「いつも笑っていてくれ」と言われて、ぶちぎれたことがあった。あのとき、なんで怒っているのか、相手を納得させることはできなかったけれど、ちゃんと怒った幼い自分のことは勇敢だったと思う。

わたしは、「笑っていて」と言われて非道な暴力を受けたと思った。そういう感じで、今までわたしが我慢しているうえに成り立っている穏やかさは、なんていうか、彼にとってとても当たり前で彼は一切努力しないということを宣言しているんだなと思った。思ったというか実際そうだった。

わたしは、人の顔色をうかがうけれど、相手の要望通りに動けない人間だから、天然とか空気読めない子とか言われていた。

「なかったことにする力」の強い大人に囲まれて育って、事実としてあったことが「勘違いだ」と言われているうちに、自分がどんな現実を生きているのかわからなくなった。言葉が誰にも通じない感じがして、うまくしゃべれなくなった。うまくしゃべれないことをごまかすために機関銃みたいにしゃべって何もかもごまかしていたかった。それは、大人にとって都合がよかった。わたしは問題を抱えていたが、問題はないということにしたい人たちしかいなかった。

 

でも、問題はあった。成人してから、精神科に行くことができた。十六歳の時から精神科に行きたかった。

わたしは病むべくして病んだ、病むことが正常だ、と言えるような環境に育ち、そこから逃れるためにさらに十年かかった。

わたしは、信頼していた人に「こじらせている」「頭がおかしい」「怒ってばっかりいる」「めんどくさい人」と人に紹介されたことがある。その人から去る決断をするのにも三年かかった。信じられなかった。自分のことが。

わたしはもしかして、こじらせていて、頭がおかしくて、怒ってばかりいる人間なのかな。それは直さないといけないんだろう。

そう思って、直そうとした。実際、「いつも怒っている人は不幸な人」と言う人はいるし、「現実が充実していたらネットで文章を書くはずがない」とい言う人がいる。でも、そうした人は、わたしに何の関係もない。責任も負うわけではない。無責任な人たちだ。

現実が充実していようがしていまいがわたしには書くべきことがあるし、怒っているときがあったからといって、不幸なわけじゃない。そして、不幸でもいい。不幸だからバカにされるということがあってはならない。不幸な状況を自分から選んだわけじゃないんだから。

 

 

わたしは、いつも戦え、と思っている。戦ってやると思っている。

それは、撤退を意味している場合もある。自分の気持ちが踏みにじられるような場所を選ばない、そういうところから逃げる、それは、自分の気持ちを守るための戦いなのだ。

人にはそれぞれの利害があって立場があるのだから、その人なりの正義がある。

ということは、わたしにだって、自分のための利己的な正義があっていいのだ。

自分を優先していい。

女の人は、自分を優先するな、あとまわしにしろ、と育てられ、大人になってからもそうしろと圧力をかけられる。

そんな圧力はないという人もいる。気のせいだと。証拠を出せと。

でも証拠を出しても結局「個人的なこと」「その人がたまたまそうなだけ」と否定される。

わたしは言う。言いたい。あるものはある。

自分が一番最初に何かを得ると、角が立つ。悪口を言われる。悪意を持って邪魔されるようになる。そういうことは実際ある。

名前一つとってもそうじゃないか?愛情があれば夫の姓にするのが普通だってみんな思っている。女の人は後回し。

 

人のために生きること、愛した男のために寄り添うこと、応援したい人がいるってこと、それが女の幸せだ。早く結婚して子供を産んで、自分の人生よりも他人の人生の幸せを祈れるようになってからが、本当の幸せを感じられることだと言われたことがある。

自分を優先するためには、それを受け入れるしかないのが現状だ。

でも、受け入れなくていい。そういう悪意も受け入れなくていい。喧嘩していい。

にこにこ笑っている裏で、殺している感情がある。それはわたしの一部だから、わたしはわたしを殺している。それはだから自殺なのだ。

わたしはわたしの感じ方を見逃さないで、そういう風に感じたことは蓋をしない。ふたをすれば、心から先に死んで体も死ぬ。死んでもいいのかもしれないけど、たぶん、わたしは生きるようになっている。

 

人はみんな無責任に、困っている人を支援することでいい気分になりたがっている。支援もめんどくさいからよさそうな言葉をかける。それは、とってもコストが低い。でも、いいことをしているような気がする。みんな悪者になりたくない。そして、いい人間だと思いたい。だから、困っている人を探して、なんかいい感じの言葉をかけたいと思っている。その言葉が、その人をおいつめる結果を産んでも、責任はとらない。自分で選んだんでしょと追い打ちをかける。

