男性にとって、女性差別は利益がある

自明のことを書きたい。女性差別は、男性にとって利益がある。

障碍者差別は、健常者にとって、利益がある。

そのほかの差別も同様だ。

自分が差別される側ではない、ということで、自分へのプライドを保つ人から始まって、具体的な利益を得る人は大勢いる。

安い賃金で人を雇える経営者、ケアを丸投げして自分はその義務から逃れる者、再生産から逃れる者、汚い仕事をしないで済む、属性だけでちやほやされること。

「自分はあいつらよりはまし」と思わされることでさらに上の階層の人間に懐柔され、都合の良いように動かされる。最後には殺される。

 

女性差別を利用して、ヒーローになろうとする男性がいる。

彼は、女性差別者だ。いろいろなパターンがある。女性にひどいことをして度胸試しをする男性、女性差別を人に教えようとする男性。彼がどれだけ女性差別の代弁者となろうとしても、当事者ではない。それでも、彼は、称えられる。それは女性差別の構造を踏襲している。女性から利益を得ているからだ。

 

女性が男性から利益を得ても、それは男性差別になりえない。なぜならば、権力構造が違うからだ。その違いを理解しない人間は、フェミニストをダブルスタンダードとののしる。耳を貸す必要はない。彼らを説得することもする必要がない。そもそも説得できない。彼らは女性差別から利益を得ているから、絶対に説得されない。

 

いい人間だと思われたいというのは、強い欲望だ。評価されたい、すごいと思われたい、尊敬されたい。

反差別はその手段になりうる。だから、気を付けなくてはいけない。

わたしは、たとえば、日本国内では、民族差別の代弁者にはなれない。わたしが訴えることができるのは、女性差別と障碍者差別だけだ。日本国外にでれば、差別される側に回る。白人ではないから。アジア人差別を抗議することができる。できるというのもおかしいけれど。当事者以外ができるのは、耳を傾け、明らかな差別者をつぶすこと。でも、いつもはできない。生活があるから。

 

 

わたしが以前した失敗は、セクシャルマイノリティの男性が語るフェミニズムに耳を傾けすぎたことだ。彼は、わたしよりも、学があるように思った。

わたしは、今思えば、学問に関して、女性差別を内面化しており、学のある男性の言うことには、正しさがあるのではないかと思っていた。しかし、わたしのもつ女性差別を受ける当事者性を利用されかねなかった。途中で気が付いて、引き返してみたけれど、わたしは、彼から学ぼうとするべきではなかった。

 

わたしの弱みは、「常に学びたい」という願いだ。それが欠点だ。そのため、人に付け込まれる。とはいえ、学びたいと願い、学ぶので、そうしたことにも、遅くなりはしても、気が付くことができる。

 

日本において、男性のほうが高い教育を受けやすい。だから、わたしが学びたいと思えば、男性から学術的な思想を強いれることになりやすい。そしてそれは、わたしの当事者性を奪われることにつながる。とても危険なことだ。

 

自分にとって大切な思想を、自分を差別する属性である「男性」から学ばなくてはならない。そういう状況下で、わたしは、どれだけ抗えるだろうか。学ぶ最中に少しずつ紛れ込んだ、洗脳という毒を飲み込んで、女性差別を内面化してしまう。

 

わたしは、権威に弱い。権威を持っているのはたいてい男性であり、男性の規範を身に着けた女性である。だから、わたしは、それらに背を向けなくてはならない。

 

 

男性にとって、女性差別は都合がいい。利益がある。

それを忘れてはならない。

人を信用しないわけにはいかない。何かしらの基準は必要だ。常に学んでアップデートしなくては、差別と闘えない。自分の尊厳を守れない。しかし、「学び」の中に「毒」が混じる。信じた人がさりげなく差別をし、そして、差別してきたにもかかわらず、「自分が差別された」と被害者としてふるまう。一つでも差別される属性があればそれが可能になる。

 

男性の中にも女性差別はよくないと考える人はいる。女性の中にも女性差別は必要だと考える人もいる。誰にとって何が都合よいのか、状況によっても変わる。自分の利益を主張できるのは、自分だけだ。

学問の世界も、政治の世界も、経済の世界も、男性に独占されている。そのため、それらの果実を得ようとすれば、引き換えに、心や体や思想に、男性の価値観が混じる。毒されてしまう。それを拒否すれば、コミューンや、身体、魔女などの概念に行きつく。ただ、誤解を恐れずに言えば、それも「追いやられる」ことの一形態ともいえるだろう。

 

忘れてはならないのは、男性にとって女性差別には利益があるということ。

人と人の間には、それぞれ違った正義と利害があるということ。

自分の利害を主張できるのは自分だけだということ。

その孤独の先に、かすかに連帯の道が見える。それほど連帯は難しいだろう。

連帯がたやすく見えるとしたら、それは、毒が混じる水を飲むことと同じだ。

 


