依存を超えて自分を生きる

山口達也と非生産(田房永子さん)

この記事を読んでいろいろと思うところがある。

わたしが真に困ったときに、贈られた言葉で「自分を生きてください」というのがあった。

「自分が生きる」が「自分を生きる」になったとき、自由になれますと言われて、心が強く動かされた。

わたしは、依存心の強い人間で、いろいろなものに依存してきた。人に依存したときは最悪だった。お互いに。

出産後、依存することが減った。過食傾向があったけれど、食べることにも依存しなくなった。

この記事を書くにあたって、「子供に依存してるのかな」とも思ったけど、それも違う。

ということを書こうと思う。

以前、田房永子さんの「キレるわたしをやめたい」について「この場面はキレていいと思う」という感想を書いた。それは今でも変わらないんだけど、産後「キレる」ということが増えた時期があったので、「このことを言っているのか」と思った。

たとえば、哺乳瓶を洗っていると、頭の後ろのほうで、パンっとなにかはじけるような感じがして、そのまんまキレてしまう。

怒鳴って、伴侶をたたき起こす。何やってるんだよ!と。

それで、いろいろ対策した。

振り返って、スローモーションで再生すると「頭の後ろのほうに白い塊がわく→それが破裂する」の間には、「なんでわたしばっかり」という気持が隠れていて、その気持ちが「今もそうだし昔もそう」ということを訴えていた。

生まれたときからの恨みがそこにあった。

生まれたときからの恨みを解決するのは難しいので、「わたしばっかり」と思ったら、とりあえず、それをするのをやめようと思った。

キレて家がぐっちゃぐちゃになるまで泣くより、わたしが育児をしないほうがましだという言い訳もあったけれど、それより、恨むくらいならやらないほうがわたしのためだと思ったから。

ましだからだとかなんとかとか、人や自分に言うための言い訳もやめたかった。

わたしがしたくないからわたしはしない。

そういうシンプルなことが大事だろう。

実際には、子供の世話をしたくないといっても、それを代わってくれる人がいないと実行できない。だから、伴侶に頼んだ。

それ以来あまりキレていない。

だから、そういうことなんだろう。本当はしたくないのにしなければならないからしている。だから、しなくてもいいように状況を整えて(そうすることで責任を果たして)、しない。

伴侶には負担をかけて申し訳ないと思うけれどキレたってどうせ負担はかけるから、彼が嫌になったらその時話すしかない。わたしはどうしたって、わたしでしかないから、恨んでキレるか、恨まないで生きるかしかない。

それでも暑い日にはキレることもあるので、キレそうになったら、薬を飲むようにしている。漢方薬も飲んでいる。効いていると思う。

依存をしているときは、単調な刺激をひたすら摂取して、脳を使わないように、刺激で満たして、時間をショートカットしている。幽体離脱と同じだ。今を生きていない。だから、そういうときは、生きている実感がないし、時がたつのがとても早い。それで、自分の人生がいつの間にかまた知らない間に失われてしまったと嘆いて、また恨む。自分の人生を親とか子供に盗られてしまって自分のしたいことができてないと言って恨む。依存しているときにはそれに夢中だから何も考えなくていい。考えているつもりだけど本当の意味では考えていない。

「考えるのをやめる」ことと「依存をやめる」ことは似ている。

考えることをやめるのは思考停止みたいだけど、思考することで生きるのをやめるという状況がある。それが依存。食べることを考えていて食べていてどう食べるかいかに食べるか、それしか考えていない時って、頭使っているようで使っていない。食べることで生きている感覚を取り戻し、そして、食べることで思考をマヒさせる。

だから、食べることについて考えることを止められてようやく生きるみたいな感じになる。

食べることばかり考えているときとか、あと何時間したら睡眠導入剤(以下睡眠薬)を飲めるかだけ考えているときは、生きてはいるけど人生を生きていない。「わたしを生きて」はいない。人生がつらい時、ひたすら睡眠薬を飲める時間を待っていた。睡眠薬を飲むとぼんやりするから。そのぼんやりを「思考が研ぎ澄まされている」ように錯覚しているときもあった。別に何でもいい。睡眠導入剤じゃなくても、過食でも、なんでもよかった。

 

自分が人生を生きなきゃ死ぬってことが本当に腑に落ち始めたのは、五年前が始まりだったと思う。それまでどうやっても無理だった。親を捨ててからようやくやめられた。それまでは「自分で好きなように人生を生きるのは親に悪い」と思ってできなかった。親と縁を切って親に対して理由を説明しなくなってからよくなった。理由を伝えて説得しないといけないと思っていたから、依存しないといけなかった。説明をしなくてはいけない立場は常に弱い。

わたしの親は「理由」をとにかく求める。納得しない。だから、いつも理由を考えて行動していた。そういうのは、わたしのためじゃなかった。親はわたしのためだと言っていた。でも、わたしのためにはなっていなかった。

 

自分が自分を生きないと人生はこのままなくなる。もうすでに30年なくなっていたのに!なくなってしまった!親を許せない。苦しい。憎い。殺してやりたい。

という思考と、

親を許せないが、過去のことを反芻していたらさらに現在が失われる。

という現実の間で五年間苦しかった。どちらも本当だった。

 

