三大悪男はいない

歴史を教えているとき、三大悪女について話していました。

そのときに「三大悪男はいない。それは、歴史を書いたのが男だから」という話をしました。

男視点の歴史では、自分の信じる女と違う行動をとるものを”女”と分けます。それを悪女と呼びます。

フェミニストをアホフェミと呼ぶのと同じことです。自分に都合の悪い行動をとるものは、普通の者ではないと区別する必要があるのです。

曹操のことを”悪男”と呼ぶ人はいません。
武則天はたしかに恐ろしいですが、自分の係累を殺して、敵対者を皆殺しにした男は数えきれないほどいます。

悪女に対する言葉として、”悪漢”をTwitterで提案されましたが、悪女が、貴族王族政治家から始まって、上から下まで使われる言葉なのに対して、悪漢は、野卑な男についてしか使われません。身分が低かったり、貧しかったり、教育のない男にしか使われないイメージですがどうでしょう。腕力以外のパワーに乏しいイメージです。曹操って”悪漢”ではないですよね?極悪非道で頭がいいから人気があるのだと思います。

歴史上極悪非道な男はたくさんいましたが、それを一言で表す言葉は、いまだありません。日本語は、特に男をののしるための言葉に乏しいのです。女性をののしる言葉はたくさんあります。そこが、言葉の非対称でもあり、歴史の非対称でもあります。女偏の漢字は、悪い感情を表すものが多く、男偏の漢字はそもそも存在しません。それは、女というものがイレギュラーであるため、特別に言葉を作っておこうという考えの総意ではないでしょうか。実際には、人間の半分は女なのですが。

このことが示唆しているのは、言葉や歴史の見方が男視点に偏っていることです。

 

 


家の中の性差別・暴力

「妊娠出産のために仕事をやめ、知り合いが一人もいない場所に引っ越し。家事をしてほしいと夫に頼んだら、自分と同じだけ稼げるのかと言われた。捨ててきたのは、自分の世界のすべてだった。その痛みを愛する人にもわかってもらえない苦しみ」というのは、定期的にツイッターでよく見る。

家の中での差別構造について、ここで書いたが、「女性の賃金は安い。だから、仕事を辞めさせる。そして、家事をさせ、逃げられない状況で、夫が妻にモラハラをする」というループが生じる。

女の賃金が安いのは、「夫が外で稼ぐのだから女性は補助的な賃金で構わない」という社会通念、社会的慣習のためだ。

しかし昔から、単身者の女性はたくさんいた。単身の女性であっても、リストラの時に「彼には家庭があるから」といって、首を切られてきた。

彼女にも生活があったのに、彼女の生活は、「どうでもいいもの」として、扱われてきた。

裁判の時に、社会通念、社会的慣習は、法律の次に重い根拠となる。

社会的通念のために、生活が苦しいのに、社会的通念にそれを正当化される状況だ。

秩序を乱すことを嫌う人が多いが、秩序が人を苦しめているとき、その秩序は壊すべきだ。それを公民権運動という。フェミニズムは、公民権運動の一つなのだ。

「賃金が安いから、家事労働を長時間しろ」と夫が言い、「家庭労働を長時間するのだから、賃金を安くする」と社会が言う。

その中で、女性は一人で生きることが難しかった。社会運動をするにしても、社会運動でさえ、補助的な役割を強いられ、また、運動体でも性暴力に遭った。声をあげようとしても「社会運動をつぶす気か」と恫喝される。

社会運動からも排除され、社会のメインにもなれないできたのが女である。

経済的に圧迫されると、「モノを言うこと」すら、難しい。

家庭内の「誰に食わせてもらっているのだ」に象徴されるモラルハラスメントは、社会における女性差別を利用している。利用して、それを強化している。

前述した「モラハラ」は、女性蔑視を基にした、女性差別の再生産なのだ。

女性が一人で生きることが難しい状況、女性が子供を産みたいと願えば、結婚し、仕事をあきらめざるを得ない状況を利用することで、1人の人間を苛め抜くことができる。それは、男の万能感を満たす。

「女をモノにする」という言葉は「女を物にする」という意味だと、最近思い知った。物にすることで、男は「個」を承認されたと思う。何に承認されたかはわからないまま、彼らは承認欲求を満たし、満足する。彼らは深く考えない。

彼らは彼らの内なる社会に「男は女をモノにすることで一人前になる」という基準を持っている。一人の人間を自分の一存で生死を握れる。それを常に確認する行為が、「モラルハラスメント」として現れる。

そして彼らはどんどん狂暴になっていく。

自分を満たすためには、前よりももっとひどいことをしても、女が自分についてくるということを確認するしかないからだ。だから、すべてのハラスメントは激化する。

男が男であることを示すたった一つの根拠は、股の間にぶら下がっている一つの臓器である。医学的にも社会的にも、股の間にぶら下がっている臓器があるかどうかで、彼が男性かそうじゃないかを判断する。男性器というのは社会的なシンボルなのだ。

その臓器が彼らの力の源である。彼らが「男である」ただそれだけのことで、支配する側になる。だから、彼らは股の間のものを使いたがる。努力に応じて、女をモノにして使うことができなければ、彼らは女を恨みにくしむ。彼らは、女を報酬として受け取ることを権利だと思っている。

だから、彼らは女にどんなこともできる。

 

参考

あのね〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

女っていうのはね!!!!!

男のためのステータスとか!!!!!

賞品とかじゃね〜〜〜〜〜んだわ!!!!

努力に応じて与えられるべき報酬として女を見るのはええかげんにせぇ!!!!!

こちとら人格があるんじゃ!!!!!

どんだけその股座の棒と玉に支配されとんねん!!!!!!


男女間の”役割分担”の条件

男女間の”役割分担”が成立するときは、それが交換可能かどうかが必須になります。交換可能ではなかったら、それは”役割分担”ではないでしょう。

わたしの家でも、平等ではないです。それは、わたしのほうが賃労働でもらえる単価が低く、労働時間も短いからです。だから、わたしは、家を維持するためには、伴侶に賃労働の主たる担い手になってもらい、わたしが家事の主たる担い手になるしかありません。選んだ結果ではありません。家事労働することを自発的に選ぶことができません。それは、伴侶もそうです。

家の中の社会は、家の外の社会が反映されています。家の外の社会が、「男のほうが働きやすい」社会である以上、家の中でもそれを踏まえた社会にならざるを得ません。

 

「女性は出産、男性は力仕事(狩り、お金を稼ぐ)を担当するのは、役割分担だ」という言い方をみます。

でも、力仕事で人はすぐには死なないけれど出産ではよく死にます。わたしも選べるなら、出産より力仕事のほうがいいですね。私の場合、母子ともに危険になり、ほぼ三日にわたる陣痛のち、カイザーになりました。カイザーって、おなかだけじゃなくて臓器も切るので痛いです。医者が腕を肘まで入れて臓器から赤ちゃんを引っ張り出すんですよ。引きはがすときにべりべりと音がしました。そしておなかの中を洗浄します。

だから痛いけど、心無い助産師に「切ったら痛いのは当たり前だから我慢して」と言われました。そういう痛みを選びたいか?

伴侶は、私が死ぬかもしれないと思っておびえていました。

比較にならないものを並べるのは詭弁です。

「わたし、出産が怖くて嫌だから代わって」と言ったことがあります。「代われるものなら代わりたいけど」と伴侶は言いました。そうです、代われないんです。力仕事は代われます。ほかの人に頼んでもいいですね。でも、出産は、そうはいかない。(代理母というものがありますが、ここでは話が違いますので)

わたしが小学生の時「女子は掃除、男子はサッカー。役割分担だから」と言われたことがあります。サッカーが好きなわけじゃないけれど、サッカーのほうがいいです。でも、わたしは選べなかったんです。こういうのは、”役割分担”とは言えません。何の役割なんだろう?サッカーって。男子が遊ぶことで、集団にメリットが発生するのだろうか?