いい人と思われたいことと、反差別とは相性が悪い

自戒を込めていうのだけど、「いい人と思われたい」ということと、「反差別」とは相性が悪い。最悪だ。

いい人間になりたいから反差別、というのと、いい人に「思われたいから」反差別というのは似て非なるものだ。

反差別をするためには、自分で勉強して、自分の判断で、考えながら行動を改めなくてはならない。厳しい道だ。

そこに人間関係を含めてしまうと、「この人が言っていることを批判できない」「あの人が言っているのだから大丈夫なのだろう」「こういうことをしていると評価されるだろう」と、行動の軸が他人に左右されてしまう。

反差別は、世の中に歯向かうことだ。世の中は、ある種の人々にとって、差別込みでうまく回っている。「社会」にとって、差別は必要なものなのだ。

女性たちは、社会の周縁に追いやられている。女性たちは社会に含まれていない。差別される人間は、社会の一員とみなされていない。それでいて、社会は、差別される人間を搾取しないと、円滑に回らない。

見えなくされていながら、あてにされている。あしげにしながら、おだてられる。

おだてるなんて、安いものだ。正当な「人権」に比べたら。

人権と、人の尊厳、命を軸に考えると、差別はあってはならない。差別は人を殺し、病気にし、貧困に陥らせ、幸福の追求を妨げる。だから悪だ。

世の中のために、というとき、その世の中は誰のものなのか、誰が支配しているのか、誰にとって都合がいいのか、考えなくてはならない。

そのうえで、反差別は口触りのいいっものではいられない。うまくいっている人に対して、あなたの利益をよこせ、それは、あなたのものではない、という行為だから。

人に好かれたい、いい人だと思われたい、そう思うことは、反差別を行う上で邪魔になる。マジョリティにとって、反差別は、いらだたしく、場をわきまえない、無作法なものだからだ。

男が女を襲う時、女がそれを告発したら、男は「おとなしくして、場の空気を読んで、大人の分別を持つべきだ。そうすれば、お互い恥をかかないし丸く収まる」というだろう。世の中はそれを肯定している。告発すれば、女の側が非難される。金目当て、わかってたんだろう、自衛すればよかった、気を持たせたのだろうと。

自衛すればよかったという人たちは、良かれと思って被害者を責める。実際に、被害を防ぐにはそれしかない。加害者を変えることは現実的じゃない。彼らは、被害者が自衛することは現実的だと信じている。外出するときは大人の男性と同伴し、それがだめなら複数で行動するべきだという人までいる始末だ。

「その同伴する男性が襲ってきたらどうする。そもそも、女性の行動の自由が妨げられていることについては?」というような、当然の疑問は、彼らにとって耳障りだ。

つまり、被害者非難をする彼らは「いい人でいたい」から、被害者を非難する。性暴力を振るわない自分でいたい、性暴力を防ぐために何かする自分でいたいから、性暴力被害者を非難する。

何かするのも、真剣に何かしたいわけじゃない。ただ、何かしたというアリバイがほしいだけだ。だから、被害者を非難することで、いいことをしたと思える。自衛をするべきだ、という間違った正論を言うことで、彼らは彼らの認知の中でいい人でいられる。それをおかしいという人間は、彼らの平和を乱す。だから、嫌われるだろう。当たり前だ。でも、それでいいじゃないか?

いい人でいたいという欲望を満たすために、セカンドレイプをする人間がいるのだ。

 

いい人でいたいという欲望は人を傷つけ、自由や人権を損なうのだ。

 

 

もし、あなたが、反差別を行おうとするならば、あなたはいったん孤独を覚悟しなくてはならない。人と仲良くやるのは難しいかもしれない。間違っていることを間違っていると言えば、角が立つ。世の中と折り合いがつかない。

繰り返すけれど、世の中は、差別込みで回っている。

だから、娘を持つ男性が「娘のために女性差別は反対だけど、でも、女性としての役割があることは伝えたい」「女性差別には反対だけど、勧善に差別をなくすことは難しいだろう」ということだって成り立つ。実際にみたことがある。そういう人にどうするべきなのか。そういう人にも、いい人だと思われたいか。彼らは女性差別に興味を持っている。彼らを味方として、育てるべきなのか。

 

いいや、育てるべきじゃないのだ。女は、女だからと背負わされたケアを、捨て去るべきなのだ。大人は自分で成長することができる。ケアをして、育てたところで、気に入らなかったから、彼らは、フェミニストを恨む。

 

女性差別を訴えるとき、女性は、女性差別を最優先にするべきだ。ほかの差別のことを考える必要はないとはいわない。

でも、人にはそれぞれに立場がある。それぞれの正義がある。それぞれの利益がある。

だから、自分が自分の主張を第一にしなければ、誰も代わってはくれない。

 

 

いい人だと思われることをあきらめよう。孤独であることを受け入れよう。

スタートに戻ろう。

助け合うことはあっても、基本的にわたしたちは、それぞれ一人きりだ。人生を生きる、自分を生きるというのはそういうことだ。孤独なのだ。

生まれたときも死ぬときも一人なのだから。

 

 