わたしは、悪者になってやる。そして、自分を殺さない。人のことも殺さない。

いい人のふりをしてにこにこして、自分の気持ちを殺すこともしないし、いい人になりたいからって無責任なことも言わない。


自閉症的生活【考えない練習】感想

考えない練習 著者・小池龍之介

 

【読後具合が悪くなったので勧めません。単に実家が強くてうまくいっただけなきがする】

この本を思ったのは、「自閉スペクトラム症みたいな考え方だな」ということ。

管理できるだけのものをもつ、計画を立てて行動する、決まったパターンの生活をする。人と群れたりつるんだりしないで、一人でいることを苦にせず、じぶんのしたいことをして、思っていないことを言わない。顔色を窺わない。感覚が鋭い。自分の感覚を大切にする。オンとオフをはっきりさせる。使わないモデムの電源は落とす。テレビはノイズになる。

これって、とっても自閉スペクトラム症的。伴侶は、足音を立てずに動く。ほとんど伴侶は実践している。

わたしは、コレクションをしがちなので、自閉スペクトラム症の人が全員これを実践できているということを言いたいんじゃなく、この考え方は、自閉スペクトラム症の持ち味を生かせるなと思った。

賛成できない部分もあって、子供に対する声掛けのところなんて、机上の空論だなと感じた。

でも、何かに気を取られて、上の空でいると、その上の空の分人生がなくなってしまう、というのは、最近実感していること。

過去の怒りに燃えている間は、今現在をきちんと実感しながら生きることができないし、何かを欲しがっている間は、食べているものの味もしない。

わたしは、頭の中のノイズに悩まされているので、どうしたらノイズを減らせるかというのは参考になった。脳が刺激を求めてしまうから、自分から苦痛をむさぼって、そしてそれが解消された状態を「楽」だと思い込んで、繰り返してしまうというところは、自分がそうしているという実感があるのでよくわかる。

何かを欲しいと思うことも、渇望することも、苦しい。こういう自分になりたいと思えば苦しい。それを開放すると楽な気がする。でも、手に入れてうれしいのは一瞬だから、また、ほしいものを探してしまう。

ただ、ちょっとわからなかったのは、怒っているということをどう扱うのかということ。

闘わないと、ずっといじめられる人にとってどう受け取ればいいんだろう?

たしかに、怒りの言葉を発しているうちに、どんどん自分が言葉に引きずられて興奮してしまうことはある。

でも、どうしてもつらい出来事や理不尽な出来事があるとき、怒るのは自然だ。そして、それは言わないと伝わらない。

相手が、それを聞いてどう思うかどうするかは、相手の問題だけど、怒りや、差別などをどう扱えばいいのか。

自分の中だけで解決すると、世の中は変化しない。それって、差別される人にとっては甘んじること、同化することに他ならないから。

折り合いをつけるためには、一度、怒りを感じて、それを今感じているんだなと認識して、それを表現したら、あとは受け取り相手に任せるという態度が必要なのかなと思った。

興奮してしまったり、刺激が強いものは避けたりするというのはいい考えだと思った。ネットは不愉快なものをわざわざ見るのに適したものだ。

そして、わたしは、結構そういうことをしてしまう。とくに、刺激がほしいようなとき。自傷みたいだなと前から思っていた。それは、脳が、刺激を欲しがっているからだ。その刺激は何だって良いのだ。

テレビのお笑いについて「相手を貶める」「自分を貶める」「混乱させる」の三つだと書いてあったのは、その通りだなと思った。お笑いを見ていると、自分の中の「当たり前」が破壊されるようで苦痛だ。

 

 

近頃、おいしいものを食べても、上の空だと、食べた感じがないから、ちゃんと集中して食べることが大事だなと思っていた。

テーマとして「集中してぼんやりすること」を主治医に宿題として出されていた。人は、集中してぼんやりすることが大事なのだ。

スマホを見ると、刺激が強い情報が多いので、自分がここにいないみたいな感じで、苦痛をマヒさせて、時間をスキップすることができる。でも、それだと、体がここにいるのに、心が体のある場所からなくなるから、自分の人生がすり減ってしまう。

だから、時間を短くする、手を動かしたり体を動かして、心と体が同じ場所にいることを心がけようと思った。


趣味とレギンス

レギンスをたくさん買ってしまった。
わたしは高校生の時にレースのブラウスを買ったら「ばかばかしい、返しなさい」と言われて、返した。
妹にはダサいとののしられ、おしゃれをしようとすると色気づいたと母親にバカにされた。
事件が起きて母を頼れず、乳の家に身を寄せたが、男物の服ばかりを渡されたり、ほぼ残量なしの、すみに粉が残ったアイシャドーや、マルチのアイシャドウの古いやつを渡されたりした。
ショートパンツを履けば「そういうところだめだ」と言われたり、「あなたのうちに慰謝料を払ったからうちは裕福じゃなかった」と言われたりした。
そういうことを思い出しながら、もらった男物の服を遅くなったが処分しようと思う。

