5chのヲチスレをちゃんと読んでみた

ネガティブなコメントがどうにも苦手です。
批判はもちろんされてしかるべきだと思うし、その批判に対して反論もします。
それとは別に、単に、わたしのことが気に入らないで悪口を言ってくる人がときどきいて、「なんでなのかなあ」と思うのです。
わたしは、ブログをやっているから、その人だって自分のブログで書けばいいと思ってしまうのです(それはわたしの都合ですけど)。
コメントで言われても同じだと言えば同じだけど、「自分はこういう意見を持っている、だから、この人のこの部分は気に入らない」というのには、自分のブログのほうがむいているんじゃないかなと思っています。

はてなブログで書いているときには、はてな女子スレッドというのがあって、直接リンクをされていたものだから、なんだろ?と思ってうっかり見に行ってしまったことがあります。

それで、気分が悪くなりました。

いろいろ調べて知ったのですが、いわゆるヲチ先の人が、スレッドを見るのは、「ヲチ先の人間が悪い」ということになっているらしく、それだけでバカにされるらしい。
そして、スレッドに反応すると「お返事した」といって、もっとバカにされるらしい、ということ。

スレッドを見たことを言ってはいけない、ましてや、スレッドを「晒し」すると、スレッドが燃える。
そういうことが分かりました。

だから、見ても、「見たことを気取らせてはいけない。気取らせると面倒なことになる」ということが暗黙の了解になっているようでした。
そして、変なことをすると「踊る」という風に言われるらしい。

よくわからないものは怖いので、一度とことん読んでみようと思って、ヲチスレばっかり読んでみました。
知らない人ばっかりです。

読んでいるうちに、だんだん興奮してきて、確かに、「この人はおかしい」と思うこともありました。
そして、「スレ住人」同士でも、喧嘩があったり、マウンティングがあったり、「スレ違い」と追い出されることもあったりするんだな、と。
空気の読み合いが激しい。ヲチ先の人をバカにするのだったら、どんなことにもケチをつける。
そして、当然、ヲチ先の人が、心を病んだり、体調を崩しても、責任はとらない(とれない)。
「読まなかったらよかったのに」「存在していることを言わなかったら、自分がヲチされるような人間だと知られることもなかったのに」という風に言われる。
どうも、ヲチされる人間だ、ということは、それだけで恥ずべき事、ということらしいのです。
で、ヲチしているのは恥ずかしい人間じゃないかというと、「ここにきている時点でブーメラン」(お前も見に来ている時点で同罪)という論理で、一応自分たちも恥ずかしい人間であるけれども、読みに来る欲求を抑えられないヲチ先の人のほうがもっとバカである、という無敵な理屈であるということがわかりました。
これは、理不尽すぎるなと思いました。
だから、5chのヲチスレでなるほど、と思えることは、実際にたくさんありました。でも、わたしはそのルール(言い返すことが最も見苦しいというルール)がどうしてもフェアだと思えないから、やっぱり、自分はブログに書いたり、SNSに書いたり、人格を一貫して保てるほうがいいなと思いました。

いろいろ腑に落ちる意見もあるし、SNSで書きにくいことを発散する場でもある。
自分の意見として、堂々と言うほどでもないけれど、誰かに言いたくなって書いた、というのもある。

でも、ヲチスレによるけれども、書き込みをする人間は案外少数なこと、原動力にはいろいろあるけれど、嫉妬、嫉み、不快感の吐露、のぞき見趣味、相手をコントロールしたいという欲望、そういうものを満たす場だということもわかりました。

(相談するスレッドや、情報交換するスレッドはきっと有益なんだと思います。身近な人にこそ、言えないことっていっぱいあるだろうし。ブログやSNSはまめじゃないとできないから、できない人の救済の場だということも思いました)

二十年ほど前、2chにさらされる、というのはたいへんな恐怖でした。
とにかく、アングラ、怖い、気持ち悪い、どろどろしている、というイメージでした。

でも、今はもっとカジュアルになり、高齢化もし、人間も減ったんだな、ということがわかりました。

一応、気が済んだので、もう、いいかな、という感じがしました。
自分のことに言及されていないタイミングで読めたので、あまり心が乱されないで、いろいろなことがわかってよかったです。

そして、ブログに直接コメントをする人は、人にもよるけど、正々堂々としている部分はあるから、そこは評価しないとな、と思いました。

過去の自分の反省点も見えて、ちょっと自分が変われたかなと思いました。
人からの見え方って、本当にどうしようもないから、距離を取るしかない、というのが、人に言われても腹に落ちませんでしたが、自分から、怖いものを見に行って、自分なりに理解できたので、腑に落ちました。

(でも、やっぱり頭に来たら、また見苦しい姿を見せてしまうんだろうな、とは思います。
腹が立って、ちゃんと怒るというのも、わたしにとっては大切なことではあるので、なかなかバランスがとりにくいですが)


千田先生の「発達障害発言」関連についての考えたこと

ツイートを読んでからずっと苦しかった。
千田先生の言葉で、わたしは、また自分の頭がおかしいんじゃないかと思った。
わたしは、文化の外にいて、文化摩擦を起こす異物で、理解していないうちに、自覚していないうちに、人にモラハラをして傷つけているのかと思った。

でも、やっぱり、そうじゃないから、同じように苦しんでいる人、主に、自分のために書こうと思う。


研究者がこういう風に言うと、ただでさえ、話がうまく進まないとき「アスペ」とののしられる現状に、裏付けがされてしまう。
多数者、マジョリティに合わせろ、というのは、とても乱暴だ。
端的に言って差別だ。


わたしのパートナーは、前の結婚の時に、「アスペ野郎にカサンドラ症候群になるまで追い詰められた」とののしられていた。カサンドラ症候群とされている人たちのパートナーが、全員発達障害だとも思わない。
定型発達の人が、ただ単に、くずなモラハラ野郎なだけなのに、「発達障害」ということにされている例はあるはずだ。
多いんじゃないかとも思う。


こういうことをするのは、ASDの特徴ではない。
わたしも、パートナーも、自分の理論を押し付けたりはしない。どちらかというと、自分が間違っていると思って、混乱してしまう。
そして、壊れて病気になる。


ストーカー行為をするのも、モラハラをするのも、発達障害の男性がするとは限らないけれど、これを読むと、わたしには、ストーカー、モラハラは発達障害の特徴と結びついていると読めてしまった。
だから、とても苦しい。


この部分は、本当に読んでいてしんどかった。
これは、わたしの読解が間違っていなかったら、千田先生が話したがっていないのに、話そうとしている、「相手が話したがっていない時には対話が成り立たない」という暗黙の了解を理解できていない、ということらしいのだけど、わたしの解釈だと、「差別に対する抗議」に対して、それを援用してしまえば、抗議自体が成り立たないと思う。
そして、その抗議の仕方を「発達障害だから」不適切、だという風にしてしまえば、わたしたちは口をふさがれてしまう。

発達障害はこうだ、という偏見に抗議したいのに、発達障害だからコミュニケーションがおかしい、よって、この対話は無効だ、とされてしまうなら。

大多数に合わせるほうがお得なら、あらゆる差別はそうだろう。
千田先生は、「家庭内では、発達障害の夫のほうが力を持つから、一般社会でのマイノリティ性は関係がない」というけれど、それは必ずしもそうじゃない。
定型発達の人と、自閉症の人が密室にいたとき、自閉症を追い詰めるのはたやすい。
自己コントロールを失わせるだけで、一人の時間を奪うだけで、感覚花瓶をないことにして扱うだけで、わたしたちは容易に狂う。


これも、発達障害は関係なく、ただ思いやりのないモラハラ野郎なんじゃないかと思う。
そのモラハラ野郎が、本当に発達障害なんだろうか?
発達障害で、なおかつ、心の優しい人はたくさんいる。例外がたくさんある以上、このような言い回しは避けてほしい。
なぜなら、差別を助長するから。

アスペルガーあるある、と書いてあるけれど、わたしは、アスペルガーにこういう特徴があると、寡聞にも知らない。
聞いたことがない。本当にこれはアスペルガー(ASD)の特徴なの?