親を許せないという気持ちを紛らわせるためにライフステージを進めることが必要だった。友達を作って、居場所を作って、お金を稼いで、伴侶を得る。生活の基盤を確保する。根無し草にはもうこりごりだ。根無し草のままだと子供として扱われて親に入ってこられてしまう。

そういう危機感があった。こんなに明確に思ってはいなかった。明確に思っていたら、相手に悪いと思って、行動できなくなっていただろう。

幸い、みっともないことをなりふり構わずした結果、伴侶を得て、生活の基盤も落ち着き、子供も授かった。

子供を見ていると、子供は成長しようとする方向性を持って生まれていることが分かる。成長は親と距離を広げるということだ。成長すればするほどどんどん離れていく。胎児から新生児、新生児から首が座り、寝返りができ、腰が据わり、ハイハイをする。抱っこする時間がどんどん減る。向こうから来たいときに来る。ハイハイし始めてから、一人遊びの時間がどんどん増えた。子供が親と距離を取るのは自然なのだ。生まれたときから決まっていることだ。それが腑に落ちた。

わたしは、親と別の人間だったのに、侵入されていたから、バランスをとるために、依存をしたり、体や精神のバランスを崩した。親がいなくなれば、原因がなくなるので、元気になった。

依存は生き延びるための手段でもある。依存症や、病気になるから生き延びられるということもある。でも、その生き延びるための手段を捨てて、生き延びる以上の生き方をすることもできる。

 

 

わたしは、田房さんという作家に特別な思いを抱いている。

同世代の似た属性の作家さんだから。

そういう、関係あるような関係ないようなことを考えてこの記事を書いた。

 


「いい旦那さんね」と言われるのがつらい

うちの伴侶はよくやっていると思う。
でも、外の人に「いい旦那さんね」とわたしに向かって言う人がいる。
そう思うなら、そこに本人がいるので、本人に言ってほしい。

わたしは、人生の「サブ」になるのがいやだった。

それもあって、籍を一緒にはしていない。
でも、「伴侶が主」で、「わたしがサブ」扱いを受けることが多くてうんざりする。
それは一つずつは些細なことだ。

家事分担について聞かれて、正直に答えると「全部やってもらってるんじゃん」と言われることだとか。
そんなことはないのだけど。
もしそうだとしても、帝王切開をして、産後の肥立ちが悪く、二回もひどい出血をして、実家には一切の援助なく、わたし自身の病気や障害がある中で子育てをしているのだから、それぞれが精一杯のことをしないと、家が回らないのだ。
だから、やることはお互い当たり前である。
じゃないとわたしは死んでしまう。死んでほしいかと聞くと、伴侶は死んでほしくないという。
わたしに死んでほしくないなら、伴侶が動くしかない。

具合が悪いので、「全部やってもらってる」と言われると、じゃあ、わたしに死ねって言っているのと同じ意味になるけど?と思う。そんな覚悟もないくせに。

能力的には、わたしと、伴侶で違うないというか、分野によってはわたしのほうが優れている。
でも、対外的には、「彼の意見」「彼のできること」にフォーカスが当たって、わたしの意見はないがしろにされやすい。当たり前のように、彼に意見を聞く人が多い。

わたしは、子供を産んだことによって、人生における「伴侶のサブ」になったんだなと実感することが多くて、うんざりする。
この世から消えてしまいたいと思う。だって、彼がいるなら、わたしが世界に煎らないんじゃないのかと思う。

わたしは、家の運営をしている。ムードをよくして、清潔を保ち、栄養のある食事を作り、寝具を補充し、あらゆるものを管理している。
それは彼には手が回らずできないことだ。
必要なものを吟味して、購入して、暮らしやすくすることで、家族全員の健康を守っている。

それだって労働だが、社会の構造的に、そういうものは労働としてみなしていない。
むなしい。
もう、元気がないから、戦うことも難しいので、ただただ、そういう風潮がむなしい。
賃労働をするには、健康が必要で、健康を保つための前提となる労働がある。
わかりやすく言えば、ホームキープ、介護、育児。
そういうものを、賃労働に押し上げてきたのは良い傾向だ。それがなかったことにされていたころよりもいい。
自分でやることで、節約になるかというと、そういうことじゃない。
労働が見えなくなるということ。

子供を産み、育てると3000万円かかるというツイートがある。
わたしは、3000万円よりも、家族のほうが好きだ。
でも、どちらかを選ぶしかないより、両方ほしい。だから、もうちょっと頑張ってみる。


グロテスクに産後クライシスを表現すると

子供を出産するというのは簡単なことではない。
想像してほしいのだけど、一年近く育てた腫瘍を摘出して、三キロの腫瘍と七キロの腹水を取ってから、さあ、次の日から赤ちゃんの世話をしてくださいと言われているようなもの。臓器を一つ摘出したのと同じダメージがあるのに、さあ「あなたは、母親です」と言われて「愛があるのが当たり前」と言われる。