わたしは浪費ばかりしている。パートナーは悲しい顔をする。
彼がわたしを責めることはありえないのだけど、わたしは顔色を窺ってしまう。
母親にしたように。母親にとって正解はなかったけれど、顔色を窺ってわたしがおどおどすると、イライラしながら気持ちがよさそうだった。
だから、わたしは、今でも顔色を窺ってしまう。

ほしいものをリストにして、それを買った。でも、そのあとにレギンスがほしくなってたくさん買ってしまった。
わたしも、レギンスそんなにいらないと買う前にパートナーに話した。でも、迷っていると。
で、買った。
それで、わたしは自分が分からなくなった。

わたしはおしゃれをしたかった。でも、できなくて、自分がみっともないと思い続けてきた。
今遅くなったから、早回しで、取り戻したい。だから、たくさん買ってしまいたい。
そうすることで、消化できたらいいのに。

趣味も少ない。パートナーと比べてしまう。
パートナーは、ピアノも、株も、勉強もする。
わたしは、手芸をするくらい。本を読むことは、具合が悪くてできない。
だからわたしは自分を劣っていると思う。わたしは、なんてだめで気持ちの悪い生き物なのだろう?
自分自身をコントロールすることができない。
わたしは、十二月三十一日から、午前一時から四時に起きて、どうしても眠れず、昼寝もしていないから、体がボロボロになってしまった。
今日は、昼間ふらついて、頭痛と吐き気がして、体に力が入らなくなった。
そして、通販でレギンスを買った。

主治医は、失敗しながら学んで、ま、いっか、で流しなさい、悩んでもその中からは何も出てこないから、と言った。
家事ができるようになったように、何年かかけて、少しずつできるようになるからといった。
わたしにも、人生を取り戻せるだろうか?

いろいろな人がわたしから、感情を奪っていった。
母はわたしに喜ぶなと言った。
そして、成人式を「高校の卒業式をしたからいいよね、もったいないから」と言った。

妹はもちろん振袖を着ていた。

ときどき、息が苦しくなって死にそうになる。空気がなくなったみたいになる。
趣味がない、わけじゃないのに、趣味がないわたしには中身がない空虚な人間でみすぼらしくこの世に存在するだけでこの世界を汚していると感じて、死にたいとも違って消え去りたくなる。何の痕跡も残さずに。


あらゆる場面で差別はいけない

トランス女性を、その身体的特徴がゆえに、また、性的対象がゆえに、彼女は女ではないという議論を見た。
不勉強もあるだろうし、文脈も把握していないが、どちらにしろ、それは最悪な行為だ。

トランス女性が、差別をしたり、悪いことをしたなら、批判するべきだろう。

しかし、戸籍を理由にするなら、それは、性に関して公権力が介入していることに無批判なことを、むしろわたしは批判したい。
身体的な理由だったり、性器をオペしていないという理由だったりするなら、その言説は暴力だ。
それは、本人にもどうしようもないことだし、オペをするかどうかは本人が選ぶことだ。
その結果を、わたしたちはどうこう言えない。
わたしたちは、体に危険や負担や痛みを持つことを強いる権利はもちろんないのだ。
もし、強いるようなことを言えば、それは相手の命を軽んじる暴力だ。

わたしが、女に生まれ女の体を持ち女という自意識を持つのは、運がよかったからで、努力をしたからじゃない。
なのに、トランスにそれを強いるのはおかしい。努力せよとなぜ言えるのか。

トランス女性やトランス男性が、性的規範を取り入れることに前向きだったり、ミソジニックだったりするのはみたことがある。
それはもちろん批判するべきだ。でも、それは彼らがトランスだからじゃない。
差別がいけないことだからだ。

たとえば、未手術のトランス女性が女湯に入ってきたら、わたしはびっくりしてしまうかもしれない。場合によっては恐怖を覚え、パニックになるかもしれない。
でも、それは、そのことで、また考えて解決していかないといけないことだ。みんなで話し合うことが大事だ。

トランスに生まれただけで、温泉に入ってはいけない、というのは変だからだ。
(かといって、ほかの人の気持ちをないがしろにしていいということでもない。同じ理由で、トランスの気持ちをないがしろにしていいというわけでもない)

今は、フェミニストと名乗るのは流行っていないようだ。
偽のフェミニストか、本物のフェミニストか、ああだこうだ言われることがいやだという理由も見た。
正しさを自分ばかり要求されるのが嫌だという理由も見た。