これは、「優れているところがあるなら、生存を認めてやろう」ではないのかしら。
優れたところがなくても、生存は認められなくてはならない。

そして、たいていの発達障碍者は言語的弱者だと思う。
(わたしは言語的には強いけれど、支配されやすいので、家庭内では、言い負かされ、気持ちを踏みにじられる)
文化摩擦については、わたしも本当に疲れている。

今、現在、千田先生のツイッターというコミュニケーションによる、文化摩擦に消耗している。言語的強者である千田先生に、弱らされている。
じゃあ、これは攻撃なんだろうか……。揚げ足を取るつもりではなくて、これが、本心ならば、たいていの人は、千田先生よりも言葉がうまくないので、千田先生が、こうした偏見を助長する発言をすることは、マイノリティに対する攻撃になるわけです。


時と場合によるけれど、この場合、差別的な意図にとれる発言に、回答しないのはそっちのほうがおかしいと思う。
そして、それって変ですよ、と言語化することがそんなにもたいへんなら、わたしたちが定型に合わせることがどれだけ大変かわかってほしい。
裏を返せば、「それって変ですよ」と言語化する以上のことをわたしたちは常にしているので。


これは、いつも、自分の気持ちを踏みにじられ続けてきたから、相手を説得するために、使う場合も多い。
少なくともわたしの場合はそう。
「心がない」と言われて育ったから、「それはいやだ」で済む話を「それはいやだ」だけで伝わると思えないから、いろいろな権威を持ち出さざるを得ない。

ただでさえ、アスペと言われる。
そして、反論すると「アスペだから空気読まずに反論する」と言われる(丁寧に書かれていますが、そういう意味にとれました)。

定型に合わせたほうが得と言われても「それって変ですよ」と千田先生が言うことがたいへんなように、それ以上にそれが難しいから障害です。
そして、ずっと定型に合わせようとして、二次障害になった人、命を落とした人がたくさんいます。
わたしもその一人で、双極性障害をはじめとして、適応障害、パニック障害の治療を今も受けています。
だから、簡単に「合わせたら得」と言わないでほしい。
できるのなら、障害じゃないのだから。

それに、自分が「それって変ですよ」ということで、発達障碍者に合わせることがたいへんだとわかるのなら、逆のことも想像してほしいです。


これって、本当に残酷で、わたしは気分が悪くなった。
「お前は発達障害だからわからないかもしれないが、これが常識である」というメッセージは、わたしを打ちのめした。
そして、これが通れば、わたしが抗議したいことがあっても、「発達障害だからいろいろな意見が流せない」ということになってしまい、わたしの苦痛は無効化される。

このツイートが一番悪質だと思った。

批判されたら、スペクトラムだからと言うことも。気に入らない人にラベルを付けているだけに見える。

「暗黙の了解で、対話は、相手が話してもいいと思う時だけ成立する」のなら、抗議者が語れる機会は永久に来ない。
だったら、その「暗黙の了解」の正当性を疑うことが重要だと思う。
その「暗黙の了解」は、本当に、存在するものなのか、そして、その了解によって起きている不利益がないのかどうか、考える機会になるから。

わたしがほかの人と違うのはわかります。
でも、どう違うのか、わからない。必死で、疲れきるまで、「文化」のパターンを覚え、それにそうようにしていて、疲れ切って、わたしは双極性障害になりました。
覚えれば得、という言葉を言える立場との断絶がある。大多数に合わせられれば、得なんだろう、でもできないんだよ。

知らないからやらないのではなくて、知っていても、できないから、障害なのです。
子供のころから、「違う」といじめられてきて、「わたしはほかの人と違う」といえば「違わない」「自意識過剰」と言われて、出口がなかった。
どれだけ、「普通」になろうとしても、頑張れば頑張るほど「差異」が明らかになり、「自分勝手」「自分のことしか考えていない」と言われ続けてきた。

あっさり、ものすごく違えば、「そういう人」と認識されるけれど「ちょっと違う」と攻撃対象になる。
その絶望と一緒に、ときどき死にたいと願いながら、なんとか生きているときに「大多数の文化を知っていたほうが得」「文化の違い」と言われてしまうと、本当にしんどい。削れる。ただの文化の差で、わたしは死にたいほど追い詰められているのか。文化の差なら、定型の人はわたしたちを尊重してくれるのか。

そして、「発達障碍者」と言われている人は、定型の人にとって都合の悪い行動をとっている人を「この行動や性質は発達障害だろう」という風に箱にしまって、言っている気がする。
わたしは違うといっても「自覚していないだけ」「自覚していないのが証拠」と言われてしまう。
これは、言われたことがないとわからないかもしれないけれど、本当に残酷な言い方だ。
話しても話しても、伝わらなくて、水中の中で、空気がないのに、呼吸をしようとしてあえぐような、溺れて水の中に沈んで行ってしまうような気持に似ている。

わたしからすると、「定型発達だ」ということを自覚していないのは「定型発達のほう」です。
でも、違う、おかしい、というと「おかしいと思うのがおかしい証拠、普通ではない証拠、自覚がないのが病気の証拠」といわれてしまう。
わたしの価値観は、狂っているのかとずっと悩んできた。

これを書くのは、千田先生のツイートを読んで、自分の頭が狂っているのじゃないかと、苦しんでいる仲間のためです。


例外が多いのならば、発達障害の名前をラベルとして使わないでほしい。
医学的に定義がなく、スペクトラムだから、例外もあるのなら、発達障害を出すことで、差別が助長される危険のほうが大きい。

千田先生の一連のツイートを、たぶん全部読んだのだが、「発達障害者はしゃべるな」ということに集約される。
暗黙の了解が分からない、っていうのは、そういうことだと思う。
こんなことを言われたら、抗議できない。

千田先生の言う、アスペルガーや発達障害の特徴としてあげられるもののほとんどを、わたしは聞いたこともない。
知らない。
見たこともなければ、会ったこともないです。
わたしは、ASD診断を受け、それをオープンにしているい人と交流してきたけど、本当に見たことがない。
本当にそうなのか疑問です。
(あるあるというなら、発達障害をオープンにしている人にたくさん会わないといけない。もし、「この人はそうかも」と思ったとしても、診断はとても難しく多岐にわたっていて、何時間もかかるものだから、決めつけて言うしかないけれど、その決めつけ自体が差別であり偏見だから)

たぶん、千田先生が、嫌な人にあったときに「この人はきっと発達障害なんだろうな」という納得をしてきたのだろうと思います。(それ自体が差別ですが)

ということなので、リプライを送ることはしない。


人の性暴力被害を利用するな

菅野氏の裁判で、ゴヒエツコ氏側が出した声明がある。
わたしは、それにすごくむかついている。
菅野完氏から受けた性的被害に対して損害賠償を認めた東京地裁判決(8/8言渡) 及び同判決に関する被告側の態度についての声明

>>本件ブログには、事実でないことや被告の一方的な解釈によることがあたかも事実であるかのように多数記載されており、被告にとって都合の悪い事実には触れられておらず、非公開で行われている裁判所での和解協議の経緯が、不必要に詳細にしかも不正確に記述されている。

事実でないことが書いてあれば、具体的に書けばいい。
こっちの声明こそが、あいまいなことを書いている。
何がどう不正確か書けないのではないのか。

被告代理人が本件ブログをインターネット上に掲載したことで原告の個人情報や事実無根の情報がネット上で拡散される事態となり、原告は精神的苦痛を受け、再び体調を崩し、被害が拡大している。

個人情報や事実無根の情報というのは、具体的には、わたしのこのブログを指すのだと思うが、事実無根ではない。
ゴヒエツコ氏がした加害、つまりわたしの被害をなかったことにすることが、本当に許せない。
性暴力被害者というが、ゴヒエツコ氏が、わたしや、ほかの性暴力被害者にした行為は許されるものではない。
自分のしたわたしへの精神的暴力を棚に上げて、菅野氏は加害者だと言い募るのは、矛盾している態度だ。

くじけそうになったとき私に勇気をくれた詩織さんと同じように、この結果が、黙らされている誰かに勇気を与えられると信じたいです。

一番腹が立ったのは、この部分だ。
ゴヒエツコ氏は、どこも詩織さんと一緒じゃない。
自分で何もせず、わたしにブログ記事を書かせ、そして、わたしに加害したことを問いただせば、逃亡して、知らない顔をしたばかりか、この声明で、わたしをさらに踏みにじった。
詩織さんが、自分以外の性暴力被害者を利用したり、踏みにじったりしただろうか。
詩織さんの名前を出すことは、本質的には、わたしという性暴力被害者の経験から出た言葉を利用した行為と同じだ。
おぞましい。

原告は「言論制約のために裁判を起こして」などいない。

ゴヒエツコ氏本人は、わたしに「社会的制裁をしたい」「社会的に滅殺したい」と言ってきたけどね。

少しでも性暴力について声を上げられる社会になることを願います。

絶対におかしいだろう。
もし、そう思うのなら、わたしに菅野完氏を誹謗中傷した記事を書かせ、その責任を全部取らせて、わたしを言葉で傷つけて、対話をしなかった行為を反省しろ。わたしの口をふさいだのはゴヒエツコ、あなたじゃないか。

菅野完氏の講演会に、電話をして中止させる人たちも同様だ。
ゴヒエツコ氏の被害を利用しているんじゃないのか。
自分が遭ったわけじゃない被害を利用しているんじゃないか。
いいことをしているつもりかもしれないが、最低だ。