集団にメリットが発生しないことは、そもそも”役割分担”じゃないですよね。役割分担という言葉は、押し付けられる側を黙らせる機能を持っています。

女性は出産があるから、仕事をやめるだろうと思われて、賃金が安いため、男女間では、どちらかが仕事をセーブしなければならない時、女性がセーブすることを選ばなくてはならないことが多いのです。そして、セーブすれば、出世できない現状があります。よく、アンチフェミニストが、男は育休を取りたくても、出世できなくなるし、周りが変に思うから取れない、と言っていますが、女性も同じです。出世できなくなります。そして、女性は、賃金が安くなる→家事育児をしてくれ→ますます仕事をセーブせざるを得ないというループに陥れられます。

(余談ですが、女性の賃金が安いと、男性の賃金もつられて下がります。そりゃそうですよね)

こういうのは、対等でもなく、役割分担とは言えません。

仕事か家事育児か、を女性の自由な意思で選べる状況ではないわけです。

女性よりも男性のほうが賃金労働しやすい社会である、という前提があります。だから、アンチフェミニストは「男性が働いて女性が家で支える」ということをいいます。

でも、考え方を変えれば、女性よりも男性のほうが転職先が見つかりやすく、パート以外でも仕事が見つかりやすいので、収入も落ちにくい、だから、男性のほうが転職をして、女性が同じ仕事を続けるというのも同じ状況でありえます。でも、このやり方を選ぶ人はほとんどみません。

差別的な社会状況があるから、それに乗って同じようにふるまうことは必須ではないのです。

そもそも、今は、ダブルインカムが主流になっています。だから、「男が大黒柱」はできません。それなのに、女性がかいがいしく、ハウスキープをして、子供を身ごもり、産み、育てています。そのうえ賃労働をして、男性伴侶の実家のご機嫌伺い、近所づきあいもする。逆はあまりない。それはなぜでしょうか。

 

わたしが知っている男性は「女性にはかなわない」「女性はこまやかだから」と、家事を女性がすることを必然のように言う人がいます。でも、ハウスキープに関していえば、あれは技能と責任感によって行われるものなので、女性である必要はないのです。

 

わたしの家では、わたしが工具を使った作業、裁縫をします。重い組み立て家具でも、わたしが一人で作りますし、家電の設置や修理もします。でも、皿洗いと洗濯物畳みは大嫌いなので、それは伴侶が主にします(わたしもします)。でも、どの作業も、得意不得意があっても、お互いに交換不可能な家事作業はありません。普段、これは自分がやり、それは伴侶がやる、ということが何となく決まっていることでも、相手ができない時には代わります。役割を固定化させないことが大切です。でも、固定化してしまいます。社会の差別構造が、家の中にまでやってくるからです。

それは、意思や思いやりや愛情ではどうすることもできません。

「お前は一生、皿洗いだ」と言われたらいやじゃないですか?自分の分だけならともかく。でも、家族を持った女性は、一生皿洗いをします。たいていの場合。

一緒に住むうえで、「気が付いたほうがすればいい」という人はたいてい地雷でした。こちらにとっては、「気が付いたら損をする」けど「気が付かないと家が崩壊する」という感じ。だいたい、押し付け合いになり、負けるのはたいていこちらなんですよね。いつもこちらが気が付きます。もうそこまでいくと「やって」というのもめんどくさい。

「ここ、汚れているよ」と言われる始末でした。気が付いたほうがやるんじゃないのかい。建前も守れないのか、とわたしは頭にきました。

 

そういう過去のパートナー達は稼ぎもよくないのですが、家の中ではでーんとごろごろ鎮座していました。でーんとしているつもりもたぶんなく、デフォルトがそうなんですよね。稼ぎも悪く、家事もしないならいらねえと思って出て行ってもらいました。でも、彼らは、なぜかがわからないんですよね。説明しても。(なぜかセックスが悪かったのかと考える屑もいました。たぶん、女性は「性欲」で管理できると考える屑だったのですね。お恥ずかしながら、屑って、付き合わないとわからなかったんですよ。あと屑が多すぎます)

 

説明してもわからないので、役割が固定化されていたのです。分担じゃなくて、わたしが一方的に負担を負っていました。こういうのは、”役割分担”じゃない。”役割専任”?

ごろごろしているのと家の中で立ち働くのとどちらか選べるなら、ごろごろしているほうが良かったです。選べない、というのが肝なんですよね。向こうは選べない状況にもっていくのがとてもうまいのです。わたしにはとてもかないません。いろいろ、精神的に攻撃してきます。「普通」「ちゃんと」とか言って。

わたしが「選べない」のはなんでか、というと、女だからです。社会構造がそうなっています。愛があれば乗り越えられるという人もいますが、構造から言えば、愛も搾取の対象になります。「愛しているならできるはず」という搾取です。

「本当に愛していたなら何もかも捨ててついていく選択もあったはずだよ」とは実際に言われた言葉です。何もかも捨てたら、どうなるでしょうか?

逃げる力もなくして、うまくいかなかったときに、誰も責任を取ってはくれません。不幸になった女性は、たいてい自業自得と言われます。それに、わたしの人生は、愛よりもずっと大事なのです。

役割分担、という言葉は、たいてい「パワーの差」をはらんでます。女の子は家事育児ができるように育てられ、男の子にはそこまで教えない、という家庭は多いでしょう。その「できない」ということも「パワー」に含まれます。女の子ならできるよね、と生まれてこの方浴びせられた「期待」みたいなものも抑圧に働くパワーです。

 

そのパワーというのは、「女性蔑視」に基づいています。女性を蔑視することで、男性が持ち上がります。そして、男性が女性に対して力を持つことができます。これが差別構造です。だから、男性にとって、差別というのは気が付くことができないし、気が付きたくもない、不名誉な事実なのです。男性は「構造の話」をしても、あまり聞きたがらないのは、構造の上部にいるからでしょう。

女性蔑視や女性差別構造がある限り、家の中で、男女間が平等に役割分担をすることはできません。

 


「お気持ち」「まなざし論」に対する反論

わたしの嫌いな言葉に「お気持ち」「まなざし論」というのがあります。

客体化という概念は、社会学でもフェミニズムでも普通にあるので、なぜそこがひっかかるのか謎です。

女性はエロい目で見られたら気分が悪くなり恐怖を覚えます。

男性にとって、エロい目で見られることは楽しいことなのかもしれませんが、女性にとっては恐ろしいことです。危害が加えられる前の段階だ、と認識する人が多いでしょう。

モノ扱いされたらいやだ、モノ扱いされると、拒否しても拒否が通らない、という経験をしている人が多いからです。

オタクはよく、「キモイっていわれる」「迫害される」というけれど、もしそうなら、「キモイなーと思われているのが目でわかる」はずじゃないかと思います。

もしくは、「あいつからカツアゲしよ」という目で見られてたらわかりますよね?