誰が何を名乗ろうと、自由だ。
でも、ミサンドリストを名乗ろうと、フェミニストを名乗ろうと、ツイレディを名乗ろうと、差別をしてもいいという理由にはならない。
どんな人でも差別をしてはいけない。
それが前提だ。

ミソジニストが差別をしても、野放しにされているように、見えるのは確かだ。
でも、彼らは、悪いことをしている。
彼らが悪いことをしているからと言って、ほかの人、ミソジニストに差別されている側の人間が、ほかの属性の人間を差別していい理由にはならない。

わたしは、自閉傾向を理由として、または、それを知らない人に(親に)、人の心がないといわれる。
でも、彼らは、それを言って、わたしを傷つけている。
わたしが、彼らの思うように従わないから、彼らは「人の心がない」という。
人の心はある。場合によっては、思いやることもできる、優しいこともできる。

自閉傾向があると、相手がカサンドラ症候群になるという人もいる。
そういう人もいるのだろうけれど、わたしたちは、つまり、ASDは学ぶことができる。
相手の言うことを聞いて、顔や声や動きを観察して、相手の気持ちを推し量ることはできるようになる。
わたしも、パートナーも、自閉傾向が強い発達障害だが、わたしたちはお互い思いやって生活できている。
笑う、泣く、怒る、全部、ある。相手が悲しんでいたら抱きしめる、話を聞く、温かい飲み物を入れる。
赤ちゃんが何を要求しているのか、観察して、泣く前に対処することもできる。
手をあげたら、おなかがすいているサイン、ぴ、ぴ、と言ったら、おむつ替えのサイン、えーい、といったら、うんちのサイン、などちゃんとわかる。
定型発達(おそらく)の人はそういうことには気づかなかったと言っていたから、定型発達の人だけが、気を遣えたり、空気を読めたり、人の感情が分かるわけではないようだ。

わたしの思うに、察するという能力は、「権力者の意をくみ、その通りに動ける」ことを意味していると思うので、わたしにとっては、それは定型発達の長所ではなく欠点だと思う。

話が反れたが、貧困、片親家庭、低学歴、障害、病気、体の特徴、国籍、人種、全部、差別の対象になる。そして、差別をしてはいけないということには変わりない。その前提を忘れた人は、悪い行動をとってしまう。悪い行動は批判される。

そんなシンプルな話なのに、女性差別と闘う人が、「窮屈だ」というのは滑稽にうつる。
それは、女性差別をしている人も、批判されて「窮屈だ」と思っているだろうし、セクマイ差別をしている人、最近ではとんねるずで笑っていた人たちも、窮屈な世の中だと言っていた。
差別をする側が窮屈になるように、わたしは動きたい。そして、窮屈だった人たちが、息をしやすいようにしたい。

わたしも、この前「頭のおかしい人」という言い方をした。妊婦にけりを入れる男について形容したのだが、反省して、倫理観の欠如した人に言い換えようと思う。そして、これもいつか、批判される日が来るかもしれない。
そうしたら、わたしは、少しずつバージョンアップしたい。


受動型ASDのパートナーとの付き合い方

わたしのパートナーとは、はてなブログとツイッターで知り合いました。
Skypeで話しているうちに、彼からプロポーズされ、会って、初対面で同棲をし、不愉快なこともなく、話し合いが成立する、メリットがあることから、事実婚をしました。
事実婚にしたのは、別れる時の利便性です。籍を入れてしまうと、お金はいいから、とにかく逃げたい、というときでも、朝廷や裁判をしないといけないし、何年もかかるし、居場所を突き止められてしまうから、隠れていないといけないのです。
それがいやで、事実婚にしました。籍を入れるメリットは、共同財産の形成と、相続の利便性なので、それを日常的に解決していたら、問題ないです。

受動型とはいえ、パートナーは、人付き合いが下手ではないです。
コミュニケーション能力の塊のような営業の、わたしの上司のもとで、今、わたしの代わりにアルバイトに行ってもらっているのですが、無口で、内向的だが、正直で、意見があったらはっきり言う、裏表のない性格を気に入ってもらっているようです。
口がうまい人を警戒する人は一定数いるので、そういう人と相性がいいです。

会う前に、いろいろな取り決めをし、同棲しているときも、かなり話し合いました。
戸籍や収入の証明書も提示してもらいました。
また、引っ越してからも、もとの家をしばらく維持してもらい、いつでも出て行ってもらえる状況を作りました。
でも、事実婚をしてから、体を壊して、養ってもらうことになったので、結局、あのとき縁がなければ、わたしはどうなっていたんだろうと思います。