わたしは、性暴力に遭った。加害者のことは憎いが、だからといって、わたしが何をしても許されるとは思っていない。
まして、ゴヒエツコ氏は、わたしや、わたし以外の性暴力被害者を踏みにじって、自分だけが傷ついているような声明を出した。
こんなことは許されない。そして、彼女のために動いている人や、菅野氏の講演会を中止するために動いている人たちも同罪だ。

性暴力被害者を利用するな。


性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで

まず、言いたいことは、性被害について語るならば、当事者が自分のタイミングで、話したいと願ったときか、もしくは、治療上必要な時、安全な場面で、本人が納得したうえでということです。

もしも、性暴力被害者ではない人が、性暴力について語るならば、そのひどい実態はすでに語られたものを調べて知るべきで、被害者に語ってくれと呼びかけるべきじゃないです。それは、それ自体がすでに暴力です。
ほかにも、いろいろな側面で語ることができますから、性暴力被害を防ぐために、男性ができることを話し合うとか、もし、加害を見つけたらどういって阻止するか、男性同士の意識改革をどう進めるかとか、そういうトピックスを選んで話してほしいです。
そういう関わり方ができるはずです。模索してほしいです。

ツイッターの、狭い範囲のことですが、性被害について、カジュアルに語ろうという動きがあるようです。
それは、性暴力被害者、当事者からあったわけじゃなくて、ある男性が言い始めたようです。

わたしは、そのツイート群を見ているうちに、だんだん具合が悪くなってきました。
最初は気づかなかったのですけれど、夜にひどいフラッシュバックが起きました。

語り合おう、と言われると、自動的に、「ああいうこともあった」「こういうこともあった」「もし話すならば、こういうことを話すのだろうか」「ほかの人はこういことを経験したのか」そういうことを想起します。

自分で、よし、考えようと決意して考えるわけじゃなくて、自動的に頭の中を映像や音や生々しい感触とともに、どんどん思い出していきます。そうすると、いつの間にか、感情の渦が巻き込まれます。

この、フェミニズムの真ん中という言葉がとても大事なことです。
性暴力をなくそう、そのために男性に関心を持ってもらう……。
このことは全然間違いじゃないです。
だって、性暴力加害者の99.7%は男性だから、そもそも、男性の問題です。
わたしは、被害者ですが、お金を出して本を買って読んで言葉を得て、こういう風に時間や感情を使って、文章を書いて、人に伝えようとしています。
でも、加害者の性別の人たちは、別にお金を出して勉強もしないし、知ろうとしないし、無関心です。
そして、女の人が言っても「嘘」「おおげさ」「盛っている」と思っている男性が多いです。
だから、男性が声を出して「語ろう!」というと、やはり、厳しい批判を浴びることにはなります。だって、本来は男性が負担すべき事柄なのに、被害者が勉強して語ってきたことを、なかったことのように扱って、男性が言い始めて、ようやく「そんなひどいのか」ってわかってもらうなんて、わたしの気持ちとしては、不条理を感じます。

性暴力加害者の99.7%が男性なのに「男が性暴力を振るう」という表現を使うと「男という主語が大きい」「犯罪を犯さない男もいる」と言われて非難されてきました。
だから、いちいち「制度上の男」という言い方をして、但し書きをつけて、注意しながら書いてきました。
でも、同じことを男性がすると、ほめられ、多少の言い方は見過ごされ、そして、雑に性被害について語り、自分の被害でもないのに、他人の被害を集めて、男性同士で話し合うっていう状況です。

わたしが言いたいのは、被害者は、それに協力する必要がないということです。
わたしは、男性同士が話し合うことについて、邪魔しません。
でも、性被害について、新たに、被害者に語ろうと呼びかけることはやめてほしいと思います。
すでに、いろいろな人が、わたしを含めて、語ってきました。
ネット上でも、書籍でも、性暴力についてたくさんの人が語っています。

勇気があるとか尊敬するとか言われたくて書いているわけじゃなくて、身を切るように、自分がこういう目に遭ったということをなかったことにしたくない一心で、書いてきたわけです。
人に「語ろう」と労力を再び差し出させるようなことをするのは、非常に権力的な行為です。
自分が労力を割こうとするのではなくて、他人の労力を借りるということに、すでに暴力性が存在しています。
また、性被害を思い出させることについて、配慮が欠けています。
クローズな、安全な場所をつくることは、最低限必要です。

男性が、興味を持ったことをありがたいと思う人がいるのは、それはそれで当然だと思いますが、批判が生じるのが当たり前だということも、またわかってほしいと思います。
(わたしも電子書籍で書きました。下記リンクはアフィリエイトです)


わたしたちは人工的に「自然」を作り上げている

わたしが赤ちゃんを産み、育てる過程でわかったことは、人間のふるまいのうち、本能に起因するものは非常に少ない、ということです。

生まれたばかりの赤ちゃんは目も見えません。
なにもかもぼやけていて、境界がない。
わたしたちが物を見るときには、その輪郭線を抽出して、あたかもそこに「線」があるように認識してみます。
光を目が受け取って、処理するときに「明るいところと暗いところの差が激しいところ」に物体と物体の切れ目があるように予想できるようになるまでには、光をただ目で受けるための機関があるだけじゃなくて、脳が発達しないとだめなんです。

赤ちゃんは、自分の体をまだ知りません。わたしの子は、二か月たった今、ようやく、自分には手があるようだ、ということに気づいたところです。
生まれたばかりの赤ちゃんには、いくつか反射があります。手を握ると握り返してくれるとか、口に乳首を入れると吸い付くとか、そういう反射があります。
でも、今でさえ、自分から乳首を離したら、口の中から乳首が消える、という因果関係もわかりません。泣いて怒ります。自分から乳首を「うえっ」と出したくせに、ないと怒ります。自分がのけぞったり、手でつっぱると、乳首が口の中に入りようもない、ということもまだわからないのです。

これはとても興味深いことで、わたしたちが「当たり前」だと思っていることは、かなり分解して考えられた結果だということです。
吸い付いている乳首から口を離したら乳首がなくなる、というのは、「自然」ですが、それを理解するかどうかは「自然」じゃないわけです。乳首から口を離す、そうすると口の中から乳首がなくなる、泣く、これは因果関係を理解するという行為です。
これはもう思考の範囲だから、「人工」的なことであって、本能ではないのです。
「本能」と言われること、「生物学的に自然」と言われることはたいてい嘘です。
生物学的に自然と言っても、生物の種類によってその振る舞いは全く別です。本能として、生まれたときから持っている能力というのは、人間の場合、自発呼吸、眠る、口に何か入ったら吸う、足を曲げる、握り返す、泣く、くらいです。
指をしゃぶるという行為すら、時間をかけて、発見し、練習し、学習して、獲得することなんです。

唯一「自然に」行われることは、人間は、「発育することに前向き」だということくらいです。
成長していくことだけは、自然に進んでいきます。それが早かったり遅かったり、刺激を与えることで、よりスムーズに進むようにすることはありますが(つまり、この時点で人工的な部分が紛れ込んでいます)、発育していきたい、という欲求だけは、もともと備わっているようなのです。
ただ、それも、「学習」によって、進んでいくようです。

社会は頑張って異性愛者を育んでいる 同性愛は先天的か後天的かの議論を超えて
この記事が面白かったのですが、ようは「自然発生的に」「欲望するということ」はなにか、という問いだと思いました。
わたしが見る限り、自然発生的に欲望していることは、「成長する」「発育する」ということだけです。
発育した結果、「何かに欲望を持つ」ことになるわけだから、その何かが選ばれる過程は、わたしの「親」という立場からすると、「自然発生的」欲望じゃないです。
わたしが、例えば「異性愛」が普通だと教えたとしても、それに対する反応が、「それをそのまま受け入れる」としても、「自分はどうやら違うようだ」と思うことだとか、「自分も異性愛というやつらしい」と思うかどうかは、わたしは操作できないです。
ただ、「それが普通」ということは言えます。でも、それはすでに恣意的なわけです。つまり、人工的だということ。
そもそも「この人は女だ」「この人は男だ」と判断すること自体が、かなり雑です。
二つの分けるということは、ある特徴のある生物群を抽象化するという過程をどうしたって経ないといけないわけですが、それも「思考」なわけです。まず、五感で感じて、それを人だとか動物だとか生物だとかそういう風に認識して、それからさらに、その特徴を抽出して、今まで得てきた情報のデータベースに照らし合わせて「この人は女/男」だという答えを出すわけです。
でも、それを答え合わせするわけじゃないし、答え合わせしたところで「正解」かどうかもわからないわけです。