おなかを手のひらサイズに切り開いて、びしっと傷を引っ張って、手を肘まで突っ込んで、ぐりぐり手を動かして、赤ちゃんの肩をつかんで、えぐりだす。それが出産だった。そのあと、胎盤を引っ張りながらぶちぶちはさみとメスで切るのが痛くて、そして、ポンプみたいなので血液と羊水を傷口から取ってから、下からも同じようにぎゅぽぎゅぽ液体を出した。

臓器を一つ取り出して、夜の八時に手術が終わって、次の日の昼のは赤ちゃんの世話をする。
想像してほしいけど、癌だったら大事にしてねと言われるところ。ほかの病気でもおなか切ったらしばらく寝られるでしょう。
でも、動いたほうが回復が早いと言われて動かないといけない。授乳に20分、おむつ替え、げっぷ、泣いたらあやす。それを一時間ごとにだから、授乳して抱っこしてたら次の授乳が始まったという感じ。それが新生児。十分隙間時間があったらいいようなもの。

五か月はどうかというと、三時間ごとに二十分の授乳だからその間には、二時間四十分しかない。その二時間四十分には「遊ぶ」「げっぷ」「おむつ」「記録」「哺乳瓶管理」「掃除」「片付け」「洗濯」「料理」「皿洗い」などなどある。
もちろん、暇だったら、赤ちゃんは泣き叫ぶ。楽しかったらにっこり笑ってくれて、遊んでいるのも楽しいけど、自分を無にしないと、自分が飽きてしまうこともある。
だから、飽きないために、自作のおもちゃを作って、試して、喜んでくれたらうれしいということを報酬にしてみたりして。
手作りおもちゃは愛のためにするんじゃなくて、自分が赤ちゃんと遊ぶことを少しでも楽しめるようにするためだ。
ユーザーによるフィードバックがあるんだと思うとちょっと仕事気分になるから気晴らしになる。
思い付きを試すことができると、まだわたし、人間としての尊厳を保っているかなって思える。

子供というのは世話をしないと、そのかわいさが分からない。
だから「何かすることがあったら言ってね、やるから」という夫は全然いい夫ではない。
言わないと動かない夫はクソの役にも立たない。文字通り。
自分のクソを拭けるのだったら、赤ん坊のお尻だって拭ける。赤ん坊の尻を拭けないなら、自分の尻も拭けないはず。
妻は夫のしりぬぐいしてやる存在でもなければ役割でもない。教育係でもなければ主導権を持つ属性でもない。
主導権を握るしかない母親がいたら主導権をいったんはぎ取って休ませるべきだ。
その後、休養を十分とってから、その家庭の分担を話し合えばいいが、疲れているときには無理だ。
子供が生まれる前と同じ生活をしているほうは、泥棒をしている。相手の時間を盗んでいる。

気が付いて、意識を向けたら何でもできるはずなのにそれをしないんだから、妻に恨まれるのは当然。
意識を向け続けていないと子供が死ぬという切迫感に突き動かされているのを「お母さんだもんね」と片付けられ、たまにやる夫が「素晴らしいお父さん」とほめたたえられているのを見ていれば、ぐつぐつ煮えたぎる感情が生まれる。

あの人はいい人なの、と言われても、実際に、子供が生まれる前と同じ生活を維持しているならそいつはいいやつではない。
妻が死んでもかまわないという行動だ。そう思っていないとしても、実際にしていることは「妻が死んでもいい」と思っている行動だから、いい奴なんかじゃない。
臓器を一つとって、睡眠時間が良くて二時間みたいな妻を放置しておいて「やれることがあったら言ってね」と言っている奴はいい奴なんかじゃない。

わたしなら、そいつを刺し殺す計画を立てる。泣き叫んで、夫に詰め寄る。私はおそらく死ぬかもしれないがお前はそれでいいのかと。

それが正常だと思う。

でも、そうしないで、怒りもせず、くたくたになりつつ、切れないで、それが当たり前だと思っているとすれば、もうそれは正気を失っていて、誰かの助けを必要としている。そういう家庭がいたら、放っておかないで、口を出したい。
文句ひとつこぼさず粛々と家事育児仕事をこなす女性がいたら、体が丈夫なのかもしれないが、わたしはその人が助けを求められないほど判断力が弱っているんだと思う。内臓一つとって今まで通りに生活するどころか、寝ないで誰かの世話をする人がいたらおかしい、大事にしろというじゃないか。母親にだってそうするべきだ。

母親の育児が偏ることがあるかもしれない。それは、子供と母親に接している人間が少なすぎるからだ。誰かが偏っていても、大勢が関わっていたら、偏りは小さくなるはず。そういう風に考えるのが行政。
保育や教育が家庭ごとにあまりにもばらついていたら、その子供に不利益があるから、均等にしようとするのが政治。
大勢の人間が関わったうえで、選択肢を提示しなければ、母親は寄る辺なく、何かに頼ってしまう。それが夫じゃない場合もある。夫じゃなくて、マルチや、カルトかもしれないし、自然食品かもしれない。話を聞いてくれる人がいなければそうなる。
今まで通りの生活をしようとしたら、家庭は崩壊する。夫婦仲も消滅する。