よく、痴漢くらいで、という人や、やめてくださいと言えばいいという人がいますが、カツアゲされているときに「やめてください」と言える人ばっかりじゃないですよね。勝手に触ってくる段階で、通常の判断力を持つ人ではなく、考え方がおかしい人間なので、拒否が伝わるとは思えないだけでなく、もっとひどいことをされると思って怖いから言えません。

もし、強盗に遭ったとき、毅然と「やめてください。お金は出しません」と言ったら、殺されるかもしれないから怖いと思いますよね。それと同じです。

 

見ただけでダメなの?というけれど、ええ、ダメなんです。ちらっと見るのと、じろじろ見るのと、やっぱり違いがあります。そして、じろじろ見られたあと、ひどい目に遭ったことがあれば、経験上、それは嫌で恐ろしい行為になります。

女性がキレて怒ると、「ヒステリー」と言われるけれど、男性にはそれにあたる言葉がありません。男性は怒っている状態に名前を付けるまでもないわけです。

わたしは治安のいい場所に住んでいるけれど、日中に男性から怒鳴られたりけられたり、つけられたり、というのはあります。そういうことをするのは男性でした。例外なく。

「人格のある人間だと尊重される」の意味は「嫌だ、やめろ」と言ったときにその意思が通るということです。

「モノとして見られる」というのは、見ている側がその妄想通りに動かそうとしているときのことです。女性は、男性に迫られて(きれいな言葉であえて言いますが、実際には怖い)、丁重に断っても、逆切れされて怖い思いをした人はかなり多いです。つまり、断るってことを受け入れられていないのが怖い。

子供たちは、小学生のころから、盗撮、痴漢の被害に遭っています。それも、人格を尊重されていないってこと。

 

 

男性は「視姦」ってことば使いますよね。実行にも移しますよね。男同士で、ネットでも、現実でも語り合いますよね。あんな気持ち悪い言葉を選択するんだから、本当は見るだけでもダメだってことわかってるんじゃないかなあ。でも、ホモソーシャルにおいては「悪ければ悪いほど男らしい」という規範があるからそれに乗っているんじゃないかと思います。

 

「まなざし論」「お気持ち」という言葉って「お前の感じたことには意味がない」って意味しか伝えていないんですよね。まなざし論、まなざし村、お気持ち論、こういう言葉を使えば、「客体化はやめろ」という女性の主張を無効化できると思っているのかもしれません。でも、それには根拠がない。つまり「お気持ち論」「まなざし論」「まなざし村」って言っている人のほうが、主観だけで根拠なくいっているんですよね、言い返したいだけで。それってとても貧しい行為です。お気持ち、まなざし論といっていたら、女はバカだ、しかし、男は冷静で賢いのだ、と仲間同士で慰められる、そういう符丁と化しているように思います。

 

一方「客体化やめろ」という女性たちの声には、根拠がないんでしょうか?

根拠はありますよね。嫌なものを嫌だという、やめてほしいことにやめろという。

それを尊重されるのは、人間として当たり前のことです。当たり前のことを言っている、というのが、根拠です。人には嫌なものを嫌だという権利があります。

Rightですからね。権利って。正しいことって意味です。嫌なことを嫌だというのは正しいことです。

じゃあ、「まなざし論」という言葉を使う側の人も、「不快だ」と言えば通るはずだと思います?見るだけでダメだという意見に対して「見るくらいならいいだろう」というのは正しいことだと思うのでしょうか。「視姦」という言葉がまだ死語になっていない社会なのに。

例えば、ポルノ的な漫画表現をやめさせられるのは不快だし表現の自由を侵害しているって思います?

ポルノ的表現が、女性や子供への加害行為を助長している事例は、いくつもすでにありましたよね。それで女性は怖がっているのです。

外出先で、子供がトイレに行くときには、女性は必ず付き添います。トイレで暴行される事件が絶えないからです。生活に不自由があるのです。実害があります。

ところで、わたしはネット通販が好きですが、見ているとどんどんほしくなります。見るという行為は、欲望を喚起させるからです。滞在時間が長いサイトでは、購入する可能性が高いということは言うまでもないかもしれません。サイトを作るとき、コンサルタントは必ず言います。

広告の基本で、「この欠けているものを手に入れれば、あなたは今よりも幸せになる」というメッセージを発するという手段があります。だから、広告は何度も見せることが大切なのですね。

人は、自分に欠けるものがあると知ると、それがほしくなります。見ていると、本当はまだ持っていないものなのに、すでに持っているかのようにも錯覚して、執着してしまいます。これは、フリマアプリでも使われているテクニックです。

 

だから、ポルノ的な漫画表現が、児童や女性への欲望を喚起していない、というのは、結構苦しいんです。「あなたには、女性や児童に対する性虐待が欠けている」って訴えかけているわけですからね。「あなたにはこれができてないんですよね」というメタメッセージを発しています。

本当は、ポルノも、性的な夢想へ、安全に導くものに過ぎなかったらいいんですけれど、ヘテロシス男性向けのポルノでは、女性か児童が性虐待の対象になっています。それが、本物の人間であっても、「性的キャラクターのイデア」としての女性であっても、結局、「その特徴を持つ者への性虐待」という欲望を喚起する点では同じです。

性虐待ポルノを見ているだけにとどまらず、仲間内で、符丁を語り合って、結束を強め合う状況は、かなり危機的に感じます。すでに「そこまでやるなんてすごい」という風潮もありますよね。日々、変質者から子供を守るために、ぼんやりすることもゆるされず、神経をとがらせると、「児童への性虐待」を面白い冗談のように消費する人を信頼できません。

 

また、表現の自由というのは、いつでもどこでも、完全に自由に許される根拠になるものでもありません。もしそうなら、ほかの自由も完全に保証されるべきですよね。でも、「安全に暮らす自由」「心配をしないで道を歩く自由」というのは、弱者にはありません。この場合の弱者というのは、社会的肉体的弱者、という意味です。あらゆる自由の中で、表現の自由は何をおいても尊重されるという決まりはないんです。

 

自由は自ら守るものだとどこかで習った人は多いでしょう。それは、いつでも自由にさせろ、という態度だけじゃなく、周りの人に気を使ったふるまいをすることで、信頼され、規制を最小限にするという態度も含まれます。

人を客体化する害については、様々な人が述べています。

でも、「まなざし論」とバカにする人たちは、「なぜまなざし論といってバカにするのか」ということを丁寧に人に伝えるように書いたことがあるんでしょうか。せいぜい、恫喝的な文章しか、わたしはみたことがありません。

気持ちや感情は大切なものです。

でも、男尊女卑な社会では、感情を女性特有の属性だとみなします。感情は理屈よりも低いもので、それを尊重するのは悪い、と考えるのが、女性差別の一つです。「男は感情をあらわにするべきじゃない」という規範を内面化しているんでしょうね。ただ、それは、男性が自分で乗り越えるべきことです。よく、女性に「フェミは男を救わない」というようなことを言う人がいますが、女性はケア要員じゃないですからね。それを言うのもフェミニズムの仕事です。

だから、「まなざし論」、「お気持ち」といって、女性の訴えを「感情的なものだから揶揄してもいいんだ」と思い、それを言ってのける、ということ自体が、女性差別的な行為と言っていいでしょう。

結論は、「感情を女性特有のものとして、価値のない、根拠にするのに足りない、バカにしてもいいもの」という態度で発せられる言葉自体は、男尊女卑、女性差別のあらわれなので、「お気持ち」「まなざし論」「客体化w」というのはやめましょう。そういう人間は紛れもなく差別者です。


萌えと女性差別構造の維持

 

萌え絵には性的なニュアンスがある についているブコメをなるべく見ないようにしていたのですが、300を超えたので、トップ10は見ようかな、と思ってみました。

萌え絵のことを書くと、とても怒る人が多いのがわかりました。

なぜ書くのかとか書いて意味あるのかとか、不毛だとかいろいろ言われていますが、「萌え絵が性的か否か」の前提をはっきりしないと「どのくらい性的なニュアンスがあるか」「今後、それをどう扱うか」という話もできないからです。

下記の記事を読んでへーっと思うところは多かったんですが、

これは一見新しそうに見えるけども、まったく新しくない。つまりオッサン向けのエロ広告とかが、単に虹の「駅乃みちか」とか「碧志摩メグ」みたいなものに置き換えられたにすぎないの。しかも彼らが、旧弊オッサンよりタチが悪いのは、それらの表現について「エロくない!健全な表現!」と言い張ってること。そんな主張は極めて悪手で逆効果にしかならないのに、自分の性欲に気付いていないとでもいうのか?*3

の部分ですね。これは、わたしが認識していることと差がないんです。

 