異性愛という概念が成り立つ前提には「女と男というものがあるらしい」「自分と同じ性別というものがあるらしい」ということが了承されていないといけないのですが、そもそも「同じ性別」というのが上記の記事でもあるように、すでに怪しいのです。
自分がこの人は女だ、と判断した人が、「女」であると確実に言えない。
外性器が女かもしれない、内性器が女かもしれない、染色体が女かもしれない、自意識が女かもしれない、どの段階で女かどうか判断するか?
わたしたちには、それが難しいから、記号的に「こういうふるまいをするから」「こういう体つきだから」「こういう衣服を着ているから」と文化的に判断します。誰が女か男かを決めること自体が、文化に依存します。日本だと外性器が女か男かで決めることが多いです。外性器が女だったら女らしい振る舞いをして女らしい服装をします。
だから、男性はおおむねスカートを穿かないし、女性は上半身裸で過ごさない。それをすると、「文化的な秩序」が壊れて、当たり前として了解している約束事がぐらぐらして、人は不安になるのでしょう。
毎回毎回、「当たり前」について疑ってかかるのは、大変疲れることです。

自分が女か男かもはっきりしない状況で、自分が好きだと思った相手が女か男かわからない状況だと、「異性愛」という概念が発生しようもありません。だから、「自然に」異性愛になるわけじゃないのかなと思います。

親として、子供を育てていて、本能的に育てられる部分はほとんどありません。
せいぜい、産んだ後母乳をやると、子宮が収縮しやすい、赤ちゃんを抱くと胸がきゅーんとする(たぶんホルモンが出る)くらいで、かわいがって育てるとか、抱くとか、乳をやるとか、そういうことは学習してできるようになったことばかりです。

わたしは生まれつき備わっていることって、体の機能的な部分と、「成長したい」という方向性くらいだと思いました。
自分の体は自分のものであり、自分が大切にしていい、自分がコントロールできるという感覚だって、当たり前に最初から備わっているわけじゃなくて、周囲と本人の協力によって、育てていくものです。

わたしは、小学三年生くらいまで、いつか、ちんちんが生えてくるんだと思っていました。
心配なようであり、楽しみなようで、いつかな、と思っていました。
生まれつきちんちんが生えている子と、それ以降の行いによってちんちんが生えてきて女の子から男の子になる人間がいるんだと信じていたんです。
でもわたしにちんちんが生えてくることもなく、わたしは、ヘテロセクシュアル、シスジェンダーの女性に育ちました。

生まれつき「こうだから」じゃあ認めてあげよう、というのはそういうことで、おかしいと思います。
最初から最後まで変わらない人のほうが珍しいと思います。
人は揺らぎながら成長して、疑問に思うことを確かめることで、「自分」というものを確立していきます。
それは赤ちゃんの時から、少なくとも、わたしが今この年になるまでは、そうだったみたいです。

本能的に行われることがそもそもわずかなので、欲望に至っては、ほとんどが、知識や情報によるもので、それに対する反応は様々だけれども、それが個性と呼ばれることじゃないかなと思います。


あらゆる場面で差別はいけない

トランス女性を、その身体的特徴がゆえに、また、性的対象がゆえに、彼女は女ではないという議論を見た。
不勉強もあるだろうし、文脈も把握していないが、どちらにしろ、それは最悪な行為だ。

トランス女性が、差別をしたり、悪いことをしたなら、批判するべきだろう。

しかし、戸籍を理由にするなら、それは、性に関して公権力が介入していることに無批判なことを、むしろわたしは批判したい。
身体的な理由だったり、性器をオペしていないという理由だったりするなら、その言説は暴力だ。
それは、本人にもどうしようもないことだし、オペをするかどうかは本人が選ぶことだ。
その結果を、わたしたちはどうこう言えない。
わたしたちは、体に危険や負担や痛みを持つことを強いる権利はもちろんないのだ。
もし、強いるようなことを言えば、それは相手の命を軽んじる暴力だ。

わたしが、女に生まれ女の体を持ち女という自意識を持つのは、運がよかったからで、努力をしたからじゃない。
なのに、トランスにそれを強いるのはおかしい。努力せよとなぜ言えるのか。

トランス女性やトランス男性が、性的規範を取り入れることに前向きだったり、ミソジニックだったりするのはみたことがある。
それはもちろん批判するべきだ。でも、それは彼らがトランスだからじゃない。
差別がいけないことだからだ。

たとえば、未手術のトランス女性が女湯に入ってきたら、わたしはびっくりしてしまうかもしれない。場合によっては恐怖を覚え、パニックになるかもしれない。
でも、それは、そのことで、また考えて解決していかないといけないことだ。みんなで話し合うことが大事だ。

トランスに生まれただけで、温泉に入ってはいけない、というのは変だからだ。
(かといって、ほかの人の気持ちをないがしろにしていいということでもない。同じ理由で、トランスの気持ちをないがしろにしていいというわけでもない)

今は、フェミニストと名乗るのは流行っていないようだ。
偽のフェミニストか、本物のフェミニストか、ああだこうだ言われることがいやだという理由も見た。
正しさを自分ばかり要求されるのが嫌だという理由も見た。

誰が何を名乗ろうと、自由だ。
でも、ミサンドリストを名乗ろうと、フェミニストを名乗ろうと、ツイレディを名乗ろうと、差別をしてもいいという理由にはならない。
どんな人でも差別をしてはいけない。
それが前提だ。

ミソジニストが差別をしても、野放しにされているように、見えるのは確かだ。
でも、彼らは、悪いことをしている。
彼らが悪いことをしているからと言って、ほかの人、ミソジニストに差別されている側の人間が、ほかの属性の人間を差別していい理由にはならない。

わたしは、自閉傾向を理由として、または、それを知らない人に(親に)、人の心がないといわれる。
でも、彼らは、それを言って、わたしを傷つけている。
わたしが、彼らの思うように従わないから、彼らは「人の心がない」という。
人の心はある。場合によっては、思いやることもできる、優しいこともできる。

自閉傾向があると、相手がカサンドラ症候群になるという人もいる。
そういう人もいるのだろうけれど、わたしたちは、つまり、ASDは学ぶことができる。
相手の言うことを聞いて、顔や声や動きを観察して、相手の気持ちを推し量ることはできるようになる。
わたしも、パートナーも、自閉傾向が強い発達障害だが、わたしたちはお互い思いやって生活できている。
笑う、泣く、怒る、全部、ある。相手が悲しんでいたら抱きしめる、話を聞く、温かい飲み物を入れる。
赤ちゃんが何を要求しているのか、観察して、泣く前に対処することもできる。
手をあげたら、おなかがすいているサイン、ぴ、ぴ、と言ったら、おむつ替えのサイン、えーい、といったら、うんちのサイン、などちゃんとわかる。
定型発達(おそらく)の人はそういうことには気づかなかったと言っていたから、定型発達の人だけが、気を遣えたり、空気を読めたり、人の感情が分かるわけではないようだ。

わたしの思うに、察するという能力は、「権力者の意をくみ、その通りに動ける」ことを意味していると思うので、わたしにとっては、それは定型発達の長所ではなく欠点だと思う。

話が反れたが、貧困、片親家庭、低学歴、障害、病気、体の特徴、国籍、人種、全部、差別の対象になる。そして、差別をしてはいけないということには変わりない。その前提を忘れた人は、悪い行動をとってしまう。悪い行動は批判される。

そんなシンプルな話なのに、女性差別と闘う人が、「窮屈だ」というのは滑稽にうつる。
それは、女性差別をしている人も、批判されて「窮屈だ」と思っているだろうし、セクマイ差別をしている人、最近ではとんねるずで笑っていた人たちも、窮屈な世の中だと言っていた。
差別をする側が窮屈になるように、わたしは動きたい。そして、窮屈だった人たちが、息をしやすいようにしたい。

わたしも、この前「頭のおかしい人」という言い方をした。妊婦にけりを入れる男について形容したのだが、反省して、倫理観の欠如した人に言い換えようと思う。そして、これもいつか、批判される日が来るかもしれない。
そうしたら、わたしは、少しずつバージョンアップしたい。


セクシャルマイノリティについて、思うこと

わたしがセクシャルマイノリティについて、初めて認識したのは、「クィア」という言葉であった。
クィアジャパンという雑誌があることを、上野千鶴子先生の論文で知った。
だから、「クィア」な人がいるんだなと思った。
新井さんの漫画、「性別がない」では、ひげを生やした女、ちんこのある女、女になったり男になったりする体の持ち主がいることを知った。


そして、ずいぶん年月が経ってから、トランスという言葉や、セクシャルマイノリティ、アセクシャルという言葉を知った。
ゲイという言い方をしたほうがいいことや、レズビアンときちんというべきだということも知った。

クィアジャパンの著者は、たとえ、偏見がある記述でも、「論文」に「ゲイ」が取り上げられたことをうれしく思ったと書いていた。存在を肯定され、公に認知されたと。(そういう時代だったということ。ないものと扱われているような時代背景だったから。今では当然状況が違う)