子育てはさみしいの連続

母乳を卒業してしまった。
あの暖かさや、縋り付いてくる感じや、ぼんやりした顔、満足しながら眠っていつの間にか口を開けたまま眠っているのをもう見られないんだなと思うと、胸がざわざわしてしまう。
この子はこの子が必要なことをすでに知っていて、わたしはそれを手助けするだけなんだな。
あっという間に終わってしまうというのは本当で、毎日かみしめるように過ごさないと、どんどん感情があふれてこぼれてしまって二度と会えない。
せつなくてつらくてさみしくていとおしいから離れがたいけれど、巣立てるように、一人で生きていかれるように、最後には私たちを必要としないようにするのが目標だから、育児はさみしい。
それは孤独だからじゃなくて、わが子がいとおしくていとおしくて仕方がないから、成長の一つ一つがきらきらと輝いている、だから、その輝きをみてしまうと、でも、もうそれができなかったころには戻ってくれないから、昨日のあの子にも、生まれたてのあの子にも、過去のあの子にはもう会えない。
あんなに愛したのの、過去のあの子はもういない。
現在のこの子はいて未来のこの子にも会える、それは知っているけれど、あの子には会えない。
笑顔がどんどんうまくなる、声を出して笑ってくれる、あやせばずっと笑ってくれる、泣くこともあまりなくて、必要なことを教えてくれるからそれをしているだけ。
こんなにかわいいのに、見つめているだけで疲れてしまって、わたしは倒れこんでしまう。ときどきつらくなる。
そういうときには人を呼ぶ。密室育児が毒だと思うから、みっともなくても、助けてもらったり疲れたら疲れたからという。
お客さんにも手伝ってもらう。どんどん招待して、どんどん開いた家庭にしたいと思っている。

わたしにはわからないおもちゃの使い方も、赤ちゃんのほうがすでに知っていた、という言い方をされている方がいて本当にそうだと思った。
わたしたちも、子供たちも、同じように賢く愚かで未熟なのだ。
そして、お互いに愛しい。
対等ではなく、でも、尊重し合える。

どうしよう、とてもさみしい。あの子はいるのに、あの昨日までの子はいないんだな。


えらいパパ?&卒乳

赤ちゃんが母乳を吸いたがらなくなって、一週間たつ。
もう、見向きもしない。まだ母乳は出るけれど。
もともと、母乳の出は良いと言われていたのだけど、産後鬱になって、増えてくれなかった。
それでも、四か月、吸ってくれていた。
でも、お正月から吸ってくれなくなった。
すごくさみしい。
あの暖かさ、懸命さ、もう味わえないなんて。

でも、これも、自然な流れだから、受け止めよう。
受け入れることはできないから。

「うんちのおむつ替えるなんて偉いパパね」
と言われて、わたしたちは戸惑った。
おむつを替えるのは正直に言うと楽しい。
健康状態もわかるし、赤ちゃんも喜ぶから。
穏やかな子だとよく言われる。お尻が汚れても泣かないで、「えうえう」と教えてくれる。
穏やかなのはママが穏やかからだよ、と言ってもらえるけど。

それにしても彼が褒められる率はすごい。行くところ行くところで褒められる。
わたしたちは、二人でするのが当たり前だと思っている。だから、困惑する。
わたしの具合が悪いので、むしろ彼にかかる比重のほうが多い。だから、「わたしがダメなのかな」と落ち込んだ。
でも、話を聞いているうちに、どうも、世間の男性が
「おむつ替えは汚いから嫌だ」と言ったり、
ちょっとでもしたら、
「イクメン」といって、威張ったりするらしいのだ。
おむつ替えについては、汚いからという理由らしいけど、その人は、汚いからといって自分の尻を拭かないのか?と思う。
そのほうが汚いと思うんだけど……。
イクママという言葉がないから、イクメンといって威張る理由もわからない。やって当たり前。
もちろん、わたしたちは二人でいるときには、お互いねぎらうようには思っているけど、根本的には、赤ちゃんが無力だから、対赤ちゃんとしてはやって当たり前。大人同士では感謝すれども。

保育園に行かせているから、卒乳はやむを得ないのかなと思う。
去年の暮れに母乳がたくさん出ているから、やれる間にやってね、と言われた言葉が身に染みる。
もっと、頑張ればよかったのかな?
でも、頑張ってわたしがいらいらするよりは、のんびりだらだらしているほうが、赤ちゃんは幸せそう。

夜寝る前に、川の字になって寝ていると、赤ちゃんが、わたしと彼を交互に見て、ずっと頭を振り続ける。
結構なスピードで。そして、にこにこしたり、けたけた笑ったりする。
両方に、二人の顔があることが面白くて、幸せらしいのだ。どっちを向いても、パパとママの顔がある。
わたしたちは、にこにこ見てる。

赤ちゃんは、必ずしも抱かなくても、そばにいて、何かしているだけでもうれしそうだ。
昨日は一時間かけて、服の毛玉を毛玉とりでとっていた。それを赤ちゃんの隣でしていたら、じっと「ママちゃんはすごい」と尊敬のまなざしで見られていた気がした。
赤ちゃんは洗濯物を畳むところを見るのが大好きだ。たぶん、ひらひら動くのが楽しいんだろう。