萌えというのは、胸がぎゅっとして、きゅーんとして、ドキドキして興奮する気持ち(ちんちんは立たないことも多い)ということだとわたしは考えています。

「萌え」っていうのはオタクジャンルの人たちに与えられた、初めての「欲情語彙」だったんじゃないかなと思う。

この記事は2008年なんですが、そのころのブログには「萌えとは欲情の言い換えである」ということはいろいろなところで言われていました。

 

ブコメに「トラウマがあるんじゃないのか」「被害妄想」「エロいという気持ちである性欲を肯定して揚げてください」というようなことが書かれていました。

実際には、トラウマや被害体験は関係があるかもしれないし、ないかもしれません。あってもなくても、わたしの言いたいことを読み取る結果が変わるとは思えないのです。普通にとれば「トラウマや被害妄想があるに違いない」というのは「だから、この人の言うことは、トラウマを原因とする偏見があるから聞かなくていい」につながり、結局「トラウマのあるやつは黙れ」というメッセージになります。

「トラウマがあるからオタクをたたくんだ」という意味のブコメを読んだら、トラウマや被害体験がある人は、この問題に言及するのは難しいんじゃないかな。これも抑圧の一環です。

萌え絵を批判する人に対して、「女性として被害を受けた可能性」を出して、その発言の信頼性がないことをほのめかす行為は、萌え絵愛好者が、女性差別構造の維持をしている、という仮説の答え合わせになるでしょう。

 

「(あなたが)エロいと感じる気持ちを否定しないで」に至っては、「エロいと指摘した奴が一番エロい目で見ているんだ」でしかないです。「女性差別をしていると指摘した人間が一番女性差別している」みたいな詭弁と同じです。こういうのを見ると、対話することが不可能なんじゃないかなとひどくがっかりします。

 

いつでも、どこでも、「女性の体を客体として見る」というメッセージを発するということは、女性や女性の姿をしている人を委縮させます。主体性が認められないというのは、非常に怖いわけです。主体性を言い換えると「嫌だ」「やめろ」という権利です。人間は「これをしたい」という気持ちと「嫌だ」という気持ちの二つで、自分の領域を認識します。やめろ、と言っても、「やめろ」という意味だと認識されない恐怖を身にしみて感じている人は多いはずです。

これは、わたしの被害妄想じゃなく、「いやよいやよは好きなうち」「本当にいやだったら怒らない(憎まないで)で無関心になる」というような言葉からも、「女性や子供が嫌だと言ってもそれは嫌という意味で理解されない」というのは、一般的な概念だということがわかるかと思います。

 

女性差別がある社会では、女性は、自由に好きな恰好をすることができません。その一方、女性差別のある社会では、それとは逆に「自由な服装をしているキャラクター(ただし、男性が特に好ましいと思う姿)」が描かれます。その「キャラクター」がどのように受け取られているか見ると、ますます、女性は自由にふるまうことができなくなりますが、消費する立場では、「こういうキャラもいるのだから、抑圧はない」という主張の論拠になります。

女性がなぜ委縮するかというと、

「キャラクター」の姿が、女性の特徴を抽出して、さらに強化している姿であるとします。それが男性にとっての「イデア」であるとわかります。これが問題になっている「性的な誇張」の意味です。

すると、その「キャラクター」が、誰にどのように受け止められているかが、これから女性がどのように扱われるかの前提になるからです。

 

ダメなのは、「女性はエロい」という視線で消費する構造なんですよね。女性がいわゆるセクシーな姿でいても、それを消費する視線、女性差別構造が悪いのです。そして、女性の姿の特徴を抽出して強化したキャラクターの在り方、それの消費の仕方によっては、それを悪化させるのです。

それを考えたくないからと言って、女性差別があると指摘した人を「女性差別をしている当人だ」というのは詭弁です。

女性が、好きだから着る、というのと同じように、キャラクターがこれを好きだから着る、というのは言えませんよね。キャラクターが自分自身で何かを好きになることはできません。設定上、「好き」ということにはできても、人間と同じように「好きになる」ということはできないのだから。

 

これからどうしたらいいのか、というと、女性差別をなくし、女性を抑圧する構造をなくしてほしいということです。

だから、それには、どの道を選ぶとしても、表現の一つ一つを個別に性的なニュアンスがあるか、どの程度か、それは、女性を抑圧する可能性があるか、吟味してから、外に出していく、外に出すならどの場がふさわしいかという過程が必要です。

 


「萌え絵が性的である」と言ったときのよくある反論について

キズナアイを例にとって書きます。

それは、

があるからです。

個人的には質問の形をとった反論だと思います。それはおいておくとしてコメントでも答えましたが、

  1. キズナアイが性的かどうか
  2. ジェンダーロールの与える影響は少ないはず
  3. 女性が描いている

1については、わたしが性的か判断するかどうかは本論で書きました。このコメントでわたしが大切だと思ったことは、キズナアイはやっぱり萌え絵なんだなということです。

でも、上記の記事で、わたしは「エロいからダメだ。嫌いだ」とは、言っていないんですよね

「性的に誇張されたキャラクターならば、NHKの子供向け番組にはふさわしくない。また、番組内の役割からいっても相応しくない。なぜならばジェンダーロールを強化するから」と言っているんですよね。

なぜ、キズナアイを好きな人たちは、キズナアイが性的ではない、ということを前提に主張するのか不思議です。残念でもあります。

2についてですが、コメントした人も認めている通り、ジェンダーロールへの影響はあります(影響は少ないと思いますというのは、つまり、あるかないかでいえばあるってことです)。そして、その影響が少ないか多いか判断するのは、誰が適切か、ということです。

答えは誰も適切ではない、です。

影響が少ないと思う人もいるし、多いと思う人もいます。

わたしは多いと思う人です。だから、その根拠を書きました。「多様な描かれ方をした女性キャラクターは多いから、影響が少ない」わけはないと思うんですよね。本当に多様化しているのか、という検証はなされていません。検証するなら、「多様化したキャラクター」という定義をしなくてはいけません。

また、コメント主さんも検証したわけではないと思います。影響が少ないという検証も難しいです。

この世の中から女性差別が完全になくなったら、「少ない」と言えるかもしれませんが、そうではないんです。女性差別はあります。

余談ですが、女性差別がある、という現実を認めない人は多く、データを出せ、と言われることが多いです。民法一つとっても、義理の父母の介護をしていた「嫁」の遺産相続がゼロ、とか、再婚期間に制限があるとか、ほかにもたくさんあります。もしくは、日本の女性の睡眠時間が一番短い、日本男性が家事をする時間が世界有数で短い、日本男性が育休を取るのは、3.6%で、しかも日数は六日だけだとか、いろいろあります。(質問の形で意見を言われるのも、女性はよくされることで、相手に差別の意識がなくても、うんざりしている人は多いです)

でも、差別の結果は、データで出ることも多いのですが、差別されている人間は、データを取ることのできる立場に登れないんですよね。それが差別の形の一つです。表に現れないように隠ぺいすることができるんです。

わたし自身は、「日本で作られた、ジェンダーロール規範から自由になった女性キャラクター」を実は一つも知りません。必ず、何かしらのジェンダー規範に沿って描かれています。まあ、実際無理なんですよね。無理なんだけど、意識して、それに抗うように描かれているキャラクターというのは作ることができるんだと思います。正直に言って、世界中のだれもが性的規範を内面化しています。内面化というのは、

上記の記事にも書きました。

内面化している以上、自由にキャラクターや物語を作ることはできないんです。でも、意識して、規範を再生産しないように、または、規範に対して批判的に描くことはできる、ということだと思っています。

 

3については、萌え絵は絵ですから、描く技術があれば、女性だろうと誰だろうとあらゆるジェンダー、セックスの人が描けます。

女性が描いているから、

≫「男性の価値観、理想に従わされた」「男性の求めている像に近づけた」

わけではない、というのは苦しいですよね。女性ならば性的に誇張した絵を描かない、というのも、ジェンダーロールを内面化した結果です。

もちろん、エロくてフェミニズム的である、というものもあります。

かわいい、という言葉に幼いものをめでるという意味が多分に含まれている以上、かわいい=幼いものにエロスを感じるのも、歪んでいると思います。幼いものはたいてい無力で非力ですから、それにエロスを感じるというのは、支配する喜びが付随すると考えられます。