わたしが、独学で勉強したのはもう十年以上前のことだが、そのころ、フェミニストと呼ばれる人たちは、熱心に「クィア」な人と関わろうとしていたように思う。
「比較文化」を研究している先生に、ゲイ男性を紹介され、話したことや、迫害されてきた人種の人と話せたことはいい経験になった。その先生とは袂を分かつことになるが。

だから、わたしは、ネットで、セクシャルマイノリティの人の発言を見るまでは、フェミニズムと、セクシャルマイノリティは、親和性が高いと信じていた。ジェンダーの問題と、セクシャリティは、とても近いところにあるから。

だけれど、トランス女性、トランス男性が「性的規範」に非常に忠実な人も多いこと、ゲイカップルや、レズビアンカップルが結婚の権利を求めている人もいることを知って、わたしはがっかりしてしまった。
それらは、わたしの打ち壊すべき課題だったから。
戸籍制度も、性的規範も、女性差別の温床だ。

シスヘテロが、何も苦労しなくても、結婚できるのに、そうじゃない人にはそれができないのは、不公平だという意見を見ても、もやもやしていた。しスジェンダー、ヘテロには、結婚を求めるなとは言わないのにという意見だった。
わたしの知っている限り、フェミニストたちは、結婚をボイコットする人たちもいたし、結婚制度に反対をしている人もいたから、それは事実誤認だと思った。だから、もやもやした。

わたし自身は、事実婚を選んだ。それで、わかったのだけど、異性愛の場合は、今までいろいろな人が戦ってきてくれたおかげで、どこにいっても、事実婚だということを話しても、夫婦として扱ってくれる。帝王切開の時のサインも、無事、姓の違うパートナーが書いた。姓が違うことについて、誰も事情を聴かなかった。
事情を聴かれたのは、福祉の支援をしてくれる役所の人くらいだ。それで、ようやく、わたしは、「家族」を作るうえでの自分の特権性に気づいた。同性愛者は、きっと、こんなにすんなり、家族扱いされないから、結婚という形を求めるんだということに気づいた。

また、トランス女性やトランス男性が、性的規範を強く身に着ける理由もわかった。
ツイッターで、トランス女性に「おっさん」と言った人がいたのだ。こんなひどいことをどうしていう人がいるのかと思った。
本物の女性かどうか、わたしは、判断されない。女らしくないとののしられたり嫌がらせされたりすることはあるが、女か自体は疑われない。それは、誰が見ても女だからだ。
でも、男の体を持っている人は、本物の女かどうか、振舞いから採点されてしまう。
だから、「真の女」の基準を探してその通りにふるまうとしたら、規範が必要になるんではないかと思った。

また、トランス女性は、たぶん、成長する間に、「女性ならではの嫌な思い」にはあっていない。
女の児童として暮らしているときの、あらゆる差別を、実際に受けていない。
(最初に性被害を聞いたのは、年中の時。近所のお兄さんが侵しをくれる代わりに触ると言っていた子がいた)
もちろん、セクシャルマイノリティとしての差別は受けていたと思うが、わたしの経験とは異なるものだろう。
そういうことに思い当たった。

ゲイは、男性だから、男社会の恩恵を受けている。
だから、女性差別についてはもっとぴんと来ないだろう。

そういう意味で、セクシャルマイノリティだからと言って、フェミニストであるとか、フェミニズムについて詳しいとは限らないのだ、ということがわかった。あえていうと、ミソジニーのセクシャルマイノリティもいるのだろうと。

それは、フェミニズムの本を通して、セクシャルマイノリティという存在を知ったわたしにとって、衝撃だった。

でも、考えてみれば、セクシャルマジョリティの多くは、女性嫌悪であり、女性差別者である。

わたしの知る限り、フェミニストたちは、セクシャルマイノリティのことを考えることで、フェミニズムについての考えも深めてきた歴史がある。
(もちろん、その過程で、いろいろいいことも悪いこともあったと思う。前述した上野千鶴子先生の論文にもゲイへの偏見があった)

だからといって、彼らがフェミニストであることを求められないし、必要以上に彼らに期待しないこと、つまり、セクシャルマジョリティへの同じくらいの失望で済ませるべきだ、と思った。
だって、わたしは、フェミニストだが、セクシャルマイノリティに対して、関心もあるし、学びたいと思っているが、一生、きっとわからないこともあって、間違い続けるだろうから。
わたし自身も、クィアと言っていい部分がないわけじゃない。でも、わたしがわかっているのは、わたしのことだけだ。
わたしのことだって、全部わかっているわけじゃない。

フェミニストでも、セクシャルマイノリティに対して、暴言を吐いたり、差別いたりする人がいる。

だったら、セクシャルマイノリティに、女性差別する人がいても、当たり前だろう。

それがいいと思っているわけじゃない。

差別は悪いことだから。

どうして、こういう危うい記事を書いたかというと、自戒のためであり、わたしの途中経過を記したかったから。
こういう属性の人は、こういうことをしないはず、思わないはず、詳しいはず、という思い込みは、道を誤る。
だから、思い込まずに、行動したり、話したり、したいな、と思った。
(わたしは、小学四年生まで、いつかちんこが生えてくると信じてずっと待っていた)

健常者にも、障害者にも、セクシャルマイノリティにも、セクシャルマジョリティにも、フェミニストにも、いろいろな人がいて、いろいろ間違っているということがありうるということ。

わたし自身も間違える。
ただ、正しい、正しくないで分けること自体が「ノーマルかどうか」を分けた差別構造と同じになってしまうから、それだけは気を付けたい。差別をしない、排除をしない、してしまったときは改める。
差別をしていた人が改めたとき、それを文章にして公開することを責める風潮があるけど、わたしはそれに反対。
その文章で傷つく人もいるのはわかるけど、変わった人をわたしは歓迎したい。チャラにはしない。


フェミニズムと差別、差別されることと排除

今日は、フェミニストが、差別者に向かって「精神疾患持ちの男は」という言い方でののしっていた。
個人的には、悪口を言おうが暴言を吐こうが、好きにしたらいいと思う立場なのだけど、精神疾患を持っているわたしは、泣いてしまった。
精神疾患は、虐待や差別がトリガーになって、発症することも多い。それが、「差別をする人間」として、「精神疾患を持つ人間は差別する」という偏見を下敷きにして、ののしる言葉に使われたので、ショックだった。

女性差別が原因で、精神疾患になった人だっているのだ。
(たとえば、教育熱心な母に抑圧されて、もしくは、境界を侵害され、人生を乗っ取られてしまったという場合は、もともと、その母が自分の人生を生きてこれなかったという原因がある。その母をそのような境遇に追いやったのは誰なのかということだ。親は大人だから、自分で自分の問題を解決すべきだが)

アルコール依存症をはじめとして、あらゆる依存症は、女性差別が原因になる場合も多い。
男性なら、男らしさを背負うことや、戦争から復帰してからのPTSDを紛らわすための飲酒、女性なら、社会と隔絶させられたためのキッチンドランカー。
体を与えなければ愛されないと思い込んだセックス依存症。
痩せないといけないと思ってしまって始める摂食障害。ストレスを紛らわせるための過食。成熟した体になることを避けるためにもなる。
リストカットをはじめとした自傷も若い女性に多いのは、若い女性の背負わされている現実があまりにつらすぎるからだと思っている。
統合失調症や双極性障害、うつ病が発症するときも、虐待が原因だったり、ストレスが原因だったりする。
その症状も、差別への反応ということも少なからずある。

わたしにとって、フェミニズムとあらゆる差別、帝国主義、貧困、学歴主義、国籍や、戸籍制度、セクシャリティによる差別、夫婦別姓、既婚未婚、子を持つか持たないか、からはじまって、それらは同じ問題だと思っている。
たとえば、女性たちがマルチ商法や自然食品から始まるカルトにはまることも、結局差別が原因だと思っている。

天皇制度、在日韓国人差別、沖縄や北海道の差別などが地続きだ。一つのイシューとして認識している。差別は排除である。分断である。
帝国主義は男たちが始めた。そして、女性は、社会の中心から追いやられてきた。
マイノリティは、一つの差別しか受けないわけじゃない。
マイノリティは、複合的なマイノリティの要素を持つ。
(もしくは、あるイシューではマイノリティでも、そのほかのイシューではマジョリティで誰かを迫害してる場合も多い)
健康な、年に住む男性をモデルにした社会は、それ以外の人たちを「ノーマルじゃないもの」として排除する。
そして、わたしたちは、病む。

わたしは、きちがい、という言葉は比較的平気だ。それは、病名じゃないから、少し遠い言葉として感じる。だからといって、使っていいとも思わない。わたしが精神疾患もちは、差別をする人間だ、と言われて、涙が出るのと同じ気持ちをほかの人に味合わせるからだ。