ネットから出あって結婚する人は、わたしの身の回りに多く、うまくいっている人がほとんどです。
戦中派の主治医も、ネットで赤い糸を見つけ、こっちに引っ越してもらえばいい、と言っていましたが、まさか実現するとは……。
ありのままの自分を知ってもらうためには、ブログで自己表現をしていたことが、よかったですね。
同じ価値観の人と出会えたわけですから。

ところで、彼は自己モニタリングが苦手で、体調の悪さや、感情の変化を自覚することが難しいです。
言いたいことがあっても、言わないで、自己完結してしまったり。
そこで、わたしが、彼の様子を見て、いろいろいうことになったり、質問したり、指示を出したりすることになります。
ちょっと、それが、かえって彼の負担になるのか心配ではあります。

彼は、同じ作業をすることが得意なので、ルーチンの家事をほとんどしてくれます。
その代わり、初めてすること、即興でやりくりすることは、やや苦手なようです。
だから、基本の家事を彼がやり、できるときや、必要な時、わたしがやるようになっています。

わたしは、積極奇異型だと思います。そのため、一見、社交的に見える瞬間もあると思うのですが、すぐ疲れたり、突拍子もないことをして、トラブルを招いたりもします。それに、内向的なことには変わりありません。
似ているところと、違うところがあり、ASDという部分で共通しているから、生活は円滑です。

わたしは、就職をしたのも、結婚をしようかと思ったのも、ずいぶん遅い時期でした。
そういうことが、必要なのかどうか、興味がなく、ぴんと来なかったのです。
流されることがないので、ほかの人が焦っていても、ぴんとこなかったですし。
それでも、思い立った時に、それぞれ獲得できたのは運がよかったなと思います。


障害が嫌なんじゃない

障害について描かれた漫画を読んだ。

障害や精神疾患を持っている人を、自嘲とはいえ「失敗作」と言ったり、「メンヘラ」と言ったりしていたことが気になった。

そして、健全な家庭に育った人には、虐待された人は理解されないのだ、ということも気になった。読んでて嫌だった。読まなきゃいいんだけど、読んでしまった。

「お母さんになる人へ。あまり厳しくしないでほしい」というメッセージがあったが、これから母になるわたしにとって、やはり、嫌な気持ちになった。

わたしだけが子育てをするわけじゃない。父親にも責任がある。そのほか、子供にかかわるすべての人にも責任がある。

 

ADHDをメンヘラ、といったことに反発があったが、それはあまり問題ではない。

先天的だ、脳疾患だ、だから、メンヘラじゃない、という言い方は、精神疾患とは違うのだ、ということに対して、字義通りのことを求めているというよりも、「精神疾患ではない、精神病ではない」という差別意識を感じた。もちろん、悪意はないのだろうけれど。悪意がなければ差別ではない、というわけじゃないのだ。

 

 

わたしは、障害を持っていること自体は嫌じゃない。それに伴った不便さが嫌だ。

その不便さは、軽減することができる。社会的にかかわる人間を厳選し、支援を受けることで、かなりのストレスを減らせることができる。

わたしの持つ、主な病気である、双極性障害も、自閉スペクトラム症も、治らない。

だからといって、それが脳疾患だろうと、精神病であろうと、どうでもいい。精神病のほとんどが、脳の機能がうまくいっていないから起こるものだ。

 

わたしの家は、健康的な家庭ではなかった。でも、同じような境遇の人が理解してくれたわけじゃない。人による。余裕のある、健康的な家庭に育った人が、思いやりを示してくれたこともしばしばある。

個人的には、余裕のない人と人が不幸な話をしていても、わたしは笑うことができない。人による。

だから、きれいごとを言わないでおけば、同じ境遇の人にしか話せない、というのは、本当に個人的な話なんだと思う。それでいいのだ、もちろん、あの漫画は、個人的なことを、内輪のノリを正直に書いたものだろうから。

ただ、同じように、わたしも、あの漫画を読んで、どう思ったかを、書くことは許されるはずだ。

いやだったら読まなかったらいい、というのは、お互い様。

相手に伝える必要はない。

わたしは、障害が原因で不利益をこうむっている。でも、生きづらい、という言葉を忌避する。

わたしは、生きづらいといわれたくない。そんな、人をさげすむ言葉を自分に使いたくない。

わたしには、生きる上で、困難がある。それを乗り越える工夫をする。戦う。

そういう言葉遣いを選ぶ。


アスペルガーには感情がないという誤解

ツイッターで、アスペルガーの人には感情がないから、人の気持ちを理解させることは酷でしょう、という内容のツイートを読んだ。
とんでもない誤解で、わたしは悲しくなった。
わたしは、アスペルガーの領域にはないから、厳密には当事者ではない。
でも、ASDではあるから、一応言っておきたい。もちろん、わたしのブログを読む人にはそんな誤解をしている人はそもそもいないだろうけれど。