 

 

 


萌え絵には性的なニュアンスがある

タイトルがすべてなんですが、以下述べていきます。

萌え絵はそもそも少女漫画の顔に男好みの体をくっつけたキメラ的な技法のもとで描かれています。

少女漫画の顔に大人の体、というキメラ的な描き方をしている、と指摘したのは大塚英志だったかと思います。

1990年代に萌え絵が発生しだしたと思うんですが、そのとき、リアルタイムで萌えキャラそのものに注目して文章にしていた人はかなり少なくて、大塚英志と東浩紀と斎藤美奈子くらいだったと思います。

 

わたしの実感ともそれはあっていて、萌えキャラは、はじめにときめきメモリアル、同級生というようなギャルゲーのタイトルを経て、その後エロゲーに発展していきました。

男好みの体、というと、わかりにくいかもしれませんが、ほっそりした華奢な体に、誇張された胸部が描かれている、という風に読んでください。

以前は、萌え絵が少女漫画のキャラの技法上にあること、そして、それにも関わらず、性的なニュアンスを加えていることについて、ある程度の合意が取れていたように思います。

今は、萌え絵には性的なニュアンスがない、という意見の人、強い言葉で言う人は「フェミは性的ではないものから性的なものを探し出している」という風に言います。

しかし、わざわざ、「少女漫画のキャラクター」と違う技法で描く理由があるはずです。意図や判断、好み、と言ってもいいかもしれません。

それは、「性的に誇張したいから」という理由ではないんだろうか。

(少女漫画や、子供向けのキャラに萌え絵が逆輸入されていることも今はあると思います)

萌え絵の歴史的な経緯を書きます。

わたしが初めて萌え絵というものを認識したのは、二十年前です。「はじめてのおるすばん」というえぐいエロゲーのキャラを見せられたのです。顔がすごくかわいいな、と思ったと同時に、その場の雰囲気を含めて異様な感じがしました。相手は同級生だったのですが、わたしの反応を楽しんでいる様子でした。なんだろう、良く知っているもの、つまり、少女漫画のキャラみたいな感じなのに、すごく変な感じがする、と思ったのを思っています。これがセクハラなのは明らかですが話が変わってしまうので。

あのキャラっていわゆるロリもので、公式上は十八歳以上ということになっていることも知っていますが、「はじめてのおつかい」を意識したタイトルから「幼い」キャラに何事かする、というゲームなのは明らかで、それは暗黙の了解ですよね。欺瞞なのは、ユーザーも知っていました。

 

必要とされているのが、「かわいい」だけなら、少女漫画でいいんですよね。

でも、「萌え絵」なんですよね。萌え絵がいい。そういう人がとても多い。そして、萌え絵のほうが公共の場に多く露出している。

それは、萌え絵が男性向けにカスタマイズされているからだと思います。男性に受けるものは、公共の場に出やすいです。それは、意思決定をする人、つまり、組織の上部が男性で構成されているからだと思います。

「かわいい」という言葉は、たくさんの研究がされていますが、一つの結論で、かわいいというのは「幼い」という特徴だと言われています。

萌え絵は、「かわいい顔に大人のボディがついている」というは、かわいいを幼いに置き換えると、つまり「幼い顔に大人のボディがついている」ということになります。

みんなも見慣れて感覚が変わったから大丈夫なのだ、という人もいます。でも、わたしは価値観が変わってしまった、ということを問題にしています。

萌え絵の出発点が、「男性に向けた性的なニュアンスがあるもの」なんです。少女漫画にもエロティックな描き方はあります。でも、それは、あまり表には出てこない。エロティックな描き方の少女漫画のカットが広告に使われることもほぼない。

もちろん、社会は変わったから、萌え絵=エロゲーのキャラ、という感覚が古いのはよくわかります。絵柄自体も大きく変わりました。使われる場面も変わりました。

 

でも、今の萌え絵の描き方のコードが、あまり変わらないように思うのです。古い例ばかりですみませんが、十年前のゲームの、ラブプラスも、こするとゲージが上がって、ハートが出て頬を赤らめてくっついたり、キスをしたり、というのも、やっぱり「エロ」ではあるんですよね。全年齢対象なのは知っていますが。

あれも、やっぱり「愛でる」行為だと、身近にゲームをしていた人がいるのは知っていたんですが、その「愛でる」の内容は、「エロ」も含まれているのではないかと。

わたしはとても疑問です。エロいと評価し楽しんでいたものに、「エロいですね」と言われると、どうして「エロくはない」というんだろうかと。テンションが上がって、「わー」となる、かわいい、楽しい、ってなる気持ちを否定したいわけではありません。わたしもそういう気持ちになるキャラはいます。

誰かがエロいものとして楽しんでいないとしても、エロい文脈で楽しんでいる人がいて、そういう文化がある、ということは、ファンならば特に目につくことでしょう。

 

話は変わりますが、わたしが疑問なのは、「エロ」として楽しんでいたものなのに、「エロ」だね、と指摘されると「エロじゃない」というのは、なぜなんだろうということです。

萌え絵はかわいいから、というのだったら、別に少女漫画の絵でもいいはずです。顔は同じ技法をもとに描かれていますものね(今の少女漫画ではなく、わたしの感覚だと、90年代から00年代の絵柄を発展させたものだと感じます)。

 

愛好家たちも、萌え絵と少女漫画のキャラクターの違いは、たぶん見てすぐわかってるんじゃないかと思います。ほかの人も言っていましたが、それが微かにエロティックであるか、とても露骨にエロいという差はあるし、軽重の差も重要だとは思います。

その愛好家や、愛好家じゃない人間にもわかる「違い」の部分は「エロ」「客体化、モノ化して、消費している」点に立脚すると思います。

なぜ「好きなのは、性的に誇張されていて、エロいから、それはとてもいい、だから好きなんだ」と言わないんだろうかと思います。

エロはダメだと思ってるんだろうか。

 

わたしの立場では、女性や、女性の表彰をモチーフとしたキャラクターにエロティックなものを背負わせて、モノ化し、客体化し、「女とはエロティックなものだ」という無自覚な価値観や、ジェンダーロールを強化することは、ダメだというしかないけれど。

Twitterでも見かけた意見ですが、エロは好きじゃないから嫌だ、という意見も当然です。

結論としては、歴史的な経緯から言っても、萌え絵が性的なニュアンスを含まない、性的な誇張がない、というのは難しいのではないかと思います。

(事実誤認に基づく記事を公開してしまったので、大幅に変えました。ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません)


キズナアイに対する私見(NHK番組の起用について)

NHKの物理ノーベル賞解説番組のキズナアイ起用についての論点は既に整理されていて、

  • 性的かどうか、性的ならばそれをNHKの子供向けのノーベル賞の解説番組のアイキャッチに使っても妥当か。
  • ジェンダーロールを再生産、強化する危険がないか。

(「大人が傷つくかどうか」「子供が傷つくかどうか」という二点に関して、今回はそれほど触れません。「キズナアイは性的ではない」と主張する人の多くは、批判者が傷つくから問題にしていると考えているようですが、今回はそこはそうではないのだという理由を書いていきます。実際には、感情や気持ち、傷つくかどうかは重要な論点だと思います)