わたしは、「野に放たれた頭のおかしい人」という言葉を身内同士では使う。例えば、妊婦にけりを入れる人間、障害者であるわたしに「子供は親も障害を持って生まれることも、選んで生まれてきた」と言ってくる人間に関して、「頭がおかしい」以外の言葉を知らないからだ。もっと適切な言葉があればもちろん言い換えるけれど。まだ、適切な言い方が見つからない。

精神疾患を持っている、という辞任を持っている人は、自分と向き合っていると思っている。
病気を認識して、症状をコントロールしようとしているからだ。

もちろん、「野に放たれた頭のおかしい人」という言い方も問題がある。
医療にアクセスできない人がいて、その人を踏みにじるからだ。
(精神疾患への差別や偏見を持ってるから医療にいけない人もいるという皮肉な事態もある)
これも、わたしは当事者だったことがあった。
家庭内で、「頭がおかしい」「ボーダーだ」と言われていて、境界性人格障害の症例を読まされたことがあった。
カウンセリングの資格を取ろうとしていた母の練習台に日常的にされていた。
これから、練習させてね、と言ってするんじゃなくて、普段から頭がおかしいから、カウンセリングの方法を利用して会話するという感じだ。
わたしは、高校生の時に、不眠や幻聴が聞こえて、限界だと思った。
それで、精神科に行きたいと言った。そうしたら、「就職差別される」と言われて、行かせてもらえなかった。
(産婦人科も、行かせてもらえなかった。子宮内膜症だったのに)

わたしは、二十歳の誕生日に母から三歳児対象のおもちゃを渡された。泣いて講義したら、「一緒に遊ぼうと思った」と言われた。就職するなとも言われた。わたしは、頭のおかしい、永遠の幼児として扱われていた。
だから、「野に放たれた頭のおかしい人」というのは、つまり、医療につながれない精神疾患の人、という受け取り方もされる。
わたしが言いたいことが、たとえ「妊婦などの弱者に、肉体的、精神的な攻撃をする人」「加害をためらわずする人」「無知からカルトにはまり、それゆえ、他人を傷つける人」を「頭のおかしい人」と言いたくても、やっぱり不適切なのだ。

精神疾患で、かつ、女性差別者もいるだろう。でも、健常者で、かつ、差別者もいっぱいいる。

フェミニストばかりが、いい子でいないといけないのか、トーンポリシングだ、という言い分もよくわかる。
でも、差別されたとき、わたしは、同じ言論空間からいられない。
差別は、排除なのだ。
一緒にフェミニズムについて語る隣の人が、精神疾患だった、ということは往々にある。
わたしたちは、隠すつもりはなくても、わざわざどんな障害を持っているか、どんな病気を持っているか、どんなセクシャリティ化は言わない。だから、知らないうちに、誰かを排除していることがある。

悪い言葉を使うことも、暴言を吐くことも、ののしることも、わたしは止めない。必要な部分がある。
わたしも言いたいときがある。妊婦時代に、けりを入れられそうになった時、「死ねクソじじい」と怒鳴った。
それは、わたしの回復のために必要不可欠な罵り言葉で、ののしってよかったと心底思っている。
ののしらなかったら、今も、ダメージを引きずっていただろう。

(とはいえ、その事件以降、昼間であっても一人で歩いたことが、いまだに一度もない。暴力は自由を剥奪する)

差別は誰かを傷つけるから、不快にするから、いけないのだというのは一面に過ぎない。
隣にいる人間を「いないもの」にしてしまうから駄目なのだ。それは、死を呼ぶ。
わたしも死んでしまいたかった。
わたしは、「それは精神疾患への差別ですよ」とは言えなかった。
わたしの心は折れてしまっていたから。

わたしは、その場から、消える。


フェミニズムという言葉を知らないまま闘っていた

わたしが生まれたのは、80年代だった。
機会均等法が制定され、女性たちが力づき、三十歳での定年が撤廃され、結婚してもしなくても、男と同じように就職ができるようになったころだ。
そして、女たちは、女性の活躍、社会進出を胸に生き始めた。
そんなころ、わたしは生まれた。
日本中が好景気に沸き立ち、いい面も悪い面もあった。公害はひどかった。長時間働くことで、欧米に勝って行ったので、非常に不評を得ていた。お金のめぐりが良いと、人間には余裕が生まれる。だから、文化面では、下種な部分、高貴な部分が入り混じっていた。

祖母の世代は、戦争によって男たちがいなくなったから、それまで男しか働くことができない世界に働きに出て、やればできるという感触を得た。そして、戦争が終わってから、家に引っ込められた(とはいっても、家事以外の仕事も担わされていた。賃金の出る仕事以外全部を女性たちはしていた。農作業含めて)。だから、戦後に、女性運動が盛んになった。

女たちは最初から社会で活躍しており、ずっと働いていたのだが、どんどん見えない存在になっていった。
わたしの母は、勉強をすることと、働くことと、良い妻良い母になることを求められ、引き裂かれた世代だ。

田嶋陽子さんがテレビに出ていた。ひどい悪口を言われていて、あんな女になるなと外で言われた。
母は、わたしに「手に職をつけて一人で生きていけるように」といい、田嶋陽子さんのエッセイの本を買ってきた。

ひどい家庭環境だった。

わたしには、情報が、テレビか、新聞か、図書館の本しかなかった。
小学生の時には、名簿が男から呼ばれることがおかしいと教師に訴えた。片付けをするのが女なのもおかしいと。
高校生になったとき、元男子校だったから、歴代の生徒会長が男性だったのが、初めて、女性の生徒会長が生まれた。
わたしの学年は、男女比が、均等になった。
(今は女性のほうが少し多いのだという)
女の成績が、男子と同じくらいか、少ししか上ではないとだと、男子のために、一つランクの低い高校を受けさせられる時代だった。だから、進学校に入るためには、とびぬけて、成績がよくないと、入試自体を受けられなかった。

ネットはあった。わたしは、将来の投資、これからの世の中にはパソコンが必要だと母が認識していたため、パソコンを買ってもらうことができた。
高価だった。
フロッピーデスクを何枚も入れて、OSをセットアップした。
電話回線を使って、テレホーダイが出るまでは、ひやひやしながら接続した。

ネットではチャットが盛んだったが、わたしは、そもそも「フェミニズム」という言葉をまだ知らなかった。
ウーマンリブ、女性運動、そういう言葉でしか知らなかった。

高校の時の図書館には、女性問題を扱った本があった。
地域の図書館にもあった。そこで、代理母の問題や、戸籍制度、国籍の問題、相続の問題を知った。
民法は古い法律だ。当時、若い学者が、もっと男女平等な法律を提案したのだが、つぶされてしまったそうだ。
だから、わたしが大学生になった当時も、夫婦別姓や、非嫡出子差別、介護をした嫁に相続権がない問題を扱って闘っていたのは、当時の学者だった。
今ある問題は、戦争に負けてからずっと議論されている問題だと知った。
新しい問題じゃなかった。

わたしは紆余曲折を経て、東京の私大に入学した。
わたしの母は、法律に関係した名前である。祖母が、法律を勉強してほしいと願ってつけた名前だそうだ。でも、彼女は、法律を勉強しなかった。それで、わたしは、法学部を選んだ。

当時、大学の情報を得るのには、パンフレットを請求するほかなかった。
どこにフェミニズム研究者がいるか、わからなかった。調べることが難しかった。そもそも、わたしはフェミニズムという言葉をまだそのころ知らなかったから、アクセスのしようがなかった。

入学した大学には、もちろん、女性問題を研究する研究者がいた。
でも、法学部で、学部生を教える先生はいなかった。
だから、わたしは、図書館で、田嶋先生の本を読んだ。上野千鶴子先生が有名だと知ってからは、上野千鶴子先生の著書や論文を読んだ。参考文献や注釈に書いてある本を探して読んだ。
ゼミは家族法を取ったので、家族問題に関する判例をあさっては読んだ。
詳しい人が周りにいなかったから、自分なりに考えて、どういう本があるのか、調べて、芋づる式に探すしかなかった。
ジェンダーという言葉も、クィアという言葉も、性的指向、性的自認という言葉もその時に初めて知った。
ジェンダーロール、役割、家父長制、天皇制が差別構造を維持していること、差別は、構造の問題だということ、権力問題だということ、パラダイムシフト、そういう言葉を一つ一つ調べながら読んだ。調べるといっても、辞書に載っているわけじゃないので、言葉一つ調べるのにも一苦労だった。
女性運動でどんな人がいてどんな議論があったのかも、できるだけ追ったが、きっと空白はある。