クリスマスのオーナメントのキラキラの青い球を束ねてつるしたり、ラメの紙をつるしたり、あみぐるみのたこさんをつるしたりすると、引っ張って、ぐりぐり振り回して、青い球をかんかん言わせたり、紙をぶわぶわさせたり、たこさんを吸ったりしている。
一人遊びが上手だ。
いつまで手製のおもちゃで遊んでくれるんだろうなあ。
たいしたことがないものでも、喜んでくれるから、何がうれしいか知恵を絞るのも楽しい。
きらきらして、軽く動いて、音がするものが好きみたい。
お祝いでいただいた、すべすべのタオルにうさぎさんの頭が付いたぬいぐるみが今一番のお気に入りだ。
なめるときの舌触りがいいらしい。
ぬいぐるみそのものだと抱きしめにくいけど、タオルだと、まだ小さい手でも握りしめることができるから、それがいいらしい。
いただいた時は頭だけのぬいぐるみにタオルがついているのはどうやって使うんだろう?と思ったけれど、贈ってくれた人はよく考えてらっしゃったのだな、と感心しきり。

卒乳も切ない。
パパばっかり褒められるのも切ない。
でも、それだけ、ほかの男性がしていない現実を反映しているのだし、卒乳してしまうのも、いろいろな人の手を借りることができるんだと思えるといいな。


思うように勉強できていないけれど

思うように勉強ができていないという話を精神科でしたら
「今は、生活や育児のことを勉強しているんだ」ということを言って励ましてもらえた。
今、背後では、kohhを聴きながらアゲアゲな乳児が指をしゃぶっている。
この人はなかなか敏感で、食欲よりも、父が近づいてきたことを優先する。音がしたらその方向を見る。帰ってきたらお話しする。残念ながら何を言っているかはまだわからない。
わたしがものすごいおしゃべり&パートナーが無口なので、どっちに転ぶだろうか。
何はともあれ、話せるというのはアドバンテージだ。黙っていれば嫌われずに済んだろうという場面をたくさん経験しているけれど、嫌われるのはいつか嫌われるのだ。自分が困っていたり、逆にできることを周りに伝える能力があったほうが便利だろう。
その逆に、無口なのも、人に好かれるのでとてもいいと思う。

わたしは自分で思っていたよりも、家事が好きになった。習ったら、掃除も片付けも食事作りもできる。
今できないのはやりくりくらいだ。これは、パートナーが趣味で管理してくれているので、その範囲で失敗していこうと思う。
さしあたっては、同じようなものを何度もひたすら買ってしまうのをなんとかしたい。

今興味があるのは、不動産のことと、男女の差について。
「女と男」という本を主治医に教わったのでそれをぼちぼち読んでいる。
それから、岩波の「育児の百科」。
これは、73歳の主治医が自分の育児の時に使った本だそうだ。
つまり、おおよそ50年以上前の本だ。
でも、内容は今でもほとんど通用するもので、すでに「痛みを怖がる人がいるのだから無痛分娩を勧めていくべき」ということが書いてある。
遺伝性の病気を持っている人が子供を持つのに悩んでいたら、一度読んでみたらいいと思う。
30歳までに子供を産んだほうがいいと強く書かれているところは少し困ったと感じたが、それ以外は読んでいてとても楽しい。
発刊当時は、いわさきちひろの絵が載っていたそうだ。

わたしは、英語が弱いので、英語をもう少し何とかしたい。
だから、ヒップホップでも聞いて、英語の言い回しを増やそうと思う。
kohhさんは海外のファンが多いから、きれいな英語の訳をつけている人がたくさんいる。
だから、それを読むだけでも、勉強になる。
イディオムや文法、単語……。つまり全部だけれど、勉強をして、しすぎということはない。
しなくても済むけれど、したほうが楽しい。

例えば、不動産の買い時について考えるのにも、中学校の公民の知識でかなり理解できる。
マンションに絞ると、
利率、税金が高い時には値下がりする。
利率、税金が安くなると値上がりする。
それは、ローンを組む層が買おうと思うきっかけが、利率税金だから。
利率が安いと、買おうという動機になる。
だから、需要が増えて、本体価格が上がる。
ローンで買う場合、本体価格×利率+本体価格だから、本体価格が低いか、利率が低いかすれば、安くなる。

でも、本体価格が一番安い瞬間を見極めるのは難しい。特にマンションはそれぞれの固有性があるから。
だから、みんなが利率が低い時が買い時だと考える。
でも、実際には、本体価格が低い時、つまり、需要がなく、供給が有り余っているときも買い時だ。
一番買い時ではないのは、消費税が上がると発表された後の駆け込み需要の時。
政府は、必ず需要と供給を調整しようとするから、消費税が上がった後、たいていの場合は、税金を安くする。

本体価格が上がったり下がったりするには、株価が影響する。
キャッシュで買う層も、ローンで買う層も、どちらも、祖父母力(勝手につけた)が関係する。
祖父母の支援を受けてマイホームを買う人が多いので、祖父母(実家)が持っている財産の形成が株によってなされている場合、株価が上がれば、支援する動機とパワーが高まるので、現役世代が買おうとする。
だから、需要が高まって、値段が上がる。