わたしには、感情がある。怒りも、悲しみも、喜びも、楽しさもある。
心はある。動く。相手の気持ちもわかるつもりだ。ただ、それが正解かどうか、確かめるすべはないと思っている。だから、間違っているんじゃないかといつも不安だ。

相手の気持ちを読んでも、相手の気持ちの欲している通りの行動をとる必然性がないから、相手の要求には従わないことが多い。思い通りにならない。
相手が怒っているかなどの、ムードは理解できる。力関係もあるのだなと想像はできる。
でも、相手の思い通りの行動をとることはない。
それゆえ、結果的に、相手の気持ちがわからないと思われているのだろうと思う。

実際、人間が複数いたときの、力関係を読み切ることもできない。そして、言外の意味をとらえることもかなり難しい。
端的に言われないとわからない。言葉の裏を読み取れない。場面によって変わる意味が多い時には、かなり疲労する。
だから、わたしは、相手が言ったことを、こういう意味ですかと確認することが多い。そうやって、工夫をしている。

もう一つ、わたしは、自分が困っていることを把握したり自覚したりすることが苦手だ。
寒いな、と思っても、我慢するという感覚もなく、もう一枚服を着ようという発想が出ない。
生きることが難しいので、それが当たり前すぎるので、工夫をするという発想が出ない。
だから、困っていることを、解決するために、調べたり相談するという過程が存在しにくい。
よっぽど困ったら、困ったといえるけれど、たいていは、困っているという自覚がない。相当事態が悪化してから、ようやく、どうにかしないといけないのかもしれない、と思う程度だ。

だから、わたしのこうした行動を見て、困っているという感覚がない、寒さも感じないのかもしれない、と思う人がいるのだろうと思う。寒さは、たとえなのだけれど、反応しないから、感じない、感じないということは、心がないのだ、という風に解釈されがちなのだろうかと思う。

今は、早期発見、早期療育が主流だ。
わたしは、もちろん、大人になってから発見されたものなので、それがどれだけ有効なのかわからない。
ただ、最近、療育も、ほかの人たちとなじむことを目的とされているのならば、それがどれだけ、当事者を幸せにできるのか、その視点で考えると、早期発見が必要なのかどうか、疑問になってきた。

わたしは、発見が遅れたから、二次障害が起きた。いろいろつらい目にもあった。
避けられることのできた、悲しい出来事も多かった。だから、早期発見、早期療育を受けられる人がうらやましかった。
でも、今は、早期発見、早期療育ではなくても、いいんじゃないかと思っている。
生存バイアスかもしれないけれど、それもひっくるめて、わたしだし。
早期療育に追い詰められている人もいるようだから、それくらいなら、時間をおいてから、どうにか工夫を考えることでも遅くないと思う。
どんな人生でも、先回りされすぎると、生きている感覚を失いがちだ。
以前、発達障害の子供を持つ人が、それを認めるのがいやだ、と言っていた。
そのときは、発達障害を認めるのがなぜ嫌なのか、それは別に不幸なことじゃないのにと思った。
でも、今は、少し変わった。別に不幸なことじゃないと思う気持ちは変わらないけれど、認めにくい人がいるなら、その人のペースに合わせて、その人が認められるようになるまで待って、それからみんなが手伝えばいいんじゃないかと。早期療育が大切だからと、焦らせたり、認めないことが悪だと思うから、追い詰められる親御さんがいるのかもしれないと思うようになった。

発達障害でも、幸せになれる。
もちろん、わたしが思い描いた、未来に今いない。わたしの夢は叶わなかった。
でも、妥協した未来は、結構幸せだ。
できる範囲のことをしている、そういうことを、自分で受け入れられるようになるまで、苦しかった。今だって、苦しい。
起きなければよかったたくさんのことさえなければ、夢が叶ったかもしれないと何度も思う。ずっと思う。
でも、その苦しさと、今幸せであることは、両立する。

生徒を教えていると、能力よりも、人としての成熟が、その人の進路に深くかかわることを何度も教えられる。
能力があるはずなのに、伸びない生徒もいる。能力が人より劣っているはずなのに、できることが増えていく生徒もいる。
外から見たら、もともとの能力は見えない。できることで評価される。能力って何だろうと思わされる。
この子はできないと見放された子を何度も教えた。でも、学ぶことの楽しさを伝えると、自分で、人生を切り開ける子供のほうが多い。わたしは、手伝うことしかできないけれど、自分の意思で、人生を切り開いていく子供には頼もしさを感じる。