勉強すれば、フェミニズムのことはわかる。
今まで議論されていたことに、今の問題と重なることも多く、すでに結論が出ている。
だが、そもそも勉強することが難しい。

本にアクセスできる環境、体力、読み解く力、本を選ぶ力、そういうもろもろのものがないと、難しいのだ。
知りたいといっても、拒絶されることがある。
わたしは、ツイッターが始まったとき、「レズビアンアクティビスト」にコンタクトを取って、フェミニズムに興味がある、と伝えた。ちゃんと礼儀正しく、はじめまして、こういう問題に興味があります、と。でも、嘲笑された。真剣だったのに。
今は、どうして嘲笑されたのかわかる。その人は、知りたいと言いながら攻撃された経験がずっとあったのだろう。
もしくは、知りたいと言ってくる人間が、自分で努力しないで相手のコストを盗み取ることが多すぎたのだろう。

ただ、わたしは、その時ショックを受けた。
わたしは、勇気を出して、初めて、人にコンタクトを取り、話し合いたいと願っていたから。

わたしは、高校生の時からずっとホームページ、ブログと形は変えても、ずっと文章を書き続けている。
それは、世の中を変えたいと思っているからというよりも、孤独だった自分に向けて、自分の考えを整理するために書いていた。そして、孤独な誰かに届けばいいと願ってもいた。一人で勉強していたわたしのような人。
わからないことを知りたいと言ってくる人。

わたしは東京に出て勉強をすることができた。
今の若い人にはわからないかもしれないが、情報も学問も遊びも仕事も、そして人も、東京にしかなかったから、東京に出る意味があった。
わたしは、勉強をすることができない人の無念を背負って勉強していた。
うすうす、勉強ができる期間は東京で学生をしている短い期間だけだと知っていたから、必死だった。

わたしは、クソオスという言葉を使わない。それは、面倒だから。
そんなことで突っ込まれて、説明するよりは、ほかの言葉を使ったほうが楽だ。
そして、わたしにはその技術がある。
でも、その技術がない人もいる。

偏差値が50あっても、論説文になると、言葉を拾い上げて、そのイメージをつなげて、読んだという風に思う人がたくさんいる。
論理的な文章を読めない人が世の中の半分以上いるとわたしは思っている。

勉強をすればわかる、すでに終わっている議論がある。でも、本を読む状況にない人、能力がない人もいっぱいいる。

わたしは、結局凡人で、なにものにもなれなかった。

ただのわたし。でも、ただのわたしが、生きていた、勉強をしたということに意味があったと思う。今もあると思う。
わたしは、知りたかった。
この世のすべてを。

差別的なことをいうフェミニストもいる。
でも、そういう人を排除してはいけない。批判はもちろんするべきだ。
間違った人を排除していったら、昔のわたしは排除されて、勉強をやめていただろう。
そうしたら、間違ったまま、生きていた。

今だって、わたしは、間違っていることをきっとたくさんしている。間違っていることも認識できないでいるから。

だから、本物のフェミニスト、偽物のフェミニスト、と分けることはわたしはしないようにしたい。
それは、ある意味で、過去、未来、現在のわたしを、わたしから排除したくないという保身でもある。

思想のラベルが同じだからと言って、仲間だとも限らない。友達でもない。わたしは思想のラベルで仲良くしない。
人間観関係を優先して、言うべきことを差し控えることもしない。

トランス女性を、おっさんと揶揄したフェミニストがいた。
わたしは、それを差別発言だと思う。批判する。
気に食わないことを言う人がいても、性自認を否定することは許されない。

でも、やっぱり、その人がフェミニストであることも、わたしは否定できない。
いろんな人がいる。仲良くする必要もない。

わたしは、フェミニズムという言葉を知らなかったときから、フェミニストだ。
わたしは、フェミニズムの過去を背負いたい。
女性の無念を背負いたい。そして、次世代には背負わせたくない。だから、フェミニストと自認して、そういう風に言う。


反差別の中にも別の差別がある

一か月ぶりのブログだ恐ろしい。
睡眠障害が悪化していて、あまり眠れていないのだ。

(今日のエントリはすごく長い、長いので書くのにすごく時間がかかったし、冗長だという自覚はあるので注意されたし)
(短くまとめると、左翼は天皇制には反対するけど、帝国主義的なものはスルーするんかい、スルーするならエセ左翼と言われるくらいは甘んじろよという話です)

それはそうとして、在日韓国人が「日本のチャンジャのほうが韓国のチャンジャよりもご飯に合う。韓国のチャンジャは甘い」と言ったことに対して「甘いとは何事だ」「本場の人に対してそういう風に言うとは」「怒られても当然」という反応があり、そして、それに対して「エセ左翼」と彼が返していたら、非難されていたんですよね。

(解説すると、日本料理を韓国人がくさすときに、「甘い」という言い方をするらしいんですね、だから、韓国人の彼は、日本人の血を引く人間から言われた甘いという言葉をバカにされたと解釈したようだ、複雑な話だ)

あーむかついた。
なんでかというとですね、文化を抑圧することで植民地支配してきた歴史が日本にはある。
帝国主義を採用していた国(列強)は全部そうだ。
そして、日本は、在日韓国人(朝鮮人)を強制連行して、働かせていたのだ。
わたしの身の回りでも、松代で、天皇が住む予定だった地下防空壕を朝鮮人が掘ってたくさん亡くなった。

で、「本場の~」発言をしていた人たちは少なくとも右翼ではなくたぶん左翼思想の人たちで、左翼というのは「天皇制度」を否定する人なんだから、少なくとも、「天皇制」という差別については反対している人なんだと思う。

だから、在日外国人差別に対して「えせ」と言われるのは、文脈上仕方がないというか言われるじゃんねと思った。
文化を通して、人を侮辱する、アイデンティティを剥奪するということを実際やってきておいて、そして、今平成になってからもそれを言うのは、権力構造の維持、差別そのものだ。そういうのを批判したいんじゃないんですか左翼は。

また、「本場の~」を言ったのは韓国人だったらしいから、在日韓国人の彼は「お前は日本人でも韓国人でもない、お前が語れる文化はない」と言われたのも同然。

そもそも、左翼運動は、わたしの知っている範囲では「健康」「東京在住」「男性」「日本人」に偏りすぎている。
そして、そのことがいまだに問題になっている。運動の中でのセクハラ、女性におさんどんをさせる、表に出るのは男性ばかり、ってまだそうだからさ。ばっかじゃないの。

あさま山荘事件で、女性性を利用する、女性性を自己批判させる(そして、殺す)ということがあったのに、反省が足りてないんじゃないですかね。

これは、「エセ左翼は無礼」かもしれない。でもね、このツイートは差別発言だ。無礼と差別なら差別のほうが悪い。
「本場の~」も差別発言だが、このツイート自体も差別発言なんだよ、差別に加担したの。加害者なのよ。

他人事みたいに言っているけど、自分が差別しているんだよね。
解説みたいな風を装っているし、本人もそのつもりだろうけど、差別に解説なんてないよ。どっちかのサイドしかない。

左翼については当事者意識があるから痛みを感じるけど、在日韓国人(の何世か)の痛みはわからないといっているわけ。相手の態度が気に食わないんじゃなくて相手の態度が差別そのものだから、彼は、抗議しているんだけど、「差別をしていることを指摘されて、気づいたら、反省して、改めよう」という話が、抗議者への抑圧として作用しているんだよね。抗議だからそりゃあ、無礼な形になる場合もあるけど、無礼なのが常にダメなのかというとだめじゃない。

もともと言葉は、場面によっていいも悪いも変わるものだ、でも、いちいち全部考えて不適切か適切か、自分だけでは決められない、だって、相手の属性がオープンだとは限らないからさ、だから、PCというものが、次善の策としてあるわけだけど、PCが差別の後押しとして作用するんじゃルール作っている意味がないんだよね。

差別は悪いが、無礼は悪いとは限らないんだよ。権力者、権力構造に歯向かう以上、それは無礼だと思われることを避けられないんだから、「本場の(韓国料理が口に合わないというなんて)」という発言はスルー出来るのは、当事者じゃないからだ。それって、特権ですよ。でも、左翼だということには当事者意識があるから「えせ左翼」にはスルー出来ない。
比較していいことか悪いことかというといいことだと思うんで比較するけど、「本場の味を否定するな」という言い方と、「えせ左翼」という言い方がどっちが悪いかというと「本場の味を否定するな」だよ。しかも、在日韓国人の彼は「好みじゃない」と言っただけだから別に否定しているわけじゃないんだよ。
しかも、否定していい話なんだよ。

ある文化、ある味覚と、自分のアイデンティティが一体になっているから、「好みじゃない」と言われたり「嫌いだ」と言われて、ショックを受けることができる。
それは、アイデンティティの境界がだいぶ緩んでいる証左だから、言った側じゃなくて言われた側の問題だ。
そういう問題の在り方の切り分けができてない人が「本場の味」がどうこう言ったんだし、「えせ左翼」という言葉に反応した人もやっぱり切り分けができてない。依存しているんだよね属性に。まあおかしいこと。
自意識を依存できる属性を持っているというのは特権なんだよね。