今後は、オリンピックの後に、値段が下がると予想した人たちが、値段が下がる前にと手放し始めたので、値段が下がりつつある。

上記のことは、中学生の時の知識があればわかる。

わたしは、今、本を読んだり、知識を増やしたりすることはできていないけれど、体の自由が利かない分、考える時間だけはあるから、こういうことを考えたり、調べたりしている。

こういうのも、勉強だ。
赤ちゃんの発育を記録したり、あやしたりすることも、挑戦だ。
保健師さんにも心配をかけたけれど、保育園を利用することによって、だいぶ回復してきた。
それで、精神も安定して、子育てが面白いと思える。
こういう気持ちの変化も、大事に記録していきたい。


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昨日から【毒親の子が親になった】という本を販売開始しました。
12月3日午後五時から4日午後五時まで、二十四時間の無料配布キャンペーンを行います。
ぜひ、ダウンロードをして、読んでください。
レビューや感想など頂けましたら、とてもうれしいです。また、アマゾンにレビューを投稿していただけると、ほかの人が読むかどうかの判断材料になるので、助かります。

虐待された人間が親になって、まだ三か月ですが、どのように考えているかを中心に書きました。
【内容紹介】
毒親に虐待された子供が、親になるときに、感じたことは、「こんな弱くてかわいい子供に、ひどいことをできるのはおかしい」ということでした。
出産する前よりも、強い気持ちで、親には絶対に会わないことを決意した理由は、虐待の連鎖を防ぎたいからです。
自分のことだけを考えるなら、いつか、自分の気持ちをわかってくれるかもしれないという淡い期待を断ち切れなかったけれど、自分に守るものができて、その期待を捨てようと思いました。

目次
毒親の子が親になった
虐待をしてしまうかもしれないわたしへ
親の喜び
 妊娠初期
 妊娠中期
 妊娠後期
 妊婦に対する男性からの嫌がらせや暴力
 周りの反応
 母親学級による出産にまつわる知識
 出産直前
 成長に対するさみしさ
 親の喜び
 男親のできること
 親には感謝しなくていい
あとがき
奥付


訓練することで見えてくるもの

保育園に見学に行きました。
そこで、四歳くらいの子供の絵を見ました。
遠足に行った時のことを描いた絵だとわかりました。
「バス」「おべんとう」「人がいて」「楽しい」ということが表現されていました。
これは、物事を記憶して、抽象化して、時間ごとに起きたことを切り離せて、しかも、それを平面に表現して、並べることができ、思ったように線画できるという能力がある、と判断できる材料になります。

それで、わたしは「上手だねえ」「すごいねえ」といえます。
わたしがこのようなものの見方をするのは、普段、中高生に勉強を教えているからです。
彼らに、何ができて何ができないのか、あるできなさには、どういう困難があるのか、そういうことを考えながら見ます。
知識がないのか、知識を得る手段がないのか、発育がそれに伴っていないのか、知識を生かす前提がないのか、字を読むことに困難があるか、あるとしたら、目が見えにくいか、字を認識しにくいか、手がうまく動くか、動いたとして、たとえば筆算をそろえて書くことの意義を理解できているか、できていたうえでやれないのか、そういうことを細かく見ていきます。

わたしは基本的にケアレスミスというのは存在しないと思っています。だいたいは、本質的なミスです。
文末まで読む習慣がないとか、文末の意味を理解して、覚えておくことができないか、そういうことで間違えているだとか、そういうことを考えるために「ケアレスミス」という思い込みがあると、その子が何に困っているか、どういう対応をすればいいかが見えなくなるからです。
ケアレスミスは本人がぼーっとしているから起きるというニュアンスがあります。
ボーっとしているとしたら、注意できるようにするために、具体的にどんなことを手伝えばいいのか、そういうことを本来は考えないといけませんが、そこまで考える人はまれな気がします。
だいたいは「気を付けないとだめでしょ!」のようなことを言って終わります。

なんの解決にもならない。

勉強一つとっても、その子の困りごとを解決するために手伝う、そういう姿勢が必要です。
そういう姿勢でいると、見えてくることがあって、その子供の、人格的な側面や、情緒的な成長や、人柄が、非常に影響してくることや、一つの表れを、細かく分解しながら考えていき、どう手伝えばいいのか、考えていくことが大事だということが分かってきます。


わたしたちは人工的に「自然」を作り上げている

わたしが赤ちゃんを産み、育てる過程でわかったことは、人間のふるまいのうち、本能に起因するものは非常に少ない、ということです。

生まれたばかりの赤ちゃんは目も見えません。
なにもかもぼやけていて、境界がない。
わたしたちが物を見るときには、その輪郭線を抽出して、あたかもそこに「線」があるように認識してみます。
光を目が受け取って、処理するときに「明るいところと暗いところの差が激しいところ」に物体と物体の切れ目があるように予想できるようになるまでには、光をただ目で受けるための機関があるだけじゃなくて、脳が発達しないとだめなんです。