女性差別に興味を持っても、男性にはメリットがない

はじめに

これは「女性差別」「女性への犯罪」に初めて気が付いて、第一走者と言ったり、女性に声をあげろと言ったり、女性差別の代弁者になろうとする男性に対して批判する文章です。

(厳密に言えば男性にとってもメリットはないわけではないけれど、知覚できるかというとまた別。また。女性差別が「女性にとってメリットがある」と考える人もいるので、メリットがあるなしで差別問題を論じるのはおかしいという話でもある)

差別には不利益があるからやめるべきだ、というのは不十分だ。

差別がある世の中は、うまく回っている。回っているように思う人がいる限り、「不利益があるからやめるべきだ」と言っても「自分には不利益がない」となる。

「誰にとっての不利益か」を考えると、主に、「女性差別の不利益は女性が被る」のだから。

差別は、人の尊厳や命を踏みにじる。だからだめなのだ。

利益を追求すると、「(他人の)命を犠牲にしても得られる利益」を得る人たちもいるので、無効化される。そういう人たちは差別に困っていない。差別を喜んでいる。だから、わたしたちは、彼らを追い詰めるべきだ。味方になってもらいたいと願うべきじゃない。差別によって不利益を得るのだ、ということを骨身にしみこませるべきだ。

だめだからだめ、いけないからいけない、という原則を持ってもいい。

本文

女性差別や、「女性問題」に興味を持つ男性に対して、どんな態度をとるべきか。

今、初めて、「女性は、男性に暴力を受け、性暴力を受け、賃金格差があり、社会的に不利益な扱いを受けている」ことに気付いた男性がいたとする。

その男性は「初めて知った!では僕が女性差別を解決する」と張り切る。

そうしたとき、彼らは、女性差別の上塗りをする。

女性の代わりに語り、女性に被害の経験を語るように言う。自分の男性としての影響力を使う。

これらはすべて女性差別だ。彼らはいいことをしていると思っている。自分のことをいい人間だと思っている。

男性は男性であるだけで、構造的に加害者だ。社会的な不利益を是正せず、女性差別を知らず、男性に対して、働きかけることも知らなかった。

女性に被害内容や、経験を語らせることは、暴力だ。それもわからない人たちがいる。

そういったとき、彼らを批判するかどうか、女性たちは迷う。

せっかく味方になってくれた人を、敵に回すようなことをしたくない。どうにか育てることができるのではないかと。

育てる!

女性たちは今までもずっと「人を育てて」きた。とうに成人した人間を、しかも何の関係もない人間を育てる義理はない。それは、女性に課せられてきた不利益そのものだ。人を育てずに済んでいたら、できてたあろう様々なことを想像してほしい。

男性は、家事をするだけ、育児をするだけでも注目されほめたたえられる。

だから、家事や育児をする男性たちは自分のことを「女性差別をしない、いい人間だ」と思っている。家事や育児をするだけで、どうして褒められるか考えもしない。男性だから、「本当は家事も育児もしないで済む男性でありながら」家事育児をしているから、注目されているという非対称に思いをはせることもない。

彼らがおろかなんだろうかと思うこともある。とてもよくある。どうしてこんなに簡単なことが見えないのかと。

はっきりしているのは、(あえていうと)「男性問題」を発見し、是正したところで、彼らにメリットはないということだ。メリットがないので、彼らはいつものように今までのように生きることを選ぶ。

では、女性差別を解決すると、男性にメリットがあることを伝えるのはどうか?

メリットによって女性差別をやめろという人たちは、そのメリットが消えたとき、女性差別をまたするだろう。

おだてて、ちやほやして、ほめたたえて「味方」になった人たちが、困難に直面したとき、どんな風に手の平を返すか、わたしたちはよく知っているはずだ。

わたしは、メリットの如何ではなく、「女性差別は不公正なことだからやめる」といえる人間を望んでいる。

それは「お気持ち」と揶揄されることなんだろう。

でも、わたしたちは、感情を軽んじられてきた。そして、感情は「女のもの」「おんな特有の弱点」とみなされてきた。「女は感情的で話が通じない」と言われてきた。どんなに冷静に論理的に話していても、「感情的」とレッテルをはられる。わたしの体が女の形をしているからだ。

男たちは、感情を軽んじ、それでいて、感情的にふるまうので、感情をコントロールすることができない。だから、メリットや利益に目がくらみ、不公正に立ち向かうことができない。それは、彼らが解決するべきことだ。

 

感情は素晴らしいものだ。

なにか、不公正をしそうになったとき、理屈よりも先に感情がシグナルを送ってくれる。それで、わたしたちは、悪人にならずに済む。素早く判断できる。感情は、生きることに価値を与え、なぜ生きるか、生きるとはどういうものか教えてくれる。感情的であることを恥じることはない。そのうえで、わたしたち女が論理的であることを主張することもできる。冷静である必要もなく。

 

 

男性たちは、不公正を許容している。それを恥ずかしいと思えない人間に味方になってもらってどうするというのだ。

差別とは不公正であり、殺人である。それが悪いと理解できない人間に、何を言うことができるだろうか。殺人にはメリットがない、殺人をしないことにはメリットがある、と、言って通じるのか考えれば、通じないと答えは出るだろう。