ここでは、どういう人たちが問題にしているのか、なぜ問題にしているか書きます。

前述の論点は、かなりの人が書いているからです。

なぜ、問題にするのか。

それには、規範を内面化するというのは、どういうことか、わたしの経験を書いていきます。

人間は慣れる生き物で、そして、社会にこれだけ萌え絵が蔓延していたら、たぶんたいていの人は慣れているでしょう。

少女漫画を萌え絵が回収したと述べたのは、大塚英志でしたっけ。

だから、少女漫画と萌え絵の技法が似ているのは当然だし、だから、女の子もキズナアイが好きだというのはわかります。

わたしはセーラームーン世代です。大好きだったんですけど、大人になってから「なんであんなミニスカートなんだろう」「なんで戦闘中に服が破れるんだろう」「まもちゃんって、大学生だったの?(うさぎは中学生なのに?)」という気がします。嫌いになるわけじゃないけど、価値観が変わりました。

ジェンダーロールを内面化して、再生産すると言われても、ぴんと来ないかもしれないんですけど、いわば適応です。

たとえば、オタクキモイと言われていじめられていた人は、「オタクってキモイんだな」とインプットして「オタクは封印してきもくない人間になるぞ」といって逆に非オタクになるのも、「オタクはどうせキモイからずっときもくいよう」というのも、どちらも「オタクキモイ」という価値観を内面化しています。

「オタクがキモイ」という価値観を軸や基準にして考えていることを内面化というわけです。

女の人にも同じようなことがあって、わたしの体験を話すと「女の子は数学とか理科とか苦手だよね」「目の保養だね」「スカートはけばいいのに」みたいなことを言われて、「そうか女の子は数学や理科が苦手なんだな」「目の保養ってかわいいってことなのかな」と思いました。その後、「数学や理科が苦手なわけないじゃん、むかつく」「目の保養って、単にかわいいって意味だけじゃなかったんだ、怖いし気持ち悪い、スカートはくのとか、肌出すの怖い」と思いました。

こういうのも内面化です。「女は数学ができないし、目の保養になる」という価値観があると知って、行動がそこを基準にしてしまうんです。

反発するにしろ順応するにしても、自由ではないわけです。不自由です。

わたしの子供のころ、「女芸人は最終的には裸にならないから芸人に向かない」と言われたり、「女の子は愛想よいのが一番!よく話を聞いてちゃんと相槌を打つんだよ、かわいがられるのが一番幸せなんだから」と言われたりしました。

アイドルはダウンタウンに殴られていたし、モー娘。のメンバーはジョンソンととんねるずに言われていました。

わたしは、いまだに「たとえ美人であっても調子に乗ると叩かれる」「いじられるとおいしい」「ダサいのは悪」「かしこぶってると思われるような言葉遣いをしてはいけない」「相手が男の人だったら、根拠があいまいだとしても、実は深い理由があるかもしれないから、荒唐無稽でもうんうんと話を聞かなくてはならない」「礼儀正しい言葉を使わなくてはならない」と思っています。これが内面化です。これは、テレビや新聞や、身近な大人たちが少しずつ刷り込んでいった結果です。

 

で、わたしがそこから自由になるのはそうとう難しいと思います。でも、まだそのようなジェンダーロールに汚染されていない子供(自分の子供でなくても)は、汚染されていないまま育てたいと思うのです。

よく、「親が教育すれば大丈夫」「大人になるってそういうこと」「大人になれば判断がつくから大丈夫」と言いますが、一日親と過ごすのは乳幼児期だけで、四歳になれば保育園か幼稚園に入る子供がほとんどです。学校教育が始まれば、親との接点がどんどん減ります。だから、教育すれば大丈夫ということはありません。こういうことは、質よりも量なのです。大人になるということは、マヒすることではありません。大人になって判断がつくようになっても、わたしは規範から自由になれませんし、そもそも、内面化した規範に気付かない人が大半です。

 

社会が男尊女卑を前提にして構成されている以上、マナーやルールも、男尊女卑を前提にしています。それを少しずつ壊すためには、あらゆることを変えていく必要があります。

 

たとえば、標準語は、人為的に作られた言葉です。明治期に、京ことばを採用するか、東京の書生言葉を採用するか、審議されていました。なよなよしていると困るという理由で、東京の言葉になったんです。そして、女言葉も人為的に作られた言葉です(ブログで取り上げたことがあったような気もする)。

日本語用学会↓

文化は、時に、政策によって、もしくは誰かの思惑によって形作られる場合もあります。

 

そして、子供は、本当に些細なことで、いろいろなことをあきらめます。彼らは順応性や吸収力が高いのです。

「先生が女の子は計算遅いって言った」「男の子は遊んでていいけど女の子は手伝いしろって」「片付けもしないなんて女の子のくせにだらしないな」と言われると、そうじゃないと言われても、「そうなんだな」と先に思ったほうを採用するきらいがあるように思います。

話は変わりますが、ネットフリックスで外国のキッズアニメを観ています。カズープ、ストーリーボット、ヒルダの冒険、ピッパピッグなどが好きです。これらのキャラクターの造形をみてもらうとわかると思うんですけど、ステレオタイプなジェンダーロールがないんです。しいて言うとヒルダだけ、人間の女の子なんですけど、性的な強調もないです。人の話も聞かないです。乱暴な言葉遣いもします。でも、全部のキャラがかわいいです。つまり、人間の女の子の表象を使う必要というのは、必然ではないんです。

 

日本のアニメはステレオタイプなジェンダーロールを継承しているものが多いように思います。だから面白くてもちょっと疲れてしまいます。A.I.C.O.とか。「ひっ」「はっ」というセリフが多くて疲れるのもあるんですけど。コミカルに描いていて、ちょっとメタ的な要素を含んでいる魔法少女俺もジェンダーロールから自由ではありません。(最近観たのをあげました、ほかにも観てるんですけどちょっと思い出せなくて)

 

キズナアイの最初の自己紹介のをさっき観てみたんですけど、かわいいし、好きな人がたくさんいるの、わかる、と思いました。

その一方、中にもちろん人がいて設計して演技させているわけなので、そのすべてが意図的なものだろう、だから、性的な強調の部分も意図的なものだと思いました。それを前提にして議論すべきだと思います。

性的かそうじゃないかで議論が分かれているのですが、たとえば、ピッパピッグと比べたら、性的だと思うんです。カズープのキャラでもなんでもいいんですけど。カズープに出てくるお姉ちゃんはちゃんと人間の女の子なんですけど、だぼっとした服装をしているわけでもないんですが、それと比べても、キズナアイさんは性的な要素を含んでいると思います。(ということを書いていて、いや、俺はあれでも興奮できるとチキンレースを挑んでくる人いるだろうなと思いました。でも、そういう人はきっと長文のブログを読まないだろうということに賭けます)。

キズナアイさんは聡明な方にお見受けしたんですが、その人が「相槌を打つアホの子」の役割をすると、「女の子はどれだけ賢くても男性の話をうんうんと聞くものだ」というメタメッセージが老若男女に伝わり、その考え方を強化してしまいます。その過程で、そのメッセージを受け取った人は、必ずしも傷つきません。

けれど、それを内面化していくと、人生の選択肢を狭めてしまう場合があります。

それが男性なら、女性が自分の話を聞くのは当然だと思い込んでコミュニケーションの失敗を巻き起こすでしょう。女性なら、自信をもって、自分の知っていることを話すことにおじけづいたり、この場合は理系の番組ですから、理系は女の子には難しいから自分は理系には進まない、という選択を招く一因になったりするでしょう。決定的な選択は本人が行いますが、その選択を行う過程で、その子がどういう思想を持っているか、というのは、影響が大きいものです。そして、その影響は大好きなものから来ることも多いのです。

 

キズナアイさんは、誰か人間がデザインして動かしているわけですから、その点を配慮した演出が可能だったはずです。それを怠ったところが、批判の対象になっています。

 

 

 