赤ちゃんは、自分の体をまだ知りません。わたしの子は、二か月たった今、ようやく、自分には手があるようだ、ということに気づいたところです。
生まれたばかりの赤ちゃんには、いくつか反射があります。手を握ると握り返してくれるとか、口に乳首を入れると吸い付くとか、そういう反射があります。
でも、今でさえ、自分から乳首を離したら、口の中から乳首が消える、という因果関係もわかりません。泣いて怒ります。自分から乳首を「うえっ」と出したくせに、ないと怒ります。自分がのけぞったり、手でつっぱると、乳首が口の中に入りようもない、ということもまだわからないのです。

これはとても興味深いことで、わたしたちが「当たり前」だと思っていることは、かなり分解して考えられた結果だということです。
吸い付いている乳首から口を離したら乳首がなくなる、というのは、「自然」ですが、それを理解するかどうかは「自然」じゃないわけです。乳首から口を離す、そうすると口の中から乳首がなくなる、泣く、これは因果関係を理解するという行為です。
これはもう思考の範囲だから、「人工」的なことであって、本能ではないのです。
「本能」と言われること、「生物学的に自然」と言われることはたいてい嘘です。
生物学的に自然と言っても、生物の種類によってその振る舞いは全く別です。本能として、生まれたときから持っている能力というのは、人間の場合、自発呼吸、眠る、口に何か入ったら吸う、足を曲げる、握り返す、泣く、くらいです。
指をしゃぶるという行為すら、時間をかけて、発見し、練習し、学習して、獲得することなんです。

唯一「自然に」行われることは、人間は、「発育することに前向き」だということくらいです。
成長していくことだけは、自然に進んでいきます。それが早かったり遅かったり、刺激を与えることで、よりスムーズに進むようにすることはありますが(つまり、この時点で人工的な部分が紛れ込んでいます)、発育していきたい、という欲求だけは、もともと備わっているようなのです。
ただ、それも、「学習」によって、進んでいくようです。

社会は頑張って異性愛者を育んでいる 同性愛は先天的か後天的かの議論を超えて
この記事が面白かったのですが、ようは「自然発生的に」「欲望するということ」はなにか、という問いだと思いました。
わたしが見る限り、自然発生的に欲望していることは、「成長する」「発育する」ということだけです。
発育した結果、「何かに欲望を持つ」ことになるわけだから、その何かが選ばれる過程は、わたしの「親」という立場からすると、「自然発生的」欲望じゃないです。
わたしが、例えば「異性愛」が普通だと教えたとしても、それに対する反応が、「それをそのまま受け入れる」としても、「自分はどうやら違うようだ」と思うことだとか、「自分も異性愛というやつらしい」と思うかどうかは、わたしは操作できないです。
ただ、「それが普通」ということは言えます。でも、それはすでに恣意的なわけです。つまり、人工的だということ。
そもそも「この人は女だ」「この人は男だ」と判断すること自体が、かなり雑です。
二つの分けるということは、ある特徴のある生物群を抽象化するという過程をどうしたって経ないといけないわけですが、それも「思考」なわけです。まず、五感で感じて、それを人だとか動物だとか生物だとかそういう風に認識して、それからさらに、その特徴を抽出して、今まで得てきた情報のデータベースに照らし合わせて「この人は女/男」だという答えを出すわけです。
でも、それを答え合わせするわけじゃないし、答え合わせしたところで「正解」かどうかもわからないわけです。

異性愛という概念が成り立つ前提には「女と男というものがあるらしい」「自分と同じ性別というものがあるらしい」ということが了承されていないといけないのですが、そもそも「同じ性別」というのが上記の記事でもあるように、すでに怪しいのです。
自分がこの人は女だ、と判断した人が、「女」であると確実に言えない。
外性器が女かもしれない、内性器が女かもしれない、染色体が女かもしれない、自意識が女かもしれない、どの段階で女かどうか判断するか?
わたしたちには、それが難しいから、記号的に「こういうふるまいをするから」「こういう体つきだから」「こういう衣服を着ているから」と文化的に判断します。誰が女か男かを決めること自体が、文化に依存します。日本だと外性器が女か男かで決めることが多いです。外性器が女だったら女らしい振る舞いをして女らしい服装をします。
だから、男性はおおむねスカートを穿かないし、女性は上半身裸で過ごさない。それをすると、「文化的な秩序」が壊れて、当たり前として了解している約束事がぐらぐらして、人は不安になるのでしょう。
毎回毎回、「当たり前」について疑ってかかるのは、大変疲れることです。

自分が女か男かもはっきりしない状況で、自分が好きだと思った相手が女か男かわからない状況だと、「異性愛」という概念が発生しようもありません。だから、「自然に」異性愛になるわけじゃないのかなと思います。

親として、子供を育てていて、本能的に育てられる部分はほとんどありません。
せいぜい、産んだ後母乳をやると、子宮が収縮しやすい、赤ちゃんを抱くと胸がきゅーんとする(たぶんホルモンが出る)くらいで、かわいがって育てるとか、抱くとか、乳をやるとか、そういうことは学習してできるようになったことばかりです。