女性差別は男性問題である。それだけのことを理解できない「味方」を育てることを放棄しよう。彼らは味方にならない。味方になるとしたら、人間的に成長する必要があり、わたしたちに、それを支える理由は一つもない。メリットがあろうとなかろうと、しなくていいことをする、その弊害は大きい。彼らは、反差別の訴えをする、被害者に対して皿に甘えてつけあがる。わたしはそんなのは嫌だ。

 


「生きる」と「怒る」

生きているという「感じ」がするのはどういうときかというと、怒っているときだ。

怒るとパワーがわく。生きるためのパワーだ。

会社を辞めたときも、「パワハラに遭ったので病気になりました」というんじゃなくて、「パワハラだ、それは不法行為だ」と相手を責めるべきだと主治医に言われた。

回復が全然違う。

病気になったほうが悪いと付け込まれる余地を残すな、パワハラをした相手が悪い、その結果損失を受けたと主張するべきだと言われた。だから、後者の言い方をして、自分でそう言う認識をすべきだと。そう主張すると自分もそう納得する。自分が悪いのではないと。

病気になったからやめますだと、自分が悪いみたいに認識してしまうから、体に良くない。

 

怒っているときは自分の輪郭がクリアになっている。
それに依存しすぎると、怒っているばっかりの人になったり、怒るための出来事を探すようになったり、怒ることで人に認められたいと思うようになったりする。
でも、そうじゃなくて、生きるためのネガティブな感情を個人的に大事にするってこと。
というのは、今日いくつかの記事を読んだから。

 

怒るっていうのは、自分のセンサーが働いているってこと。それをなかったことにすると、自分を守れなくなる。

怒っていることを認識するって、それは、生きるために戦ってるってこと。


ゲリラ的人生

ゲリラ的人生は、くたびれはてこさんの過酷な人生が描かれている。

逃げるという言葉を書いていて、事実その通りなんだけど、わたしの言葉だとこれは「戦い」って言い方になる。

嫌なことがあって、ここにいたら生きていけない、という気持ちにふたをしないで、行動してるから。

わたしは、同じ年の時、こんなにも勇敢な人間じゃなかった。

機嫌よくいると、自分以外の人にとって都合がいい。でも、自分の都合が悪い。

昔、元カレに「いつも笑っていてくれ」と言われて、ぶちぎれたことがあった。あのとき、なんで怒っているのか、相手を納得させることはできなかったけれど、ちゃんと怒った幼い自分のことは勇敢だったと思う。

わたしは、「笑っていて」と言われて非道な暴力を受けたと思った。そういう感じで、今までわたしが我慢しているうえに成り立っている穏やかさは、なんていうか、彼にとってとても当たり前で彼は一切努力しないということを宣言しているんだなと思った。思ったというか実際そうだった。

わたしは、人の顔色をうかがうけれど、相手の要望通りに動けない人間だから、天然とか空気読めない子とか言われていた。

「なかったことにする力」の強い大人に囲まれて育って、事実としてあったことが「勘違いだ」と言われているうちに、自分がどんな現実を生きているのかわからなくなった。言葉が誰にも通じない感じがして、うまくしゃべれなくなった。うまくしゃべれないことをごまかすために機関銃みたいにしゃべって何もかもごまかしていたかった。それは、大人にとって都合がよかった。わたしは問題を抱えていたが、問題はないということにしたい人たちしかいなかった。

 

でも、問題はあった。成人してから、精神科に行くことができた。十六歳の時から精神科に行きたかった。

わたしは病むべくして病んだ、病むことが正常だ、と言えるような環境に育ち、そこから逃れるためにさらに十年かかった。

わたしは、信頼していた人に「こじらせている」「頭がおかしい」「怒ってばっかりいる」「めんどくさい人」と人に紹介されたことがある。その人から去る決断をするのにも三年かかった。信じられなかった。自分のことが。

わたしはもしかして、こじらせていて、頭がおかしくて、怒ってばかりいる人間なのかな。それは直さないといけないんだろう。

そう思って、直そうとした。実際、「いつも怒っている人は不幸な人」と言う人はいるし、「現実が充実していたらネットで文章を書くはずがない」とい言う人がいる。でも、そうした人は、わたしに何の関係もない。責任も負うわけではない。無責任な人たちだ。

現実が充実していようがしていまいがわたしには書くべきことがあるし、怒っているときがあったからといって、不幸なわけじゃない。そして、不幸でもいい。不幸だからバカにされるということがあってはならない。不幸な状況を自分から選んだわけじゃないんだから。

 

 