フェミニズムが魔法のスティックじゃなくても

新宿ベルクに関して、「フェミは魔法のスティックじゃない」というツイートをみました。

わたしのスタンスを書きます。

「デマ」と言われているのは「新宿ベルク店長は女性差別をした」とということを指していっているようです。

わたしは、それについてはデマではないという立場をとっています。

根拠を提示します。

デマとは、͡コトバンクによると

政治的な目的で、意図的に流す扇動的かつ虚偽の情報。
事実に反するうわさ。流言飛語。「人を中傷するデマを飛ばす」

ということですので、虚偽じゃないということを示します。

なぜなら、「アホフェミ」「すっぴんの女性店員もいて」「BGMも女性アーティストで」「だから、フェミニズムの本をたくさん読んだ僕はフェミニスト」「新宿ベルクはフェミニズムカフェ」というような内容の発言をツイッターやフェイスブックでしていること、それが女性蔑視であり、女性差別だからです。

すっぴんの女性店員も働いていることがなぜ親フェミニズムにならないかというと、それは、女性が本来自己決定してしかるべき容姿についての判断を店長がしているからです。女性がすっぴんをして、それを許容しているのは店長だ、ということです。本来は許可もいらない、女性が好きな容姿でいることに対して、ことさらにいうこと、それ自体がセクシズムルッキズムに基づいています。

「本来女性は化粧をして働くべき」という前提がなければ「すっぴんの女性店員もいる」ことが、発言する価値のあることだと発想しないでしょう。

「化粧をするべき」という規範と「すっぴんの女性もいる」という現実の間には「それを許可している男性」の存在が暗示されています。「すっぴんの男性もいる」と女性が言うことの奇妙さを考えてみてください。これが奇妙だと感じたとしたら、そこには何かがあるのです。なにかって、女性差別ですが。

 

「BGMが女性アーティスト」かどうか、というのは、「消費者として、女性のアーティストを好む」ということですよね。それは、フェミニズムとは、関係ないです。(女性蔑視が強すぎると女性のアーティストの才能や技能を認めることができないということはあるでしょうが)

それでいったら、これはたとえ話だと理解してほしいのですが、「ポルノに出ている人物の姿は女性の姿が好ましい」というのと、原理的には変わりません。客体としての女性が好き、ということなんですから。

「アホフェミ」という言葉を使いながら「フェミニズムカフェ」という言葉を使うのは、フェミニズムという言葉を収奪した行為です。

それを説明するために、少し長い話をします。前提を共有するために必要なことです。

公教育はなぜあるんでしょう?私立に子供を入れる人や、子供を持たない人にとっては無駄な出費と感じるかもしれません。

しかし、デモクラシーには、公教育が必要不可欠です。

100人の村で、99人がおろかで、1人が賢かったとします。

その一人がリーダーになって引っ張っていけばいい、と思います?

しかし、このたとえでは、その賢い人がリーダーに選ばれることはありません。

それは、残りの99人がその人を理解することも賢さの価値を妥当な評価することもできないからです。

「こいつはおかしい」と言って隔離されたり迫害されたり、最悪の場合殺されることもあるかもしれません。

わたしは「勉強のできるバカ」と言われたことがあります。その人は勉強ができるということは、理解できたんですね。それは、公教育の賜物です。しかし、いろいろと考えることができるから、人と違い、それはバカと言えることではない、ということは彼は理解できませんでした。

新宿ベルク店長のフェイスブックをみたところ、全部をみたわけじゃありませんが、ツイッターアカウントをさらすのが趣味みたいだと思いました。たくさんのスクリーンショットが張られており、その多くは女性アカウントのように見えました。わたしもブログに批判対象のツイートを貼ります。だから、その点では彼を非難できる立場かというと微妙ですけどね。彼の場合、引用や、批判とは考えられないやり方をしています。そこがわたしとは違うと思っています。

ある種の人は、攻撃する相手を選ぶようです。「弱い」と認定した人を選んで攻撃します。

弱いとみなされる属性の一つに「女性」というものがあります。

女性たちは、「怖い」と言いました。「怖い」という人々は攻撃されていました。謝罪する人に暴言を吐いて、「この人は謝罪しているのだから、きついことを言ってもいい。この人はそれが平気だから」ということを言っている人もいました。

「怖い」という人を攻撃する人は、どういう思考なのか考えました。

「怖いなんてはずがない。だから、これは嘘だ。嘘をついてあおっているのだ。デマだ。デマを言って、味方を探しているのだ。許せないから攻撃しよう」と思っているのと同時に「謝罪をした。怖いと言った。つまり、これが弱点だな。弱点をさらすということは、攻撃するべきだな」と思っているんじゃないかと思いました。これは推測です。

 

フェミニズムは、確かに魔法のスティックではないのかもしれません。

だったら、それぞれが自分の信じるやり方で、自分のしたいことをしましょう。

それは、女性が奪われてきたことです。女性が自分の信じる意見を言うこと、たったそれだけで、叩かれ脅されてきた姿を知っていますよね。知らない人は観察眼が足りないと思います。打ちのめされ、痛い思いをし、つらいと思い、黙る人や、つらいと感じる心を封印して、戦う人もいますよね。

どちらも、女性が抑圧されているがゆえに起きることです。女性は、人のケアを優先し、自分のケアをおろそかにするように常に圧力をかけられてきました。

常ににこにこしてふんわりと優しく振る舞うことを強制的に期待されてきたから、信念を貫いて発言することも、怖がって黙ることも、どちらも非難されてきました。

痛いものを痛いと認めることからしか、自分をケアすることはできません。戦うことも、痛いことは痛い、不当なことは不当だ、ということを認識しなければできません。体力や気力がなければ戦うこともできないのに、それさえ、してはならないと規範を押し付けられてきたのが「女」という性です。

 

 

誰かと連帯することは難しいことです。

1人で行動することも難しいことです。この二つを女性は、してはならないと引き裂かれてきました。つまり、女性たちは、自分のためには、何もするな、と言われて育ちました。

女性は、信念を貫くこと、間違うこと、連帯することを「女らしくない」と封じられてきました。女らしくないという言葉の消費期限が切れると「人間としてどうかと思う」という言葉を女性だけに向けられることによって、封じられました。

 

闘うことがフェミニズムの本質です。これは運動だからです。

闘えば、それを気に入らない人も出ます。自分の持つフェミニズムと違う考えの人もいます。

叩かれるのも批判されることも侮辱されることも全部痛いし、攻撃としか感じられない状況の時に、それらを区別することは困難を極めます。

 

だから、それを認めたいと思います。女性は、難しいことを強いられています。

ネットでは、批判とも侮辱ともつかないツイートが、女性アカウントに集まります。女性はそれで恐怖や驚きに疲弊します。そのうえで、上記の難しい作業をしなくてはいけないとしたら、それって不可能ですよね。ほとんどの人ができません。男性は、女性よりも、侮辱するようなツイートが集まりにくいのです。

叩かれるのも批判されるのもつらくて痛い、だからこそ、誰のために戦うのか、それを明確にすることが大切です。自分のために闘い、人の代弁を避け、人の代弁をするときにはその結果を受け入れること。

ケアをすることも信念をつらぬことも、闘いです。

後悔しないためには、1人の活動を大切にすることです。

人間関係のしがらみにがんじがらめになり、「あの人は友人だから」「知り合いだから」「人気があるから」といって、フェアネスよりも人付き合いを優先したとき、悲劇が起きます。

足並みをそろえることを忌避しましょう。自分の判断で動きましょう。

足並みをそろえようとするのは、全体主義の始まりです。それは圧力に変質します。

天皇の名のもとに、第二次世界大戦で、多くの無辜の人々が犠牲になりました。

連帯していたはずなのに、総括といって、反省を迫った挙句、なじった相手を左翼は殺しました。左翼の女は凄惨な殺され方をしました。

結果的に連帯できたら幸せなことですよね。でも、最初からそれを目指していたら、苦しくなるでしょう。

みんなが賢くならなければなりません。

今、大人の人たちで、生きる過程で、フェミニズムや女性の権利を学べて来た人は少数派です。

誰からも理解されません。それどころか、「違い」のせいで、攻撃の対象になります。アホだのバカだのののしられます。

愚かなのがどちらか、最後になるまで分かりません。だから、一人一人が自分の判断で行動することが大切です。

 