いろいろな偏見がある。偏見は、人の範囲を規定してしまう。チャレンジするための気力を奪う。

発達障害だから、能力に凸凹があるから、女の子だから、男の子だから、あれはできない、これはできない、というのではなくて、それぞれがしたいことを援助することが、幸せを導くはずだ。
だから、アスペルガーには感情がないなんて、言わないでほしい。
アスペルガーにも、発達障害にも、幸せはある。
どんな人にも幸せはある。

アスペルガーには、感情がないから、人の気持ちはわからない、というのは、偏見であり、誤解だ。
そういった誤解が、いろいろな人を、当事者だけでなく、それに関わる人を苦しめる。
その偏見を先に摂取してしまった人は、発達障害を認めることが難しくなるだろう。
人の助けを借りてはいけない、ということも、難しくなるだろう。

人が自分の能力を花開かせるためには、偏見や、抑圧から、差別からも、解き放たれている必要がある。
小さな、一つの誤解を減らすことで、人の可能性が増えていく。


同じ自閉症傾向でも特性が違う

六帖さんとわたしは、同じASDでも、特性が違う。
わたしは、比較的誰とでも話ができるが、六帖さんは、知っている人としか話せない。
昔わたしは、初対面とは仲良くできるけれど、継続的な人には、不安定な波を隠すことができず、付き合うことが難しかった。六帖さんには気分の波は少ない。

片付けも、わたしは、実家が、片付けをしない家だったので、片付けの仕方が分からなかった。物の場所を決める、という基本的なことが理解できなかったのだ。
本を読むのが得意なのだから読んで勉強しろと父親に言われたけれど、そういう問題じゃなくて、実際に見ないと理解できない部分が多い。あいまいな指示が理解できないのだ。実際に見ると、具体的も具体的だから、理解できる。

ヘルパーさんに教わって、片付け方の基本を教わった。動線を考えること、よく使うものは手前に入れること、奥のものも出しやすくすること。だから、わたしの家の台所のシンク下は複数のヘルパーさんが使うので、非常に使いやすい。どこに何があるのか、一目でわかる。

お玉やフライ返し、軽い鍋は、壁につるしてある。取り出しやすいし清潔だ。
洗ったお皿は、ちゃんと引き出しにしまう。引き出しの中も場所を決めておく。誰でも、すぐしまえるようになっている。
調味料も調味料入れにしまっている。ジャンル別にしている。

服や雑貨、押入れの収納の仕方も教わった。
わたしは、奥行きのある引き出しを使うと、手前にあるものを使うだけになってしまうことや、たたむことが致命的に苦手なので、深さのあるバケツを収納にしている。奥にあるものを出しやすいように、車輪のついている板の上に載せている。

六帖さんは、服を畳むことができる。でも、深さがあるバケツに入れると、下のものを認識できないので、上になるものばかりを使う。
だから、六帖さんには、奥行きがあって、浅い引き出しが良い。

わたしは、片付けの配置を考えることができる。
でも、毎回同じ場所に入れることが、感情の波の低い時にはできなくなる。それでいて、部屋が散らかると、混乱して、パニックが起きる。
六帖さんは物の配置を考えることが苦手だ。何か新しいことを思いつくことがあまり得意じゃない。その代わりに、継続して何かすることや、こつこつすることが苦にならない。

だから、六帖さんは、洗濯物を畳んで、決められた場所に入れることができる。新しいものが増えなければ、家を散らかさないで済む。
でも、新しいものが増えたとき、わたしと六帖さんが同時にダウンすると、部屋がとても散らかってしまう。

わたしは掃除機の音が苦手なので、ヘルパーさんに頼んでやってもらう。
妊娠してから、寝たきりだったので、手伝うことができなかったのだけど、今日は一緒に片付けができた。

話しながらできるので、とても、気分転換になる。

手伝うと、身体介護になるので、点数は家事援助よりも高い。何もしなければ、家事援助になるから、点数が低い。
でも、わたしは、自分でできることを増やしたい、というのが目標なので(介護には目標が設定される)、できるだけ手伝う。

料理は、以前は、気力がなかったため、大鍋でスープを作って、何日も食べていたけれど、六帖さんが来てから、毎食ごとにご飯を炊いて、一品だけのことも多いけれど、毎回作るようになった。
だから、食生活が安定した。