わたしは、いつも戦え、と思っている。戦ってやると思っている。

それは、撤退を意味している場合もある。自分の気持ちが踏みにじられるような場所を選ばない、そういうところから逃げる、それは、自分の気持ちを守るための戦いなのだ。

人にはそれぞれの利害があって立場があるのだから、その人なりの正義がある。

ということは、わたしにだって、自分のための利己的な正義があっていいのだ。

自分を優先していい。

女の人は、自分を優先するな、あとまわしにしろ、と育てられ、大人になってからもそうしろと圧力をかけられる。

そんな圧力はないという人もいる。気のせいだと。証拠を出せと。

でも証拠を出しても結局「個人的なこと」「その人がたまたまそうなだけ」と否定される。

わたしは言う。言いたい。あるものはある。

自分が一番最初に何かを得ると、角が立つ。悪口を言われる。悪意を持って邪魔されるようになる。そういうことは実際ある。

名前一つとってもそうじゃないか?愛情があれば夫の姓にするのが普通だってみんな思っている。女の人は後回し。

 

人のために生きること、愛した男のために寄り添うこと、応援したい人がいるってこと、それが女の幸せだ。早く結婚して子供を産んで、自分の人生よりも他人の人生の幸せを祈れるようになってからが、本当の幸せを感じられることだと言われたことがある。

自分を優先するためには、それを受け入れるしかないのが現状だ。

でも、受け入れなくていい。そういう悪意も受け入れなくていい。喧嘩していい。

にこにこ笑っている裏で、殺している感情がある。それはわたしの一部だから、わたしはわたしを殺している。それはだから自殺なのだ。

わたしはわたしの感じ方を見逃さないで、そういう風に感じたことは蓋をしない。ふたをすれば、心から先に死んで体も死ぬ。死んでもいいのかもしれないけど、たぶん、わたしは生きるようになっている。

 

人はみんな無責任に、困っている人を支援することでいい気分になりたがっている。支援もめんどくさいからよさそうな言葉をかける。それは、とってもコストが低い。でも、いいことをしているような気がする。みんな悪者になりたくない。そして、いい人間だと思いたい。だから、困っている人を探して、なんかいい感じの言葉をかけたいと思っている。その言葉が、その人をおいつめる結果を産んでも、責任はとらない。自分で選んだんでしょと追い打ちをかける。

わたしは、悪者になってやる。そして、自分を殺さない。人のことも殺さない。

いい人のふりをしてにこにこして、自分の気持ちを殺すこともしないし、いい人になりたいからって無責任なことも言わない。


「キモイ」は女の武器になる言葉

女には拒絶の言葉も罵り言葉もない。

言葉がなければ、従順に、なにかも受け入れらしかない。Fwordがないから、素早く罵れない。

女は、怒ってはいけない、乱暴な言葉を使ってはいけない、という抑圧がある。

「やめろ」ではなく、「やめてください」と頼まなくてはならない。

もし、「止めろ」と言ったら、「非常識で同情できない」と言われる。

「キモイ」という言葉は、感覚的な言葉だ。

男の言葉が「理屈」「説明」的な言葉だとすると、対極にある。

だからか、男は「キモイ」という言葉を嫌う。キモイと言った女性を、頭が悪いと非難する。男への差別だと言ったり、フェミニストが罵倒語を使うなんて、と言ったりする。

説明をするのは男性の文化だ。彼らは、感覚的なものをバカにする。説明しろと強いる。

それを無化する可能性があるのは「キモイ」という言葉だ。

相手に、やめてくれ、こういうことはしないでと懇願せずに、使える、唯一の拒絶の言葉だ。

キモイという言葉は、時として「相手を理解しようとすることをしない最低の言葉だ」と言われる。

でも、考えてほしい。男たちは、こちらの「キモイ」という言葉を理解しようとしていない。経緯も払っていない。

キモイと言われた男は逆上する。自分を虐げる女という風に認識する。

ただ単に拒絶しただけなのに、被害者みたいなことを言う。胸糞悪いことに、フェミニズムが連綿と紡いできた言葉を盗んでまで、否定する。

女には乱暴な言葉が許されてない。もし、乱暴な言葉を使ったら、物理的に、攻撃されることだってある。

「キモイ」という言葉は、数少ない、「お前には用はない、お前はわたしに近づくな」という意味を持つ言葉だ。これは、女の言葉だ。だから、男は否定する。

わたしたちは、相手を理解しなくていい。ずっと、わたしたちは、男を理解しようとしてきた。でも、男が女を理解しようとしてきただろうか。

お前を理解しない、とわざわざいう必要もない男と対照的に、女はずっと説明しろ、わかるようにしろと言われてきた。その「わかるように」のゴールは、男によって、位置を変えられてしまうから、相手を納得させることは構造的にできない。

相手は理解したくないから、ゴールの位置を勝手に変えてしまう。

それを防ぐのは「キモイ」という言葉だ。

お前はキモイ、だから関わるな。そういう意味がある。

だから、キモイという言葉を、わたしは悪者にしない。

丁寧な言葉で説明して、こちらの領域を侵害され、攻撃されてきた。それをはねのける言葉が女にはなかった。

キモイ、という言葉は、その始まりだ。わたしは、キモイ、と言う。相手を理解することを拒む。相手には私に対するリスペクトがないのだから、わたしもリスペクトを持たない。