日本の社会では、構造的に女性差別が前提となっています。民法一つとっても、女性に不利益のある条文はたくさんあります。刑法もそうです。家事育児介護は女性の役割とされています。日本女性の睡眠時間は、世界で一番少ないのです。日本男性のほうが女性よりも睡眠時間が長いのです。

家事育児介護を女性が担っていると、日本政府(今年の内閣は一人を除いて男性です)や男性は、楽ができます。それらをなかったことにして、「女性は非生産的だから」といって、罵り、自分が素晴らしいもののように感じるまでがセットです。

女性差別撤廃条約を批准していても、実際に改善しようとしていない、と国連から勧告が出ましたね。条約は、批准していればいいというものじゃないのに。

日本のジェンダーギャップは2017年で114位です。日本の医療水準は非常に高く、そのため、順位が底上げされているのにかかわらず、この低さです。

つまり、女性が生活するにあたって、すべての場面で差別的な扱いを受けていると考えるべきです。

女性は、不断の人間関係、買い物、食事、労働、政治、すべての場面で差別されています。

政治の場面から排除されているので、女性は、自分たちの境遇を変えることがまだできていません。

人生を少しでもよくするために、女性はずっと闘ってきました。

その恩恵を、新宿ベルク店長をはじめとしたすべての人が得ています。

女性は子供の権利のためにも、子供の公教育の水準をあげるためにも、声をあげてきましたよね。わたしは、今日も教育の無料化の署名集めに協力してきました。それは保育園で行われており、署名を集めていた人も、署名していた人も、見た限り女性ばかりでした。そうした恩恵を、もちろん男性も受けます。

そこで、最初に戻って「アホフェミ」「アホなフェミもいるから区別するためにそういった」という言葉の欺瞞と、「フェミニズムカフェ」と名乗る姿を見て嘲笑し、愚弄されていると感じる理由とします。


悪い表現に悪いということ

たとえば、小川榮太郎の書いたような文章を読んだ時(それは余命三年だろうがなんだろうが好きなものを当てはめてください)、人は傷つけられる。

文章は人を傷つける。

傷つけられた人の反応はさまざまだ。我慢する人、黙る人、傷つく自分が悪いと思う人、そして、「これは悪いものだ」という人。

「これは悪い」という人の意義は高い。我慢し、黙り、傷ついて孤立した人を助けることができる。傷ついた人を孤立させない、また、傷ついたという感情を肯定するメッセージを発している。

「批判」というものをネガティブに思う人がいるらしいが、批判は、無言で孤立している人をエンパワーメントする役割もある。また、世の中にこういうものは許さない人間がいる、ということを伝えることもできる。

ポルノグラフィティの話になると、ポルノグラフィティに関する表現の自由を守りたい人たちは、傷ついた人々にも「批判する自由」があることを忘れてしまう。それも表現の自由であるのに。

弾圧だ、という。

しかし、ヘイトスピーチが、表現の自由の範疇にないことを、市井の人々が勝ち取ったように、「ヘイト画像」(今作った造語)にも表現の自由の範疇にないことを、これから我々は勝ち取れるはずだと思う。

良い言説があり、悪い言説がある。批判は、それが好きかどうかは全く別に起きるものだ。

「表現の自由」をたてに「ヘイト画像」と呼べるようなポルノグラフィティに一切の批判を許さない人々は、「批判をする人はそれを嫌いだから批判する」のだと思っている。

しかし、批判は。半ば自動的に導かれるものだとわたしは感じていて、例えば、それが好きであっても、批判をしなくてはならない時、わたしは批判をする。それが論理的に導かれるものであるときもあり、直感的に導かれるものであるときもある。

良い言説、悪い言説があるように、良い画像、悪い画像がある。

良いエロティックなもの、悪いエロティックなものもあるだろう。

言論について、それが「悪いもの」があることは、社会的に共通に認識されているが、「イラスト」「グラビア」「広告」に関しては、「悪いものと良いものがある」と示しただけで、「弾圧だ」「表現の自由の侵害だ」「価値判断をすること自体がいけない」とすら言われてしまう。

しかし、意図して表現されているものすべて、それには、メッセージ性がある。

わたしたち人間は、言葉でなくても、それらのメッセージを読み取ることができる。

絵画、イラスト、写真、それらはすべて、誰かが意図して表現方法を練り、伝えたいこと(無意識か、自覚的であるかどうかは別として、作者の価値観を反映するのが表現である)があるために存在しているのだ。その伝えたいことが、なんなのかは作者にもわからないとしても、それを「見る」人がいれば、そこには、メッセージが生まれる。

わたしは、消滅するべき言説があると思う。ヘイトスピーチのようなもの。

それと同じように、消滅させるべき、「エロ表現」「ポルノグラフィティ」があると思う。それらは、「ヘイト画像」と呼んでいい。

社会構造が作り出す弱者をいたぶり、居心地が悪くなるようなメッセージを発しているもの。それらは、ヘイト画像と呼びたい。

「女をいたぶるとエロティックであり、興奮する。女は、何をされても決して痛がらず、最終的には喜ぶ」「女が身に着けている【下着】はエロティックなものだ」「制服はエロい」「女の胸と尻を観たらだれでも興奮する」というようなメッセージを発しているもの。そういうものは、ヘイトスピーチが許されないのと同じように、許されないという価値観を育てていくべきだ。

時代はよくなって、ヘイトスピーチを規制することに、社会的な合意ができてきた。ヘイトスピーチをヘイトスピーチと呼ぶことで、それを「言論に対する弾圧であり表現の自由の侵害だ」という人は、呆れられる。

それに引き換え、ポルノグラフィティ、中でも「被害者」がいないとされる「イラスト」に関して、「批判」するだけで、「表現の自由の侵害」と言われる現状は、イラストに関しても、社会の理解が浅いと思う。

イラストの持つメッセージ性が軽んじられているから、批判から逃れているのではないか。あるイラストを批判すること自体は、なんら、どの自由も侵害していない。それは自明なことだ。

人が生活しているとき、場面による文脈がある。

たとえば、朝、起きて、人と会えば「おはよう」という。それは、朝の場面という文脈が人と人の間に共有されているからだ。非言語的な文脈は、存在しているという一例である。

その、非言語的な文脈の中で、ふさわしくない登場の仕方をしているポルノグラフィティがあれば、それは、「登場する場面とイラストとのそぐわなさ」が発しているメッセージについても、批判するべきだ。

例えば、子供向けの売り場に、エロ技法で描かれたイラストの表紙があれば、そのメッセージは「男性は、常に自分が女や子供を性的に扱う権力を持つことを誇示できる」というものだ。これは、言論と同じように批判できるはずだ。

 

 

わたしたちは、文章を読むとき、自然と、その文脈を追って読む。

そのうえ、例えば、小説を読んだ時、その小説が書かれた時代背景についてすら考えることもできる。「夏目漱石が坊ちゃんを書いた時の時代背景」について。

漫画にもそれをできる。「手塚治虫の漫画で出てくる黒人表現は、今では差別的なものだと了解されているが、当時はそうではなかった。しかし、それでも、傑作である」というように。

わたしたちは、文脈を追って読む、という訓練をしてきており、また、生活においても、「生活の文脈」に沿って生活している。

それなのに、「イラスト」「写真」となると、その感覚を失ってしまう。

 

悪いポルノグラフィティは存在する。

そのとき、悪いポルノグラフィティを二つの観点から批判できる。

「場にそぐわない展示をしている」「ヘイト的なメッセージを含有している」

愛好者も、批判者も、ビジュアル的な表現の持つメッセージ性を軽んじてはいけない。

悪いものは悪い、そういう批判が、豊かな表現を育てるだろう。そして、女性や子供が安心して過ごせる、人格権を尊重する社会を作るだろう。

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