わたしは生まれつき備わっていることって、体の機能的な部分と、「成長したい」という方向性くらいだと思いました。
自分の体は自分のものであり、自分が大切にしていい、自分がコントロールできるという感覚だって、当たり前に最初から備わっているわけじゃなくて、周囲と本人の協力によって、育てていくものです。

わたしは、小学三年生くらいまで、いつか、ちんちんが生えてくるんだと思っていました。
心配なようであり、楽しみなようで、いつかな、と思っていました。
生まれつきちんちんが生えている子と、それ以降の行いによってちんちんが生えてきて女の子から男の子になる人間がいるんだと信じていたんです。
でもわたしにちんちんが生えてくることもなく、わたしは、ヘテロセクシュアル、シスジェンダーの女性に育ちました。

生まれつき「こうだから」じゃあ認めてあげよう、というのはそういうことで、おかしいと思います。
最初から最後まで変わらない人のほうが珍しいと思います。
人は揺らぎながら成長して、疑問に思うことを確かめることで、「自分」というものを確立していきます。
それは赤ちゃんの時から、少なくとも、わたしが今この年になるまでは、そうだったみたいです。

本能的に行われることがそもそもわずかなので、欲望に至っては、ほとんどが、知識や情報によるもので、それに対する反応は様々だけれども、それが個性と呼ばれることじゃないかなと思います。


男尊女卑に染まると、成績が伸び悩む

統計やデータを必要とする人は、読まないでください。
わたしは、データも大事だけど、現場の感じていることも、貴重な情報だと思うので書きます。
聞き取りやフィールドワークも研究になるのだから、データデータという人はちょっと滑稽にも感じるのだけれどそれはおいておいて。

スマホを手にした男子高校生は、男尊女卑に染まります。
スマホを持つまで、ネットを見る時間が長くなるまでは普通の子だったのが、ネットの記事を読みだすと、お母さんをバカにし、目上の女性をバカにし、年下や同級生もバカにするようになります。
すると、周りから人がいなくなります。
そして、「理解されない」という恨みを抱き、「理解しないほうが悪い」と思考が転換していきます。
そうすると、ますます、ネットの男尊女卑にすがるようになる。
男尊女卑というのは、妄想です。
男というだけで、素晴らしくすぐれている、という妄想です。
だから、それに染まると、まったく努力をしなくなる。
しなくても、自分は男だから、で止まってしまうようです。
それに、努力はすればするほど、いかに自分が卑小な存在か突きつけられるようになりますからね。
一度、男尊女卑の甘い蜜を吸うと、その「卑小な存在だ」「何もできない存在だ」ということに耐えられなくなるみたいです。

ネットに、コンビニに、本屋に、ポルノ的なイラストや、ポルノそのもの、性暴力があると、何が悪いか、というと、自分が女性に性的嫌がらせをしても、「許される」と思い込んでしまうという弊害があります。
男子高校生が、「女性の裸に近い姿のイラスト、ポーズは煽情的」なものを見せてきて「どう思う?」と聞いてきました。
それは、性的嫌がらせです。だから、わたしは、その子と話すことが嫌になりました。
でも、彼は、そういうことをしても、いいと思っているからそうしたわけです。
だって、性的嫌がらせをしても、女の子は赤面したりキャーというだけで許す、という物語があふれているからです。
環境的にも、ポルノはたくさん売られています。だから、そういうものを、女性も見慣れているし、見せていいんだと、彼は勘違いしたんだと思います。
だけど、そういうことをしていると、人に嫌われます。当たり前だけど。
人に嫌われると、適切な助言をしてもらえなくなります。男尊女卑があるから、わたしの勉強に関する助言も聞かないです。

それどころか、わたしに「母親たるもの」というような説教をしてきます。

そういうことをするのは、彼女がいる子もです。モテないからそうなるとは限らないのです。

全体的に女の子は、教えれば、成績が伸びます。やる気もある、努力もする、伸びないわけがありません。
でも彼女らがしっかりしているのは「女の子だから」と抑圧されてきた結果だから、それはそれで、わたしはひっかかりを感じています。

「女の子は浪人を許さない」「女の子だから、そんなに上を目指さなくていい」「そもそも教育は必要ない」という保護者はまだまだ大勢います。だから、女の子は「子供時代のリミット」を常に目の前にぶら下げられているため、しっかりせざるを得ないのだと思います。だから、女の子は、能力が高くなりがちです。

男の子でも、勉強ができる場合があって、それは二通りです。
教育熱心な家庭であるか、お父さんがお母さんを尊重する家庭であるか、どちらかです。
でも、本当にそういう男の子は少ないです。なかなか根深い問題です。

男尊女卑というのは、男と女が世の中に二通りだけ存在しており、男というだけで偉い、と妄想する、妄想の中でもきわめて雑な妄想です。
客観性がないのだから、もちろん、学業も伸び悩むのも当たり前かもしれません。
男尊女卑の染まることで、その人の能力が限定されてしまうのだとしたら、差別者自身も、不幸せなことだと思います。
差別される側は言うまでもなく。
(ただし、差別が存在して、世の中を動かしているので、下駄を履かされている男性が、能力が低くてもそれなりの地位に就けるという現実もあります。その現実自体が、男性の能力を制限する過程を再生産しているともいえます)