子供はエヴァンゲリオンの気持ち悪さを理解できない

14歳のころ、エヴァンゲリオンが放送されて、「なんかかっこいいアニメ」と呼んでいた。ロゴが読めなかったからだ。

テレビ放送時の紙芝居のもみたし、えのぐをぐちゃぐちゃ塗ったみたいなバトルシーンも見た。

ミサトはなんかエロかった。

でも、今見るともうミサトが無理すぎる。

ゲンドウがミサトに命令して、ミサトはシンジと暮らす。

ありえないよね、上司と部下が一緒に暮らすなんてさ、しかも大人と子供だよと高校生に言った。

高校生は言った。

「気を使うからダメってことですか?」

あー、まだ、こどもだからわからんのか、と思った。

「学校の先生がある日、おまえんち住むわ、つって来て、裸でビール飲んで、お前家事が下手だとかあれやれとか言った挙句に、キスしてきたらどう思う?」

と言ったら、え、そんなんありえないですキモイ、ってかえってきた。

そーだよね、それを仕組みとして作ったのは大人のゲンドウとミサトなわけよ、シンちゃんはずっときもいけどあれはあの子の生じゃないわけ、仕組みとして公私混同があるんだよ。

ゲンドウが命令して評価する。評価するのは数字だけ。

だから、チルドレンたちは、適応しようとしてえ、レイはいちゃつくし、シンジはお父さんお父さんいうし、アスカは優秀であろうとする。

どういう適応の仕方として現れるのか、が個性になるんだよね。

でも、基本は、ゲンドウが悪いって構造があるんだよね。そこで、子供たちがどういう風に動こうと変わらないんだよね。大人が悪いという構造があるんだよ。構造を作って評価軸を作った大人がいるんだから。

という話をしました。

キモイ、気持ち悪いって言葉は何かと批判される。

それは、感覚的な言葉だからだ。

でも、その感覚にはとても大事なことが含まれている場合がある。

言葉で説明しろ、説明しろと追い立てられる側と追い立てる側の非対称を突き崩す可能性のある言葉だと思う。

追い立てる側が、キモイと言われてダメージを受けるのは、それまで、優位だった関係が壊れるからだ。

一方的に説明しろ、と言えていたのが、言えなくなるから、反逆として感じられるのだろう。そして、その感じ方は正しい。私たちは正しく攻撃している。


大学受験は難しくなる

今年は都市の大学の定員の規制のため、明治を筆頭に、とにかく難しくなった。

早慶東大などのトップレベルを受ける人については何も変わりはないが、それ以下の大学が非常に難しくなった。

Marchを受けるよりも、地方国公立のほうがずっと入りやすい。逆に言えば、地上の大学は今お得に受けることができる。

都市の大学が難しくなったのは、定員数が減ったこと、受験方法の多様化によって何度も受けられることがあげられる。

二十年前は、滑り止めを含めて、三回受験すれば多いほうだったのが、今では、似十回受験する人も珍しくない。同大学の同学部を受けるだけでも五回のチャンスがある場合もある。そうすると、定員数に対して、受験人数が跳ね上がるので、結果的に偏差値が上がってしまう。偏差値が上がると、「偏差値が高い」から受ける人たちが殺到する。

日東駒専はもはや滑り止めの大学ではない。

センター利用で明治大学を受けた人は、8割でも落ちた。合格ラインは、8割五分らしい。それだけ取れれば、東大も入れてしまう。

 

大学進学を機に、地元から出るのが最終チャンスの地方に住んでいた人には、あまり良い情報ではない。

都市に行けば、広告を含めて、多くの情報に強制的に触れて、どんなものがあるか知ることができるから。学生時代という短い間だけでも、都市に住むのには意味がある。

ただ、大学に限って言えば、偏差値によって大学の質が大きく変わることはない。

学生のレベルが変わるだけだ。

偏差値が低くても、親身になって育ててくれるような大学を探して、入学するのもとてもいい。都市部に集中しているということは、それ以外の大学に入りやすいということだ。

視点を変えれば、いい面もある。

決してあきらめず、これからの一年を頑張ってほしい。

大学の考え方をよく調べることが大切だ。


zozosuitの衝撃

ゾゾスーツは、アパレルの常識を変えるだろう。

なにしろ、ボディのデータが、その人の年代、ブランドの好み、いくら服に使うのかの情報とひもづいて、手に入るのだから。

今まで、洋服は、ブランドが手探りで、サイズやパターンを作ってきた。

それがどうだろう。

今後は、手探りじゃなくて、実際のデータが手に入るのだ。

ゾゾスーツが、伸縮センサーじゃなくて、ドットを読み取ることにしたのは賢い。

センサーはバラバラにして盗まれる。そして、Bluetoothの規格が変わったり、壊れたりしたら、そのコストがかさむ。もちろん、センサー自体も高い。だから、先の見通しが高い。

それを、スマホでの写真で位置情報を得ることにしたのだから、ゾゾスーツはこれから、世界中に、いろいろな分野に進出するだろう。

医療の世界でも役に立つだろう。義肢にももちろん使えるばかりではなくて、手術するときにも前もって体の情報が分かっていたらきっと便利だろう。

ベーシックアイテムを網羅すると言っていたので、ユニクロはかなり危うくなる。

各ブランドは、顧客が実際に求めている服を作るために、スタートトゥデイと提携せざるを得なくなる。そこから入る収入もかなりのものになるだろう。

既存の技術を組み合わせて、安価で新しいものを作る。素晴らしい。わたしにもっとエンジニアとしての力量があったら、絶対に参加したい企業だ。

服の解放だ!