「無礼だ」と思える余裕がある時点で、「自分が特権者だ」と疑ったほうがいいわけだ。


これとかなんでだめなんじゃ、と思う。
たぶん、左翼を分断するんじゃねえという話だと思うんだけど。
だって、左翼はもう自分から分断しているんだよね、女性をね。左翼とフェミニストはずっと最初から共闘できない。
左翼思想の鬼子としてフェミニズム思想が生まれたのだけれど、左翼がフェミニストになんかしてくれるかというとしてくれない。(してくれということじゃない)

女性同士でも分断されているんだから、今更すぎる。
女性たちは、立場によって分断されるように社会がずっとそういう体制を維持してきたから、今だって連携できるかというとできてない。だいたい、自由に女同士で会って話せるかというとそうじゃないでしょう。
シングルでも、既婚者でも、働いていても無職でも時間がない体力がないお金がないお金があっても自由がないとかで集えない状況がずっと続いていて、SNSでも、生活が違いすぎて話が成り立たない状況が今だってある。

左翼運動できるのは、前述したように「男性」「健康」「日本人」「東京在住」な人だけだからね。夜中に官邸前に集まろうと言ったって、例えばわたしは「具合が悪い」「地方から行くには新幹線か高速バスに乗るしかない(デモが終わった後には移動手段がないし、直前に言われて身軽に動けない)」「夜中に人ごみに行くにはパニック障害が出る(夜に性犯罪に遭ったことがある)」からできないんだよね。

というわけで、

こういう発言もわたしからするとナイーブすぎる。
エセ左翼には突っ込めるのに、本場の~には突っ込まないんだったら黙ってたらいいんじゃないの、最低限と思う。
別に二人とも嫌いなわけじゃないんだけど(というフォローが必要だと思うそういう状況自体が腹立つけど、なんでわたしが気を使ないといけないんだと自分に腹が立つよね)

正しい文化、正しい振舞い、それを強いることは支配だし、アイデンティティの改変を強いてきた立場の人間はそれを省みる必要があるよ。歴史的にも。とくに、健康な、日本人、男性、東京在住、のどれかに該当したら気を付けた方がいい。
だって、病院いけとか、それの援用であてこすったわけじゃない。
冷静になれば、この話は権力構造と周縁の話だとわかるのにわからないから、冷静になるべきだと思うし、左翼なら周縁化の話がわかってもいいと思う。

「冷静になれ」と言われても仕方がない立場の人が、言われても仕方がない場面で言われてるのに「冷静になれ」と言っている人を見るのに耐えられないんだよね。

本場の~が差別発言だと思うならそれを先に言うべきだし、「虐げられた」って言葉を使うなら、まさに「日本人(ゆーきむさんもこのざまさんも、たぶん日本人だろう)」が「在日韓国人」を虐げてきたわけで、自分を「虐げられてきた側」に感情移入しているのに、在日韓国人の虐げられてきた状況には感情移入できないのはどういうことなんだろう。今回は意味が正しいからOKになるよ。正しかったらOKでしょうよ。

(これ読んでもスルーしてたり、相対化して、彼にも悪いところがあるとか、解説したりとかそういう人もみんな差別者だよ。いつでも対応する必要はないけど、差別者ではあるのだ。わたしだって、体力ないからしょっちゅう差別発言スルーしているよ。でも、スルー出来るのは、差別されてない側だからだよね。わたしは差別者だ。そのうえでこの文章を書くんだ)

抗議者は正しかろうと正しくなかろうと、「言葉に気をつけろ」と抑圧される状況がある。
フェミニストもそうだ。女性ばかりが正しい振る舞いを女性ゆえに要求される。被差別者というのは、ふるまいとして、従順さも要求されるからだ。
(だから、差別される側の人種は、人種の特徴として従順と言われるよね。アジア人は従順でおとなしいといわれることとか)

以前エッセイで、インド人の歩き方がイギリス軍隊式だった、英語のアクセントもイギリス式だったというのを読んだことがある。
日本人で言うとお辞儀も、幕府から今の政府に代わったときに改められて、今も続いているよね、誰に支配されるかで歩き方もお辞儀の仕方、作法、食べ物、言葉、住む場所、職業も左右されるんで、それは現代の話なんだ。
首都と地方だと、発電所もごみ処理所もダムも地方に作られて、現在進行形で(人がいなくなった金がなくなったなどいろいろな理由だけど、つまり政治の結果だよね)村がなくなって文化ごと消えている現状がある。
日本人同士でも文化や住むところが消える、しぐさ食べるもの話す言葉の抑圧があるのに、そういうのを普段見なくて済んでいるゆえに考えてこなかったことじゃないのか。

わたしは、人間じゃない、感情がないと言われてきたから、日本人じゃない、韓国人じゃないといわれる側に感情移入する。

官邸前デモのムーブメントでもそうだったけど、デモに出て頭数になろう!って、いってる人いっぱいいたけどね、わたしは数じゃない。
そんで、なれないんだよ、数に、はいれない。
健康じゃないと、首都に住んでないと、数になれないの。
数になれということばは、わたしの特徴を捨てろと迫る言葉であり暴力的でありわたしが戦いたい相手でもある。
だって、わたしは、「女性」「精神障碍者」「発達障碍者」「二次障害者」「犯罪被害者」「地方在住」「パートタイム労働者」である側面を抜きにして、わたしでいられることはないから。

政治的行動が健康で東京在住で治安も気にしなくてよく、非犯罪被害者で、世話をする必要もない属性が前提でそれをクリアしてる人間ばかりみたいな感じなのが、こういう言動を顧みなくて済む素地になっているんだ。

それで、たとえばわたしが「わたしにはデモにいける体力がありません」と異議申し立てると「無理しなくていい」と見当はずれなことを言ってくるんだよね。だから、排除しているのについて、文句言っているんだから、「無理しなくていい」と許可を与えられたら余計腹が立つんだよ!お前誰だよ!えらいのか。ってね。

「どんな文脈でもエセ左翼とは言ってはいけない」と他人に言えるとは、どれだけ自分に甘いのか。

差別を目の当たりにしても、自分だけが大切で、そっちを非難する方が先。
差別をされた人の態度を、自分はたしなめたりせめたりする資格があると思ってることが権力なのに、そのことには気づかないで済ませる。自分を無垢なものだと信じられる。権力がないと思える。

在日差別を受けてる人が女性差別しないわけではないし、女性差別を受けてる人が、セックスワーカー差別をしないわけでもない。
右翼が女性差別について考えてることだってある。(天皇制を維持したいんだから差別構造を維持することにはなるけど)右翼が貧困の当事者で、その助け合いしてるとかもある。

左翼が女性に対してその女性性を搾取したり、女性性を自己批判させ(その上殺してしまった)たり、男性性についてはノータッチだったりする。または、トランス男性トランス女性たちが性規範を強固に支持してたりする。
ゲイ男性は男社会の恩恵を受けているし、結婚を求めるLGBTは、ヘテロシスと同じ権利を求めてもいるしその一方で婚姻制度の国家主義的な要素を維持して荷担している。
けど、じゃあわたしが家族としての法的根拠を求める彼らに対してどう思うかというと、自分の特権性を理解しながら批判することは可能だと思ってる。
その上で、自分は婚姻しないまま、結婚していると周りに説明して受け入れてもらえるのは、歴史的に戦ってきた人たちがいてそれに乗ってるからだとも思ってる。

障害者のなかにも、精神障害者はさらに差別されてるし、発達障害者はまた話が違うし、発達障害者の二次障害は死ぬのと同じとか言われてるが、わたしは二次障害当事者だ。
発達障害者の療育について疑問もある。療育に対する疑問を書いたら、療育を行っている発達障害当事者の親に怒られた。
二次障害についても思うことはたくさんある。二次障害を許容してると非難されたこともある。

許容もなにも二次障害は存在するんだけど。

でもそもそも、「二次障害には絶対なりたくない」というのは、突き詰めていくと、二次障害や「発達障害外の精神障害(双極性統合失調症うつ病)」を発症させてる人を低く見てると思う。
話が反れ過ぎたけど、差別について丁寧に書くと差別されている集団の中でさらに差別される人がいて、でも、その集団を出たら、差別する側に回っていることも、ままあることだということを言いたい。それは意識していないと理解できないことだ。
差別したくてしている人はあまりいなくて、普通に暮らしていたら、結果的に人を差別していたというだけの場合のほうが多いだろう。

まー、ちょっとは首の上に載っている頭を帽子掛け以外に使ってみなって。じゃないと、わからないものが一生わからなくてずっとバカのままだからな。

(久しぶりに書いたら長すぎた、長すぎたし、複雑な話なうえに最近人と会話していないので、自己突っ込みがひどすぎる。恥ずかしいけどアップするぜ。ウェイウェイ)