六帖さんは、毎日同じことをすることが得意で、わたしは飽きっぽい。飽きっぽいのに変化には弱い。
変化に弱いのは、六帖さんも同じだけど、微妙に違う。

わたしは同時に何かすることができるけれど、六帖さんは疲れてくると何をしたらいいのかわからなくなって、フリーズする。それは、わたしにも起こるけれど。

わたしには感覚花瓶が、音と光、PTSDで男の人の大声が怖い、というのがあるけれど、六帖さんにはあまりない様だ。
二人とも共通して苦手なのは、困っているのに、自分が困っていることが理解できない、というところだ。

でも、二人で暮らして、とても楽しい。

今日は調子が良かったので、一時間ほどレザークラフトをした。オレンジ色のペンケースを作って、六帖さんに上げた。


精神疾患は、精神的に未熟だからではない

しばしば誤解されることだが、精神疾患や、精神障害を持っている人は、精神的に未熟だと考えられ、説教の対象になりやすい。
しかし、もちろん、脳の機能や、心の働きが、「普通の人」と違うだけのことだから、説教だけでうまくいかない。

わたしは同じ自閉症スペクトラムの人と一緒に住んでいるから、家の中で困ることはない。
「普通」の人が、自閉症スペクトラムの集団の中で暮らしたら、きっと支援を必要とするだろう。
わたしたちにできて、「普通の人」にできないことは確かにあるからだ。

わたしは発達障害だけでなく、精神疾患もたくさん持っている。自分でも、病名を全部把握してないくらいだ。それでも、投薬には問題ない。
投薬は、困りごとに対して、行われるからだ。病名に対して、それぞれ投薬するわけじゃないのだ。

薬を減らしてから、生活の質が非常に下がった。身体的に問題が出やすくなった。それも、精神疾患に対する頓服を飲むことでずいぶん解決した。薬は生活の質を上げる。

体の病気でも、病気の人に、その人が未熟だから病気になったのだという論法を使う人がいる。
でも、それはほとんど運の問題だから、精神的に未熟だから、病気になるわけじゃないという当たり前の事実が、わからない人がどうやらいるらしい。

精神疾患になるのには、いろいろな要因がある。だから、心の持ちようだけではもちろん解決しない。考え方の癖が一因になる場合ももちろんあるけれど、一度精神疾患になってしまったら、その「心の持ちよう」という機能が壊れてしまっているから、アドバイスではどうしようもない。心の持ちようが、邪魔されている状態だからだ。

わたしはその外に出るたび、普通の人のようにふるまう。それには、たいへんな無理をしている。
出かける前にも、精神的に自分を追い詰めるし、外に出ても、ずっと演技をしているように、気分を無理やりあげている。その反動は帰ってから出る。何日も寝込むことがある。エネルギーの前借をしているようなものだ。

わたしの脳が壊れてしまった理由は、いくつかの環境要因と、わたしの遺伝的素因がかかわりあって、交じり合っている。もちろん、成育歴も大きい。これらは、すべてわたしの責任とは言えない。運の要素が大きい。

「普通の人」とひとくくりにしても、実際にはいろいろな人がいるように、精神疾患を持った人にもいろいろな人がいる。
精神疾患を持った、わたし自身の経験は、わたししかしていない。「普通の人」の経験をわたしができないように、「精神疾患であるわたし」の経験は、ほかの人にはできない。
だから、わたしに有効なアドバイスをすることは、普通の人には難しい。

専門家でも誤診する。わたしも誤診されていた。だから、医者じゃない人が、わたしを診断することは不可能だ。
でも、医者じゃない人が、わたしにいろいろな病気を押し付けてきたことがある。それらはすべて当てはまらなかった。
しかし、それをされたことで、わたしはとても損なわれた。

安易に診断をつけることは害だ。

病気の名前がつく前も、わたしは困っていた。でも、そのとき助けてくれる人は少なかった。もちろん、少しでもいてくれたことは助かるのだけど。
病気の名前がついたあと、わたしはやっぱり困っていた。自分で、支援を求めたが、それも反対された。肉親に。別に助けてくれるわけでもないのに、自分で何とかしろと言われた。精神疾患なんて、そんなに大変じゃないのだから自分の力でやれと。

診断がつく前もついた後も、わたしは同じ人間で、同じ問題で困っていた。でも、今は病名を言えば、錦の旗みたいに、人に話が通じる。

わたしが思うに、単純に、困っている人をお互い助け合えばいいのにと思う。
わたしが助けられることもある。助けることができることもある。
何が起こるかわからない。
ずっと順調な人生はない。人はいつか老いて病んで死ぬ。
それは、人間的に成長すれば解決することでもない。人間的に未熟だから、それが起きるわけじゃない。
その当たり前のことを知ってほしいと思う。

知って、どうすればいいのかは、各自の余裕について、その人自身しかわからないことなので、その人自身で判断してほしい。