わたしは太っている。鏡を見るとうんざりする。でも、服の厚み、パターン、ラインによっては、ずいぶん印象を変えることができる。印象を変えると、自信がついて、太っている自分も悪くないと思える。

服というのは、自分に対するイメージを変えるものなのだ。自信を持たせ、人生を明るくする。

三十代以降の女性は、体の形が多様化する。

入ればいいと無理やり押し込んでいる人もたくさんいるだろう。

それが変わるのだ。

おまかせ便の精度も上がるだろう。

あれはとてもいい。勉強しなくても、トレンドあった服を提案してもらえる。実際、段ボールを開けるときには、クリスマスのプレゼントを開ける子供のようにわくわくしている。わたしのために選ばれた服!わたしが知らない世界への扉。

すでに二回、お任せ便が届いた。

一回目はパーフェクトだった。体のラインをきれいに見せ、わたしが買おうと思わない、けれど、自分を美しく見せる服が入っていた。

二つ目はがっかりだった。選ぶ人の力量によるのだとわかった。

今まで販売員として、安く使われていた人に、雇用の可能性が増える。

店頭に立たなくても、服を提案するセンスが、この先必要になる。

世の中が激しく変わっている。今まで評価されていなかったものが、お金に代わる。

たいていは、人間でしかできないこと、つまり、センスが必要とされる。

服の販売員は、今まで、その力を安く使われていたと思うけれど、服の知識や、選び方、イメージする力が、これで生かされる。

その多くはきっと女性だ。女性が家でできる仕事が増えた。

これも喜ばしい。スタートトゥデイの社長は、高卒で、それから企業をしたそうだ。

システム屋さんなのかなと思う。


犯罪の八割は男性が起こし、性犯罪の99.7%は男性が起こす

犯罪の八割は男性が起こす(起訴)。

略取誘拐、人身売買、強制わいせつ、強姦の被害者は、女性がほとんどだ。

暴行、傷害、誘拐、強制わいせつ、強姦などは、九割が男性だ。

だから、女性は男性を恐れる。そして、憎むのにも根拠がある。

女性は、おびえながら暮らしている。被害にもあっている。それで、男性が言葉での攻撃も恐ろしいというのは無知から来ているのか、現実を見たくないのか。

男性は、男性であるだけで性犯罪被害者になりにくい。

犯罪者の九割が男性なのに、女性が、どうして、男性を恐れないでいられるだろうか。

女性が起こす犯罪は、窃盗か万引きが多い。それは、もちろん犯罪だが、女性が恐れるのは、物理的な攻撃である。物理的な攻撃を行うのが男性だと感じていて、そして、数字からも裏付けられる。

女性が男性を警戒するのは当たり前だ。

見た目でわかる特徴があって、それを避けるしかないのだから。

また、強姦、強制わいせつ、人身売買の被害者が、65歳以上の女性まで存在することも注目すべきだろう。

 

男子の受刑者が19744人に対して、女子の受刑者は2122人しかいない。おおよそ9:1の割合。

 

 

女子の犯罪で九割を超えているのは、英二殺しだけだ。それも年に十件。

これは、未婚の母(多くは子供)が妊娠して、支援もなく、殺すに至ったものが多いだろうし、男親の不在、社会の支援のなさから招いた、社会的な問題が背景にある。女がせざるを得ないように追い込まれていること、子育てを女がするものだと思わされていることが原因だろう。

 

強姦 被害者の数

総数  1,289男 - 女1,289
強制わいせつ

総数7,027  男161  女6,866

 

上記から、性犯罪の被害者のほとんどが女性だとわかる。

被疑者の性別(平成 22 年中の検挙人員)
※ 警察庁「平成 22 年の犯罪」を基に作成したもの。

強姦 総数803男 802 女1
強制わいせつ 総数2,189 男2,180女 9

9/(803+2189)=0.003008

これをパーセントに直すと、0.3パーセントが女性の起こした性犯罪になる。

ということは、性犯罪の九割九分は、というか、99。7%は男性が起こしていると言える。そして、その被害にあうのは、年齢問わず、「女」。年をとっても、性犯罪から無縁ではいられない。

犯罪白書に書いてあるが、性犯罪については、暗数がとても多い。ほかの国で「性犯罪」となることが、日本では犯罪ではない。また、警察に訴えることができない、レイプ検査キッドがない、警察の対応が悪い、捜査されない、などの問題が多々あることをお忘れなきよう。

ただ、強姦に関しては、定義が「性器に性器を挿入すること」であるので、「異物を体に挿入する」ことに変えるべきだ。男性差別を訴える人は、まず、ここを言えば、男性の性犯罪被害者を救える。ただし、女性に言うんじゃなくて、公権力に言うように。そして、その公権力のほとんどが男性たちが占めていることも忘れないように。

男性も、「自分を苦しめているのは男性だ」ということにはよ気づいてくれ。

司法も警察も検察も男が占めているし、犯罪者もほぼ男性だ。

冤罪も犯罪も男性が起こしている。

Twitterのリプライでわかったが、データを突きつけても「男性差別を訴える人々」というのは、データを「見ない」。見えないんじゃなくて観たくないから見ない訓練を積んでいるようだ。

上記のデータをリプライで送ったら「嬰児殺しは女がすると言われたらどんな気持ち?」と返ってきた。そりゃー「見たくないものは見ない、どんなに明らかなデータでも見ないのかすげえキモイ。ああ、やばいキモイ」って思うよね。こんなに明らかなのに、それには返事しないで話そらすんだから気持ち悪いよ。対話が成り立たないというか、なんだろう。ちょっとこの話の通じなさは怖い。恐怖。


マサキチトセ氏本人への批判《エロくない性の話》への批判続き

実は、批判のブログを書く前に、DMで二回にわたって対話をした。

今では、DMを選んだことを公開している。信頼していたから、DMにしたけれど、DMのやり取りに問題があった。わたしは、公開した状況でやり取りするべきだったと後悔している。しかし、わたしは、あのとき、まだ、彼を信頼していた。だから、気を使って、DMで事前に会話をしたり、確認をしたりしたかった。

しかし、それは裏目に出た。

たとえば、彼は、ご理解くださいと繰り返した。

これは問題だ。差別を受けた側がなぜ理解を求められるのか。そこに、力の非対称性がある。

あの番組で起きたことは、「差別」だ。フランス語を習おうとして女性の心得を学ばされたことは「差別ではない」と示し続けたことが、差別である。

「マサキチトセの」と冠がかかっていて、企画者も、司会者も、ゲストの人選をしたのも、マサキチトセ氏なのだから、全責任はマサキチトセにある。

わたしがどのように何を理解しようと、「差別を中断することなく番組を続行することを決めた」のは、マサキチトセ氏である以上、番組内で差別が起きたはマサキチトセ氏の責任ということになる。

わたしがいかに「ご理解」しても、現実に、あの番組が差別を垂れ流したことは変わらない。

「なにもしなかったわけじゃない」と言いたければ言うのは自由だけど、はっきりいって、わたしは単に話題を変えたようにしか理解できなかった。

「差別をやめろ」とゲストに言うか、それでもやめなかったら、ゲストを外して番組を続けるか、一度番組を閉じるという選択肢もあった。

だが、彼はそのいずれもしなかった。無作為の責任がある。

また、傷ついた側に「ご理解」を求めるのは、結局「傷ついた側」に責任を求めることと同義だ。わたしの理解が足りないから、わたしが差別と感じているみたいだからだ。

DMでは、中立的な言葉遣いをしていたけれど、彼は中立ではない。番組の主催者なのだから。(もし、マサキ氏が訂正を求められるのならば、わたしはDMを全部公開してもかまわない)彼は、友人だから話をコントロールしたわけじゃないとおっしゃったが、彼はむしろ、話をコントロールするべきだった。

また、わたしがブログを書くことを「ありがたい」と言った。これにはいろんな意見があるだろう。一瞬、わたしは寛容だからそう言ってくれるのだと思った。

しかし、その後、考えが変わった。わたしが矢面に立って、どうして、考察するのかを考えれば、「ありがたい」というのは間違っている。ありがたい、という言い方を批判しているのではない。彼の心構えの問題だ。彼は、「ありがたい」という言い方の前後に様々な留保をつけた。だから、ありがたい、という言葉を抜き出すには問題があるかもしれない。だが、その留保のつけ方にこそ、問題を感じる。

本来なら、彼自身が書くべきことだ。彼がシス男性だから、トランス女性について、批判しにくいというのは言い訳にならない。自分だけの意見だとバイアスがかかってしまうというのも言い訳にならない。

属性抜きに「差別を行った」ら、その言動そのものについて、批判することはできる。もし、できないのだったら、批判できない相手をゲストに呼んだことが問題だ。

 

延べ、視聴者が250人いた中で、それはおかしいと声をあげたのは、わたしと、もう一人の実体験を語った人だけだ。それもいびつな状況だ。

それを是正できる立場にいたのは、マサキチトセ氏しかいない。彼は、自分の責任を透明化している。

彼が、番組の内容に責任を持つ立場でなかったら、だれも責任を取らない。そんな状況で、差別について語るべきではない。

差別が番組で垂れ流されて、それを止められないのなら、それは、危険な番組だ。

LGBTについての差別と、女性についての差別。

どちらも差別なのだから、女性についての差別も、「差別をやめろ」というだけでよかった、それを怠ったのだから、きわめて遺憾であるとしかいいようがない。